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『たまきはる』の女房名寄せ(その2)

2020-04-08 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 4月 8日(水)12時29分14秒

予備知識の追加として、角田文衛氏の『日本の女性名(上)』(教育社歴史新書、1980)から少し引用します。
まずは「第一部 古代」「8 平安時代後期」から。(p241以下)

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女房たちの候名

 宮廷や院宮、大臣家などに仕える女房たちの候名は、中期とほとんど変わらなかった。やはり候名は、父の官職によるのを原則とした。たとえば、馨子内親王の乳母典侍〔めのとのすけ〕で、候名を中納言と称した藤原忠子は、権中納言・忠輔の娘であった。伊予内侍こと掌侍・高階秀子の父は、伊予守・盛章であった。『讃岐典侍日記』の著者としてあまりにも有名な讃岐典侍こと藤原長子の父は、讃岐守・顕綱であった。肥後内侍の名で知られる掌侍・高階基子は、肥後守・基実を父としていた。この種の例は、ほとんど際限なく挙げられる。しかし一方、候名のよってきたるところの不明な女房もまた少なくない。建礼門院右京大夫の候名の由来なども、確認できぬ例の一つである。
 周知のとおり、後鳥羽天皇の生母(後の七条院)の藤原殖子(一一五七~一二二八)は、修理大夫・信隆(一一二六~一一七九)の娘であって、初め中宮・平徳子に仕え、候名を「兵衛督」と称したが、この名の由来も明らかでない。しかし、たとえその由来が今日不詳であるにしても、女房の候名は、祖父、外祖父、養父など親族にひろく名祖を求めたものらしく、全く任意に、またはよい加減に命名されたとは考えにくい。
 それに建春門院の女房の一覧表を通覧しても明白なように、平安時代後期には、元来の身分に応じて女房の間に上臈、中臈、下臈の区別が固定し、下臈の女房が「大納言」などと称することは聴〔ゆる〕されなくなった。
 平安時代後期になると、大納言はおろか、大臣の娘や妻すらが宮仕えに参仕した。右大臣・藤原兼実は、関白・基房(一一四五~一二三〇)の正妻の藤原忠子が言仁親王(安徳天皇)の乳母に参仕したことに触れ、非難の意をこめて、
  執政の室、乳母と為るの例、古今いまだあらず、時宜に随って例を起始さるる歟。
と記している。
 これら最高級の公卿の娘や妻は、御所における局の位置によって、「東の御方」、「西の御方」、「廊の御方」といった尊称で呼ばれたし、また、以上をふくめた上臈の女房たちは、里第に因んだ候名、すなわち「堀川殿」、「三条殿」、「冷泉殿」などの名をおびることが多かった。
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p242~243に「建春門院の女房の一覧表」が出ていますが、定番の女房(「近く候ひし人」)二十五名(上臈八名、中臈七名、下臈十名)だけのリストで、他に一箇月交替で勤務する「番(の)女房たち」三十五名がいます。
さて、次に「第二部 混成古代」の「1 鎌倉時代」から引用します。(p283以下)

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 わが国では、古くから実名を呼ぶことは回避されていたから、とくに宮廷貴族の間においては、字〔あざな〕に「御前」をつけ、あるいは官名、候名、居所名に因んで相手の女性を呼んだのである。
 「れいぜい(冷泉)殿」「一条殿」(藤原実氏の娘)「禅林寺殿御方(掄子女王)」 「押小路女房」(藤原俊成の娘。大納言・源通具の妻)
  「山井殿」(修理大夫・藤原頼輔の娘。従三位。皇嘉門院女房。太政大臣・良平の母)「愛寿御前」(藤原俊成の娘)
等々は、その例である。
【中略】
 なお、藤原定家は、古今集歌人の藤原因香〔よるか〕の名がひどく気に入っており、長女に因子(民部卿典侍)、次女に香子という名をつけたのであった。
 藤原因子は、「民部卿」という候名で出仕した。これは、父・定家の官職名とは無関係に勅定されたのであり、定家が民部卿に任ぜられたのは、それより一二年も後の建保六年(一二一八)七月のことであった。
 鎌倉時代における内裏や院宮の女房たちの候名は、平安時代後期とあまりかわらなかった。ただ父兄や夫の官職名とほとんど関係なく候名が定められたこと、「新」字、ときには「権」字を接頭語とする候名の急増したことが注意にのぼるのである。
  新大納言 権大納言典侍 新中納言 新典侍〔しんすけ〕 新按察典侍〔しんあぜちのすけ〕 新宰相 新少将 新左衛門督〔しんさゑもんのかみ〕

 女房の候名には、一定の型ができていた。大臣やこれに準ずる最高級貴族の娘たちはほとんど女房に参仕せず、稀に上がったさいには、「西の御方」、「廊の御方」といった敬称が与えられた。しかしこの「呼び名」は、家柄のよくない婦人が天皇の寵をこうむったようなときにも用いられた。
 一般に内裏では、天皇の乳母たちが典侍〔すけ〕に任じ、三位に叙され、女房としては最上位を占めていた。大納言典侍、権中納言典侍、別当典侍、按察典侍〔あぜちのすけ〕、督典侍〔かうのすけ〕など、候名は若干の種類はあったけれども、従三位、ときには従二位典侍であることにはかわりがなかった。つぎに鎌倉時代における主な内乳母〔うちのめのと〕の歴名をかかげてみよう。これらの女房の実名を一瞥してみると、父の偏諱〔かたいみな〕をもらった女性の少なくないことが気づかれる。
 乳母典侍〔めのとのすけ〕は、むろん、上臈女房に属していた。といって大納言典侍が最も格式が高いというわけではなかった。大納言典侍は、大典侍〔だいすけ〕、典侍大〔すけだい〕など略称された。大納言という女房名は、内裏ばかりでなく、院宮や公卿の邸宅にも存在した。たとえば、御子左家の権大納言・藤原為世(一二五〇~一三三八、『新後撰集』の撰者)の孫で、二条関白家に仕えていた女性の候名は、大納言であった。最も皮肉なのは、権中納言兼左兵衛督・検非違使別当の藤原隆房(一一四八~一二〇九)家の上臈女房の大納言が盗賊団の首魁であったことである。
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角田文衛氏は「第一部 古代」の「8 平安時代後期」と、「第二部 混成古代」の「1 鎌倉時代」で分けて書かれていますが、『たまきはる』はこの二つの時代にまたがっており、また、後鳥羽院宮内卿も鎌倉初期なので、時期的に微妙ですね。
鎌倉時代に入ったとたん、「ただ父兄や夫の官職名とほとんど関係なく候名が定められた」とは思えないですし、かといって、「藤原因子は、「民部卿」という候名で出仕した。これは、父・定家の官職名とは無関係に勅定されたのであり、定家が民部卿に任ぜられたのは、それより一二年も後の建保六年(一二一八)七月のことであった」という事例も気になります。
なお、典侍大(すけだい)は、『とはずがたり』の読者には後深草院二条の母の愛称としておなじみですね。

『とはずがたり』における前斎宮と後深草院(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1676461dba8de5ff30afeac5e7b9326a
『とはずがたり』に描かれた北山准后(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2c23745e8b7b9e537a58e693b0f60024

また、四条隆房の上臈女房の「大納言」が盗賊団の首魁であった話は『古今著聞集』巻第十二「検非違使別当隆房家の女房大納言殿、強盗の事露見して禁獄の事」に出てきます。

「首領の正体」(『座敷浪人の壺蔵』サイト内)
http://home.att.ne.jp/red/sronin/_koten2/1272shuryo.htm
菊池寛「女強盗」(『青空文庫』)
https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/50449_36751.html
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