学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

棚田について

2017-07-22 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 7月22日(土)11時06分10秒

>ザゲィムプレィアさん
『国史大辞典』を見たところ、

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耕地の傾斜が一定の限界を超えているため、自然の地形のままでは耕作できない場合、山腹などの傾斜地に階段状に耕地を造成したもの。梯田・膳田ともいわれる。このようなものは必ずしも水田に限らず畑にもあるが、その場合は棚畑とか段々畑といわれる。中世における耕地の開発は、平坦な平野部の開発から山間谷あいの棚田に象徴される山田の開発に進み、畿内周辺部や辺境の谷状地形の地域で、谷戸(やと)田・迫(さこ)田とも呼ばれる小規模の開発が行われることが多かった。棚田は山腹や沢の傾斜面に石積みなどして階段的に切り開いた田畑で、湧水や溜池の灌漑を中心に古くから発達したものである。近世の検地においては山間などの棚田数枚を一筆にまとめて縦何間、横何間、総坪数何坪の田地と野帳に記すのであって、これを拾歩(ひろいぶ)と呼び、石盛も下々田より下げて付け、取箇もともに低かった。
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とありますね。
また、「棚田学会」サイトの「棚田の起源」には、

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検証1:和歌山県立博物館学芸員の高木徳郎氏の「棚田の初見資料」について」
棚田学会誌「 日本の原風景・棚田」7号(pp111~115,2006)の報告では、以下(事務局にて要約)のようである。

「覚鑁上人によって建立された高野山の大伝法院が領有する荘園の一つとして、平安時代末期の康冶~久安年間(1142~1151)にスタートした「高野山領志富田荘」を、高野山が、建武5(1338)年、正平11(1356)年、長享3(1489)年のそれぞれ三回検注(耕地の面積、地味、耕作者、作柄などを調査すること)を行ったが、最も古い建武3(1338)年の検注帳が現存しており、以下のように「棚田」の文字が見える。」
「棚田一反御得分四十歩ハ余田・・・・・・・・・(略)」 (かつらぎ町史編集委員会編「かつらぎ町史  古代・中世資料編に収載)


とあり、棚田が中世に遡ることは史料的にも確実のようです。
もっとも、数としては近世の事例が多いのでしょうね。
そして、中には相当強引な開発を行って環境破壊を惹き起こしたような事例もあったのでしょうが、少なくとも現在残っている棚田、特に観光地として有名な棚田は周辺の自然と安定的な関係を築き上げているので、開発当時の状況を想像するのはなかなか困難ですね。
「棚田学会」サイトの「棚田の意義」には美辞麗句が並んでいますが、意地悪く裏読みすることもできそうですね。


※ザゲィムプレィアさんの下記投稿へのレスです。

Re:<江戸時代の最初の百年間は、むしろ凄まじい「環境破壊の時代」> 2017/07/20(木) 23:58:19

標題の文は初めて見たと思いますが、それで思い出した語があります。棚田です。多くの日本人が棚田に愛着を示しますが、私はそれに違和感を禁じ得ません。
江戸時代に人口が増加したものの新たに水田を開拓することに適した土地が無いという条件のもと、効率が悪い(単位面積当たりに投入する労働が大きくなる)ことが分かっていても作らざるを得なかったのが棚田でしょう。
ひょっとすると少なくとも棚田の一部は環境破壊の証拠なのかもしれません。

それから江戸時代の山と林と聞くと、尾張藩や秋田藩が代表的ですが藩が積極的に植林して林を管理したイメージがあります。
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