学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「『太平記』研究はこの二十年、何を明らかにしたか」(by 小秋元段氏)

2020-10-26 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年10月26日(月)16時45分10秒

兵藤裕己氏と呉座勇一氏のほのぼの対談を読んだ後、私は清水克行氏の「初代足利尊氏」(『室町幕府将軍列伝』、戎光祥出版、2017)に「近年、『太平記』は、その成立に室町幕府が大きく関与していたことが指摘され、いわば室町幕府の準正史、「室町幕府創世記」としての性格をもつことが明らかにされている」(p11)とあるのに気づいて、清水氏も『太平記』の基本的性格については兵藤説完全支持であることを確認しました。
また、亀田俊和氏も『難太平記』の『太平記』に関する記述については基本的に兵藤説を支持されているようで、兵藤説の歴史学研究者への浸透度はすごいですね。

兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その12)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d9fcca15b7d2136c654f634d3edd676e

兵藤氏の出世作『太平記<よみ>の可能性』(講談社選書メチエ、1995)を見ると兵藤氏が網野善彦氏の多大な影響を受けていることが分かりますが、最近は歴史学では網野説批判が強く、兵藤説は梯子をはずされたような格好に見えます。
それなのに、網野批判の急先鋒の一人である呉座氏を始め、中世史研究をリードする歴史学研究者の多くが兵藤説に甘いのは何故なのか。
これは私にはちょっとしたミステリーなのですが、歴史学での高評価に対し、国文学の世界では兵藤説の評判はそれほどでもないように思われます。
この点、小秋元段氏の「『太平記』研究はこの二十年、何を明らかにしたか」(『日本文学研究ジャーナル』第11号、2019年9月)が参考になるので、少し引用してみます。
まず、この論文の趣旨ですが、小秋元氏は冒頭に、

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 一九九九年七月刊行の日本文学研究論文集成『平家物語 太平記』(佐伯真一・小秋元段編、若草書房)末尾の「解説」において、筆者は一九八五年前後を一つの画期と見なし、それ以降、十三、四年間の『太平記』研究の来歴をまとめた。これを受け、本稿では九九年以降、二十年の動向を振り返りたい。【後略】
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と記されています。
全体の構成は、

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一、『太平記』とはいかなる作品か
二、『太平記』成立の文学的環境(一)─漢籍受容を中心に─
三、『太平記』成立の文学的環境(二)─和歌受容、史的背景を中心に─
四、諸本研究の進展
五、享受史研究の進展
六、日本語学的研究の可能性─むすびにかえて─
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となっていますが、私が興味を惹かれるのは第一節です。(p31)

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一、『太平記』とはいかなる作品か

 『太平記』をいかなる作品ととらえ、いかに評価するかという問題は、永積安明、続日本古典読本『太平記』(日本評論社、48年)以来、『太平記』研究の中心的テーマであった。戦乱を描いていながら「太平記」と名乗ること、「序」の政道論と「北野通夜物語」の因果論との矛盾、唐突な終わり方等々、『太平記』には作品をとらえるうえで課題となる点が少なくない。そして、この作品をとらえるための前提には、『太平記』固有の成立過程の問題があった。恵鎮によって足利直義のもとにもたらされた本が、直義や玄恵のもとで修訂される。その作業は中絶したあと、再び書き継がれる。完成期の『太平記』の作者には小嶋法師なる名も伝えられる。このようにして成立した『太平記』には、各過程の主題・構想・思想・意図が重層的に残存し、それが作品世界を複雑なものにしていると考えられてきた。したがって、『太平記』をとらえるにあたっては、成立論や作者論をもとに構想や思想を論じるという手法がとられる傾向があった。
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いったん、ここで切ります。
細かいことですが、小秋元氏は「完成期の『太平記』の作者には小嶋法師なる名も伝えられる」と書かれているので、『洞院公定日記』で「太平記作者」「小嶋法師」が死去したとされる応安七年(一三七四)四月の段階で既に『太平記』が完成していた、と考えておられるようですね。

兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その15)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/63132f0b57a404768dfb1b07b436cd82

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 だが、現存本から各成立過程の古層を探ることは容易でない。私たちが手にしているのは現存本の本文だけで、恵鎮が直義のもとへ持参した段階の本文も、直義のもとで修訂された段階の本文も残ってはいないからだ。よって、成立論・作者論より類推される古層を現存本から透視し、各過程の『太平記』像をとらえる手法がとられたわけだが、それは聊か冒険的な試みを含むものであった。あくまでも現存するのは完成期の本文に過ぎないことに加え、成立・作者を論じるには資料があまりに少ないためだ。いきおい憶測が入りこみ、主観を交えた『太平記』像が構築される。そのようになることへの恐れからか、今期は成立過程を視野に入れ、『太平記』とはいかなる作品かを論じた成果は多くなかった。
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「成立論・作者論より類推される古層を現存本から透視し、各過程の『太平記』像をとらえる手法」の典型が兵藤説ですね。
兵藤氏は『難太平記』から三段階説・幕府「正史」説を導き、第一段階では「後醍醐の鎮魂の意味も込めた一代記」として「それなりに首尾一貫」していたが、第二段階で「足利政権周辺」の後醍醐への否定的評価が「混在」し、更に第三段階で後醍醐「怨霊化」などの「加筆・改訂」がなされた、と考えておられます。
しかし、そのように第一段階の「原太平記」、第二段階の改訂版「原太平記」を「透視」しようとする「聊か冒険的な試み」は、「あくまでも現存するのは完成期の本文に過ぎないことに加え、成立・作者を論じるには資料があまりに少ないため」、結局は「憶測」「主観を交えた『太平記』像」に止まることになり、後続の研究者にとって検証は不可能です。

兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その12)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d9fcca15b7d2136c654f634d3edd676e

ということで、この後、小秋元氏は和田琢磨氏の「功績者尊氏像の形象法」(『『太平記』生成と表現世界』新典社、15年。初出、13年)や「武家の棟梁抗争譚創出の理由」(同所収。初出、04年)や市沢哲氏の「『難太平記』二つの歴史的射程」(『文学』隔月刊3-4、02年)などに言及されますが、いずれも兵藤説を補強するような方向での研究ではないようですね。
さて、では現在はどのような研究がなされているのか。(p32)

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 『太平記』の矛盾する叙述を成立過程をたどって分析する立場がある一方で、現存本を対象に矛盾を矛盾としてとらえる立場も存在する。大津雄一「『太平記』の知」(『中世の軍記物語と歴史叙述』竹林舎、11年)は、『太平記』における論争の場面がおびただしい知を動員しつつも、結局のところ、有効な結論を導き出せずにいることを指摘する。『太平記』にとっての知は、世界を一つの価値観にまとめあげるものでは決してなく、むしろその多声性をはらむ点に特徴があるという。大津のこうした指摘は、『太平記』のなかに一つの筋を見いだそうとする従来の構想論への批判でもある。
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大津論文は未読ですが、「『太平記』における論争の場面」とは、具体的には「北野通夜物語」(西源院本では巻三十五「北野参詣人政道雑談の事」)のことでしょうね。
大津氏が兵藤氏の好む「多義性」ではなく「多声性」という表現を使っておられることは極めて重要と思われます。

兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その11)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e382ccb38bc7e16008d8636e6ab9f26f
兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その17)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0c6970ab230a337886d62cb29cb1729b

この後も多くの論文が紹介されていますが、煩瑣になるので省略します。
結局、兵藤説は永遠の「不可知論」「水掛け論」であり、出発点と終点が同じ場所の循環論なので、後続の研究が生まれる可能性は最初から断たれているように感じます。
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