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リサ・ブルーム氏の批判

2015-02-01 | 映画・演劇・美術・音楽
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 2月 1日(日)21時36分56秒

北原恵氏「"招待"への再考─《ディナー・パーティ》をめぐるフェミニズム美術批評」の続きです。
井野瀬久美恵氏の要約では分かりにくかった事実関係が、この説明で概ね把握できますね。

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 ところが最近、合州国の研究者リサ・ブルームによって、シカゴのユダヤ人性に注目しながら彼女のアート活動と《ディナー・パーティ》を再解釈する試みがなされた。「1970年代の民族概念とフェミニストの戦略─エレノア・アントンとジュディ・シカゴの作品をめぐって」と題された1997年の論文において、ブルームは、シカゴが「最後の晩餐」のメタファーを使ったのは、白人クリスチャンのアイデンティティを引用することであったと述べている。さらに、シカゴの改名についても同様の理由があったのではないかと指摘している。
 ジュディ・シカゴは、ジュディ・コーエンとして、1939年、シカゴのユダヤ人家庭に生まれた。1961年に最初の結婚をし相手の姓ゲロウィッツを名乗っていたが、夫の死後1970年、「LAの男っぽい美術界でやっていけるよう」荒っぽく攻撃的な感じのする「シカゴ」に変えるようにという画廊のオーナーのアドヴァイスに従って改名した、と最近になってシカゴ自身が説明している。
 だがこの改姓について、シカゴが一冊目の自伝『花もつ女』(1975年)のなかで行っていた説明は、異なっていた。

「私はまた、作品の中で女であることを明白にしたかったので、そのために私の名前をジュディ・ゲロウィッツからジュディ・シカゴに変えることにした。これは私自身をひとりの独立した女性として認識するための行動だった。・・・そして私の名前変更の件が入口の真向かいの壁に掲げられた。こんな言葉で─『ジュディ・ゲロウィッツはここに男性支配を通して彼女に課せられたすべての名前を捨て、自由に彼女自身の名、ジュディ・シカゴを選ぶ』。」

 このように改姓は、家父長制に対するフェミニストの抵抗として説明されていたのである。彼女の名前変更については、1970年10月号に掲載したシカゴの展覧会広告においても宣言されたが、リサ・ブルームはこの広告を取りあげ、「シカゴは、もともとの民族的な名前を変えて、有名な白人の非ユダヤ人女性として、自分の民族より優勢なグループへと乗り換えた」と分析した。さらにシカゴがモハメッド・アリに自らを擬している点に注目し、「黒人性とフェミニズムの親和は、アヴァンギャルドの<人種的ロマンティシズム>の伝統を呼び起こすものになりかねない」と厳しく批判した。だが、なぜ、1970年代、ユダヤ人女性アーティストや作家たちは、自分たちの民族性を公においては軽視し、合州国のフェミニストの政治学や文化に同化したのであろうか? ブルームはその理由を「第一に、当時文化的エリートの一員として認められるためには、カリフォルニアで蔓延していた反ユダヤ主義的な公的文化に同化しなければならないという抑圧が存在したことと、第二に、伝統的ユダヤ文化内には女性のステロタイプが根強くあり、それに当てはめたいという家族や家庭の期待から切り離されたいという願望があったのではないかということ、第三に、「女」のカテゴリーを本質化・普遍化したいという願望は、女がユダヤ的ダイアスポラという特殊な民族性の外部にいると同時に、国家的文化の外部にいることを位置づけるのに役立った」からだ、と分析している。シカゴのユダヤ人性に注目した批評がこれまでなかったこと自体、フェミニズムの抱える問題を表していると言えるが、今後、「白人内部」の差異や民族性に着目したフェミニスト批評は増えるものと思われる。
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まあ、私のような門外漢にはずいぶん難しい世界ですが、それでもリサ・ブルーム氏の批判内容には若干の疑問を感じない訳でもありません。
その点はまた後で少し書きます。
なお、北原恵氏は『超域文化科学紀要』第3号の執筆者紹介には博士課程在学とありますが、現在は大阪大学大学院教授だそうですね。

北原恵
http://www.let.osaka-u.ac.jp/nihongaku/member/kitahara.html
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