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『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その3)

2020-10-31 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年10月31日(土)12時59分1秒

偽りの起請文を書いたって別にかまわないと直義が言うと、尊氏も直ぐに「至極の道理」だなどと納得してしまう場面、けっこう笑えるように思えますが、この記述に注目している研究者はあまりいないようですね。
直義の文書に関するドライな感覚は、建武二年(1335)十二月、後醍醐との対決を避けるために自分は出家するとゴネる尊氏を翻意させるため、たとえ出家しても勅勘は免れないのだという趣旨の偽綸旨を十数通偽造する場面でも遺憾なく発揮されますが(第十四巻、「箱根軍の事」)、こちらは宗教的権威ではなく天皇の権威の問題です。
この時、尊氏の依怙地さに周囲が困惑する中で、上杉重能が「謀(はかりごと)の綸旨を二、三通書いて、将軍に見せまゐらせ候はばや」と提案すると、直義はあっさり了解します。
そして重能に命じて名宛人を異にする十数通の綸旨を偽造させると、それを持った直義は建長寺(『梅松論』では浄光明寺)に籠る尊氏のもとに行って、敵から奪ったと称する綸旨を尊氏に見せ、「とても遁れぬ一家の勅勘にて候へば、御出家の儀を思し召し翻して、氏族の浮沈を御扶け候へかし」と涙ながら訴え、それを聞いた尊氏は「謀書とは思ひも寄り給はず」、それでは仕方ない、自分も戦うぞと宣言します。(兵藤校注『太平記(二)』、p376)
綸旨の偽造だなんて天皇の権威を全く無視する恐ろしい所業ではないか、大変な犯罪ではないか、と思われますが、別に『太平記』は重能や直義を非難することもなく、直義の小芝居に騙された尊氏も、後から直義に苦情を言ったりはしません。
まあ、私は『太平記』を大河ドラマのようなものと考えるので、偽綸旨のエピソードも真偽不明と言わざるをえないと思いますが、しかし、『太平記』の作者は、綸旨の偽造ぐらい別にたいしたことじゃないよね、という基本的発想で書いていて、読者・聴衆も、まあ、そんなもんだよね、で納得してしまっているように思われます。
こうした文書に関するエピソードは、南北朝期において宗教的権威とはいったい何だったのか、天皇の権威とはいったい何だったのか、という問題を考える上では極めて大事な素材のように思いますが、こうした問題を追及している歴史学研究者は誰かいるのでしょうか。
国文学研究者では、小秋元段氏が「「雲景未来記」の批評精神と『太平記』の現実感覚」(『アナホリッシュ国文学』第8号、2019)で偽綸旨のエピソードについて少し検討されているので、後で紹介したいと思います。
さて、「降参」の問題に戻って、『太平記』第九巻「足利殿上洛」の続きです。(兵藤校注『太平記(二)』、p40)

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 足利殿御兄弟、吉良、上杉、二木、細川、今川、荒川以下の御一族三十二人、高家の一類四十三人、都合その勢三千余騎、三月七日、鎌倉を立つて、大手の大将名越尾張守高家に三日先立つて、四月十六日には、京都にこそ着き給ひにけれ。
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今川了俊がこの記述を見ていたとすれば、自分の家の順番など、相当に気になるところでしょうね。
上杉が「御一族」の中に入っていて、しかも吉良に次いで二番目というのはちょっと不思議な感じがしないでもありません。
また、足利の「御一族」が三十二人で「高家の一類」が四十三人ですから、数の上では高一族の方が三割強多くて、これも少し意外です。
以上で第一節が終わって、第二節に入ります。(p40以下)

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久我縄手合戦の事

 両六波羅は、度々の合戦に打ち勝つて、西国の敵なかなか恐るるに足らずと欺〔あざむ〕きながら、宗徒〔むねと〕の勇士と憑〔たの〕まれたりける結城九郎左衛門尉、敵となつて山崎の勢に馳せ加はり、またその外〔ほか〕国々の勢ども、五騎、十騎、或いは転漕〔てんそう〕に疲れて国々に帰り、或いは時の運を謀つて敵に属しける間、宮方は、負くれども勢いよいよ重なり、武家は、勝つと雖も兵日々に減ぜり。かくてはいかがあるべきと、世を危ぶむ人多かりける処に、足利、名越の両勢、また雲霞の如くに上洛したりければ、いつしか人の心替はつて、今は何事かあるべきと、色を直して勇み合へり。
 かかる処に、足利殿は、京着の翌日より、伯耆船上〔ふなのうえ〕へひそかに使ひを進〔まいら〕せられて、御方に参ずるべき由を申されたりければ、君、ことに叡感あつて、諸国の官軍を相催し、朝敵を追罰すべき由、綸旨をぞ成し下されける。
 両六波羅も名越尾張守も、足利殿にかかる企てありとは思ひも寄るべき事ならねば、日々に参会して、八幡、山崎を攻めらるべき由、内談評定一々に、心底を残さず尽くされけるこそはかなけれ。「太行〔たいこう〕の路〔みち〕能〔よ〕く車を摧〔くだ〕く。若し人心に比すれば、これ平路なり。巫峡〔ぶこう〕の水能く船を覆す、若し人心に比すれば、これ安き流れなり。人の心の好悪太〔はなは〕だ常ならず」と云ひながら、足利殿は、代々、相州の恩を戴き、徳を荷〔にな〕うて、一家の繁昌、恐らくは天下に人肩を双ぶべき者ぞなき。その上、赤橋前相模守の縁になつて、公達あまた出で来させ給へば、この人よりも二心〔ふたごころ〕はおはせじと、相模入道ひたすらに憑〔たの〕まれけるも理〔ことわ〕りなり。
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ということで、尊氏は「京着の翌日」、即ち四月十七日に伯耆船上山の後醍醐に使者を送って自らの反逆の意思を伝え、後醍醐は格別に「叡感」があり、朝敵追罰の綸旨が下されたことが記されます。
他方、六波羅の両探題や名越高家は尊氏の陰謀を知る由もなく、日々参会して戦略を練っていたのははかないことであり、足利家は代々北条家の恩を受け、経済的に極めて豊かで、更に尊氏は執権赤橋守時の妹を正室に迎えたのだから、まさか裏切ることはないだろうと北条高時が思っていたのも理だ、という『太平記』の書き方は、けっこう幕府側に同情的なようにも思えます。
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