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「網野夫人の手紙」

2009-03-25 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 3月25日(水)00時10分48秒

次は先に紹介した『甲州人材論』の著者・川手秀一の別の著書、『甲州士魂』(自費出版、昭和18年)所収の随筆です。(p237以下)
かなり奇妙な印象を与える文章ですが、感想は後で書きます。

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網野夫人の手紙

 永い事網野善右衛門氏の高風に接する機会が無かったので、暫く振りで同氏の謦咳に接し、色々と御高説を拝して貧しい紙面を豊にしようと思ひたつて、先日二本榎の東京邸を訪ねると、鎌倉大町の別荘にずつと居られると聞いて、しばらくたつて私は鎌倉まで押しかけて行つた。今から十余年前一度鎌倉の別邸を訪ねた記憶があつたが、今度の邸宅は移られた別の構へであつた。
 私がだしぬけに鎌倉へ行つた日は霞が棚引いて、微かな風さへなく、空気は行儀よく少しも動かぬ日であつた。誰しも湘南を旅して一番心をひかれることは、あの雑木を交へた篁のある小山続きの風景が何とも言へぬ美観を呈してゐることであらう。私は此の日車窓から、霞に包まれた小山つづきの藁家を交へた田園に梅が咲き匂ついてゐるのを眺めて恍惚となり、何とも言へぬ詩境に浴る事が出来た。これだけの風景を眺める事が出来ただけで、もう網野氏訪問の御利益は充分あると思つた。
 後に山を背負つて庭前に清楚な松を植ゑ込んだ網野邸は、如何にも住む人の高雅さを無言に語つてゐるかの如くであつた。玄関に立つて案内を乞ふと、四十四五の品のよい婦人が来られた。後で解つたことだが、この方が網野氏の令夫人であつた。私の名刺をみられて、主人は今病気で静養中だとの事に、私が突然訪問の非礼を詫びて辞去しようとすると、でも折角来たのだからまあ上れと言はれたが、病気中のところに上つたりなどしては失礼だから重ねて帰らうとすると、お茶でもとの事だつたから、それでは、此処でいただきますと言ふと、まあ上れと 言はれたので、上げてもらう事にしたが、私は心中、御病気だが一寸位は会へるから上れ、と、かう言はれたのだと思ひながら靴をぬいで一歩上ると、廊下を白衣をまとつた看護婦が通つた。看護婦が居る様ではと、私は上げてもらつた軽率さに冷汗をかいた。すぐ玄関へ戻るもどうかと考へて、日本間の立派な大きい部屋に通されて二三口ばやに世間話を奥様として、逃げる様にして帰つたが、大変失礼な事をしたと、帰宅してからも、何だか体が落ちつかぬ風であつた。
 野人の私とは言へ、何んとも、知らぬ事とは言へ無礼をしたものだ、お詫びの手紙を出さうかと思つたまま、又次の日の忙しさ、(心や身の)のためについそれもならずにゐて、其の次の日を迎へた朝、はからずも、網野令夫人が代筆の御手紙に接した。こちらから、非礼を詫びたお手紙を差上げ、且つ御病気見舞の意をも表さねばならぬと思つてゐた矢先に、身分の高い方からあべこべに書状を賜つたといふ事は、私をして、身の置きどころもない迄に、感銘を深刻にさせた。文面は御令息様方が十四日の日曜に鎌倉へ行かれるのを、二十一日の日曜に変更させた位だからだと言ふのである。私は先方の事情もきかずに唐突に訪ねる無礼の人物などに迄、こんな手紙を下さる網野先生御夫妻の人柄のよさに、ノツクアウトされてしまつた。御詫びの御手紙を差上げた事は勿論である。
 其処で私は、網野先生夫人の手紙の達筆さといふよりか、気品の高さを語らねばならない。文字は上手だからと言つて必ずしも視る者に好感を与へるものではない。此の文字はまさしく達筆である。達筆であるけれども達筆以上に高雅を秘め蔵してゐる。私は此の御手紙に接して、達筆ならん事よりか、此の高雅さを知らず/\のうちに自らあらはせる様な、人柄の、人物になり度いと、しみじみ思つた。文は人なり、文字も又人なり、私は網野先生の令夫人のことは、全然知らぬが、此の一巻の書状によつて、その高潔さの一部を窺知する事が出来て嬉しい。
 日本人は外国人と違つて、男が全部世間の表面に立つて総ての事に当るが故に、裏に居る夫人のよさ悪るさといふものが、殆んどわからずに居る事が多いが、流石に甲州の豪家網野家の方だけに教養の高さに尊敬の念を一段と高めざるを得ないが、日本には、全然世間にもてはやせられないがかうした立派な女性が多数居ることに私達は気づいて、日本女性の尊さといふ事に再認識をせねばかうした立派な方に申訳がないと想ふ。
(昭和十八年四月)
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