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「呪術性からの解放のエポック」

2008-10-20 | 高岸輝『室町絵巻の魔力』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年10月20日(月)00時08分47秒

ついつい脱線してしまいましたが、桜井英治氏の『室町人の精神』に話を戻しますと、桜井氏の

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 けれども、応仁・文明の乱がはじまるころにはもののけもほとんど目撃されることがなくなった。もののけたちにとっても住みにくい時代がやってきたのである。応仁・文明の乱とは、日本人の精神史にとってそのような呪術性からの解放のエポックでもあったことを、まずここで銘記しておきたい。この転換期を経て、日本の歴史ははじめて近代化への道をしずかに歩みはじめるのである。
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という見解は、もちろん「もののけ」の記録をいくつか見かけたことから導いた結論ではなくて、時期区分論の反映ですね。
桜井氏は「非農業民と中世経済の理解」(『年報中世史研究』32号)において、網野善彦氏が鎌倉末~南北朝時代の画期性を強調し、「民族史的転換」「文明史的転換」「人類史的転換」があったと言われたことについて、次のように書かれています。(p45)

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 網野氏の時期区分論の最終的な有効性については今後の研究のなかでじっくり検証していけばよいと思うが、ただ網野氏の論証プロセスにはいくつか手続き上の不備・不満があって、そのことについては、結論の有効性をただちに損なうものではないにしても、一応認識しておく必要があろう。
 私が研究している流通経済史に即して、そうした疑問を二、三紹介しておくと、これは疑問というよりも、むしろ謎といってほうがぴったりくるのだが、なぜ網野氏がそのときそういう態度をとったのか、いまだに理解できないことがいくつかある。
 たとえば、網野氏のいう「文明史的転換」が、応仁・文明の乱に歴史の大きな分水嶺を認めた内藤湖南の二分論とひじょうに近いことは周知の事実だが、ただ、双方のあいだには一世紀ないし一世紀半というけっして無視できない時間的ズレがある。けれども網野氏はこの時間差についてはほとんど頓着しておらず、もうちょっと画期を引き上げてもよいのではないかという一言で、内藤説を自説のなかに呑み込んでしまう。別ないい方をすれば、十五世紀の扱いがひじょうにぞんざいなのである。私のようにどちらかといえば応仁・文明の乱のほうに画期性を感じている者、あるいは十五世紀をある種突出した時代と考えている者には、それが何とも物足りない。網野氏には、十五世紀をもっと丁寧に扱ってほしかったというのが正直な気持ちである。
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『太平記』や狂言、物語草紙の滑稽話などから考えると、私としては「呪術性からの解放のエポック」は南北朝期ではないかと思うのですが、性急に結論を出さず、じっくり考えて行きたいと思います。
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