投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 4月23日(木)11時27分27秒
山田氏の論文の「重房は、建長四年(一二五二)三月に宗尊親王に供奉して関東へ下向した」に付された注(9)を見ると、「『上杉系図』(『続群書類従』系図部所収)」とあります。
宗尊親王の関東下向については、一行が鎌倉に入った『吾妻鑑』建長四年四月一日条に相当詳しい記事があり、ここに供奉者のリストがありますが、公卿は土御門顕方、殿上人は花山院長雅、諸大夫は藤原親家、そして医者二名で、他に女房として美濃局・別当局・一条局(中院通方女)、そして源通親の娘である西御方の四人が載っています。
「吾妻鑑入門」(『歴散加藤塾』サイト内)
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma42-04.htm
一般に系図だけに出てくる事実の信憑性には若干の疑念が免れないのですが、上杉重房は果たして本当に一行の中にいたのか。
この点、ウィキペディアには、
-------
『吾妻鏡』建長4年(1252年)4月1日条に記される宗尊親王の鎌倉下向に従った人々の記載には重房の名は見られないが、「宗尊親王鎌倉下向記」『続国史大系』には源通親娘で後嵯峨院の乳母であった「西御方」の介添えとして重房と官位の一致する「とうしんざゑもん(藤新左衛門尉)の存在が記され、重房は式乾門院の没後に西御方に仕え鎌倉へ下向し、宗尊親王に直接仕える立場ではなかった可能性が指摘される[3]。
なお、『尊卑分脈』では重房を式乾門院の蔵人とし、官位については記載されていない。鎌倉期の上杉氏は五位以上の官位を得られずに没落しており、重房は村上源氏土御門流の家人であった可能性が指摘される[4]。
上杉重房
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E9%87%8D%E6%88%BF
とあり、これは久保田順一氏の『上杉憲顕』(戎光祥出版、2012)からの引用のようですね。
久保田順一氏は群馬県の高校に勤務し、『群馬県史』『高崎市史』などの編纂に関わってこられた郷土史家で、『上杉憲顕』も私がいつも利用している図書館に存在することは分かっているのですが、コロナの影響で確認できません。
ただ、『続国史大系 第五巻 吾妻鑑』所収の「宗尊親王鎌倉御下向記」は国会図書館デジタルコレクションで読むことができます。
リンク先で「コマ番号」を399とすると、「附録」の筆頭に「宗尊親王鎌倉御下向記」が出てきます。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991112
全部で六頁あり、最初の方は宿泊・昼休憩の地名と、当該場所における接待の責任者のリストですね。
例えば「やはぎ(矢作)」と「みやぢのなか山」の担当者「あしかゞのにうだう」(足利入道)は足利義氏だろうと思います。
そして、
-------
御ともの上らう。
にしの御方。
女房三人。御かいさく。
一人。 のせのはんぐわんだい。
一人。 さニらうざゑもん。
一人。 ながゐのさゑもん。
びてう一人。 えびのさゑもん。
一てうどの。
女ばう二人。
一人。 おがさはらのにうどう。
一人。 すわうの入道。
びてう一人。 ゆきのはんぐわんだい。内藤ゑもん。
べたうどの。
女ばう二人。
一人。 はたのゝいつきのぜんじ。
一人。 みまさかのにうどう。
びてう一人。 おほうちのすけ。 あさやたのさゑもん。
一ねうばう一人。みのどの。 またのゝなかづかさ。
一びてう一人。 まつもかの人々。
一とし一人。 志をやのへいざゑもん。
くぎやう。
さいしやうの中じやう。あきかた。
てんじやう人。
くわさんのゐんの中じやう。ながさだ。
所たいう。
ひうがのむさのすけ。ちかいゑ。
おなじきおとゝはうぐわんだいねいばうのかいしやく。
さぶらひ
とう志んざゑもん。ねうばうのかいさく。
ぶし。
六はらのさこんのだいぶ。 をなじきけんそく。
御むかへの人々。
をはりのかみ。 むさしのかみ。 あしかゞ二郎。
【以下略】
-------
とあります。
『吾妻鑑』の記述と比べると、おそらく「宗尊親王鎌倉御下向記」は『吾妻鑑』の記述の基礎となった史料のひとつなのでしょうね。
さて、私には公卿・殿上人・諸大夫の次に「さぶらひ」(侍)として登場する「とう志んざゑもん。ねうばうのかいさく。」をどのように理解すべきかが分からないのですが、少なくとも、この記述からは、ウィキペディアの「「西御方」の介添えとして重房と官位の一致する「とうしんざゑもん(藤新左衛門尉)の存在が記され」云々の解釈は無理ではないですかね。
まあ、所詮ウィキペディアですから、久保田順一氏の『上杉憲顕』を正確に反映しているのかも分からず、久保田著を見るまでは何ともいえません。
ただ、西御方との関係はともかくとして、「とう志んざゑもん」が本当に上杉重房だと言えるかというと、他に補強する史料があればともかく、この文言からだけではかなり苦しいのではないですかね。
上杉重房はあくまで「とう志んざゑもん」の候補者の一人であって、それ以上は分からない、というのが素直な解釈ではないかと思います。
山田氏の論文の「重房は、建長四年(一二五二)三月に宗尊親王に供奉して関東へ下向した」に付された注(9)を見ると、「『上杉系図』(『続群書類従』系図部所収)」とあります。
宗尊親王の関東下向については、一行が鎌倉に入った『吾妻鑑』建長四年四月一日条に相当詳しい記事があり、ここに供奉者のリストがありますが、公卿は土御門顕方、殿上人は花山院長雅、諸大夫は藤原親家、そして医者二名で、他に女房として美濃局・別当局・一条局(中院通方女)、そして源通親の娘である西御方の四人が載っています。
「吾妻鑑入門」(『歴散加藤塾』サイト内)
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma42-04.htm
一般に系図だけに出てくる事実の信憑性には若干の疑念が免れないのですが、上杉重房は果たして本当に一行の中にいたのか。
この点、ウィキペディアには、
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『吾妻鏡』建長4年(1252年)4月1日条に記される宗尊親王の鎌倉下向に従った人々の記載には重房の名は見られないが、「宗尊親王鎌倉下向記」『続国史大系』には源通親娘で後嵯峨院の乳母であった「西御方」の介添えとして重房と官位の一致する「とうしんざゑもん(藤新左衛門尉)の存在が記され、重房は式乾門院の没後に西御方に仕え鎌倉へ下向し、宗尊親王に直接仕える立場ではなかった可能性が指摘される[3]。
なお、『尊卑分脈』では重房を式乾門院の蔵人とし、官位については記載されていない。鎌倉期の上杉氏は五位以上の官位を得られずに没落しており、重房は村上源氏土御門流の家人であった可能性が指摘される[4]。
上杉重房
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E9%87%8D%E6%88%BF
とあり、これは久保田順一氏の『上杉憲顕』(戎光祥出版、2012)からの引用のようですね。
久保田順一氏は群馬県の高校に勤務し、『群馬県史』『高崎市史』などの編纂に関わってこられた郷土史家で、『上杉憲顕』も私がいつも利用している図書館に存在することは分かっているのですが、コロナの影響で確認できません。
ただ、『続国史大系 第五巻 吾妻鑑』所収の「宗尊親王鎌倉御下向記」は国会図書館デジタルコレクションで読むことができます。
リンク先で「コマ番号」を399とすると、「附録」の筆頭に「宗尊親王鎌倉御下向記」が出てきます。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991112
全部で六頁あり、最初の方は宿泊・昼休憩の地名と、当該場所における接待の責任者のリストですね。
例えば「やはぎ(矢作)」と「みやぢのなか山」の担当者「あしかゞのにうだう」(足利入道)は足利義氏だろうと思います。
そして、
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御ともの上らう。
にしの御方。
女房三人。御かいさく。
一人。 のせのはんぐわんだい。
一人。 さニらうざゑもん。
一人。 ながゐのさゑもん。
びてう一人。 えびのさゑもん。
一てうどの。
女ばう二人。
一人。 おがさはらのにうどう。
一人。 すわうの入道。
びてう一人。 ゆきのはんぐわんだい。内藤ゑもん。
べたうどの。
女ばう二人。
一人。 はたのゝいつきのぜんじ。
一人。 みまさかのにうどう。
びてう一人。 おほうちのすけ。 あさやたのさゑもん。
一ねうばう一人。みのどの。 またのゝなかづかさ。
一びてう一人。 まつもかの人々。
一とし一人。 志をやのへいざゑもん。
くぎやう。
さいしやうの中じやう。あきかた。
てんじやう人。
くわさんのゐんの中じやう。ながさだ。
所たいう。
ひうがのむさのすけ。ちかいゑ。
おなじきおとゝはうぐわんだいねいばうのかいしやく。
さぶらひ
とう志んざゑもん。ねうばうのかいさく。
ぶし。
六はらのさこんのだいぶ。 をなじきけんそく。
御むかへの人々。
をはりのかみ。 むさしのかみ。 あしかゞ二郎。
【以下略】
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とあります。
『吾妻鑑』の記述と比べると、おそらく「宗尊親王鎌倉御下向記」は『吾妻鑑』の記述の基礎となった史料のひとつなのでしょうね。
さて、私には公卿・殿上人・諸大夫の次に「さぶらひ」(侍)として登場する「とう志んざゑもん。ねうばうのかいさく。」をどのように理解すべきかが分からないのですが、少なくとも、この記述からは、ウィキペディアの「「西御方」の介添えとして重房と官位の一致する「とうしんざゑもん(藤新左衛門尉)の存在が記され」云々の解釈は無理ではないですかね。
まあ、所詮ウィキペディアですから、久保田順一氏の『上杉憲顕』を正確に反映しているのかも分からず、久保田著を見るまでは何ともいえません。
ただ、西御方との関係はともかくとして、「とう志んざゑもん」が本当に上杉重房だと言えるかというと、他に補強する史料があればともかく、この文言からだけではかなり苦しいのではないですかね。
上杉重房はあくまで「とう志んざゑもん」の候補者の一人であって、それ以上は分からない、というのが素直な解釈ではないかと思います。
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