学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

網野善彦を探して(その5)─「父の経済状況が、ヤミ石鹸をつくって若干よくなって」(by 犬丸義一)

2019-01-17 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 1月17日(木)11時31分26秒

犬丸義一には推敲の習慣がないのか、文章がゴツゴツと無骨で、東大卒というよりは叩き上げの労働者が書いたような感じがしないでもないですね。
同じ東大文学部国史学科卒でも、山梨県の大地主だった父親が、親戚で東京電燈(東京電力の前身)社長の若尾璋八を支援するために東京に進出して以降、ずっと高輪二本榎の豪邸で暮らし、鎌倉の別荘にはブラック・ジャーナリストが集金を兼ねて病気見舞いに来てくれるようなブルジョワ家庭に育った網野善彦とは生育環境が全く異なります。

「温厚の紳士網野善右衛門」
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/86f3f0233d058f8089101327f72ebab2
「当家は地方屈指の旧家にして」
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5aa83953c58b5c6ede6ecf0d53d835bc
「網野夫人の手紙」
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5cc067eee8f30c4ce44e07e1f046ced0
久しぶりに網野善右衛門氏について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ae3a13aa850fef5f5f521e511cc01377

また、「敗戦で家業の財産が一切なくな」った犬丸家の経済事情は厳しく(p251)、朝鮮から引き揚げてきた「父の経済状況が、ヤミ石鹸をつくって若干よくなって」進学できるようになったため、犬丸の東大入学は1949年となり、同じ1928年生まれの網野より二年遅くなるのですが、この微妙な時期のずれが共産党活動における網野と犬丸の差異にも反映してきます。
ということで、犬丸の政治活動と思想の変化を辿ると、具体的な記録が乏しい網野の動きも見えてくるので、少し丁寧に犬丸の「私の戦後と歴史学」を紹介して行きます。
さて、ヤミ石鹸の続きです。(p252以下)

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 父の経済状況が、ヤミ石鹸をつくって若干よくなって、進学することになった。もっと勉強したい、という気になった。大学をどこにするか迷ったが、民科のある東京にしようとなった。林健太郎氏のいる東大西洋史学科に行こうと考えた。同氏の『歴史と現代』(一九四七年、近藤書店)が歴史理論としては大きな影響を与えており、マルクス主義が歴史学の方法として正しいことを説得的に教えられたのは林氏の『歴史学の方法』(四八年、白日書院)であったからである。林氏の著書を教えられたのは、ドイツ語の講習会で一緒になった、当時日本女子大史学科生で、九大教授の娘で、現在は経済学者の暉峻淑子氏であり、彼女の雄弁で東京に行く必要を決心した。
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林健太郎(1913-2004)の思想は敗戦後、急速に方向転換するので、犬丸も驚いたでしょうね。

ゾンバルトの Der moderne Kapitalismus
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b72b0ab377ab2169fb952393fcb512d9
林健太郎氏「国史学界傍観」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/42cbebf025ab3c471233d1b18081e9af
民主主義科学者協会(略称、「民科」)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8e93b8f37e3e1ea79068a78908dc9678

ま、それはともかく、林健太郎商店謹製のきびだんご『歴史と現代』と『歴史学の方法』を携えて、共産主義の魑魅魍魎が住むという伝説の鬼が島、東京に向かった犬丸少年の運命やいかに。

水曜日のカンパネラ『桃太郎』
https://www.youtube.com/watch?v=AVPgxn3xohM
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