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「温厚の紳士網野善右衛門」

2009-03-22 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 3月22日(日)22時00分8秒

18日の投稿で「若尾璋八は・・・昭和2年に社長から引き摺り下ろされます」と書きましたが、これは勘違いでした。
昭和2年に三井銀行の池田成彬の意向で取締役会長に郷誠之助、取締役に小林一三が送り込まれ、以後、昭和5年に若尾璋八が追放されるまで、若尾は一応社長の地位を保ちます。
また、若尾璋八と網野善右衛門氏との関係は、網野誠氏のエッセイ「運・根・胆」(『青少年に贈る言葉 わが人生論 山梨編(下)』(文京図書出版、平成3年、p16以下)に、次のように書いてあるのを確認しました。

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私の生まれ育った家は錦生村(現・東八代郡御坂町)で地方銀行と造り酒屋をやっていたが、昭和四年、私が錦生小学校五年のとき、父善右衛門は当時東京電燈の社長であった叔父の若尾璋八に支援を要請されたということで、子供の教育旁ら一家を挙げて東京に移り住んだ。父は昭和五年以降の若尾財閥の没落のため、叔父からの話は実らなかったようであるが、病を得るまでは郷里の銀行とともに、東京では石油会社をも経営していた。
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網野善右衛門氏については、『甲州人材論 第一編』(川手秀一著、山梨協会、昭和5年)という本に以下の一文があります。
この本は少し、というかかなりクセのある本で、目次を見ただけでも「甲州財閥の南瓜頭」「仁義を解せざる堀内良平」「財界百鬼」「脳味噌のない神戸徳太郎」「守銭奴の大崎清作」「呆学博士の猪俣湛清」などという強烈な表現があり、本文はもっとすごいですね。
しかし、網野善右衛門氏に関しては、ずいぶん好意的な書き方をしています。
なお、「はしがき」によると、「文中六七人は、浅川保平氏の筆になるもので、文の末尾に、YまたはYAの記号のあるものが其れ」とあるので、以下に紹介する文章の実際の執筆者は浅川保平という人物です。

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温厚の紳士網野善右衛門

 金持の子としては珍しい、謙遜な温厚な、而して聡明な人だと聞いて居る。彼は徳望と人格とに於て、甲州地方政界に於て随一と云はるゝ広瀬久政翁の令息である。年少、東都の豪農、先々代善右衛門氏の孫養子となり、先々代の没後、今の名を襲名したのだ。日川中学の出身、その同僚で誰一人彼の悪口を云ふ者がない様に、今日甲州の農村は到処、小作争議の為めに、非常の闘争を続けて居るに係らず、彼に対しては矯激な農民党の連中も反感を有つて居らぬ様である。而し、それとて特に小作料を軽減して居るとも聞かぬ。畢竟彼の徳望の然らしむる所である。最も彼の居村たる錦村二之区の農民党の県会議員大鷹貴祐などの経営して居る産業組合に対しては、農村振興の意味よりして、初めより絶大の援助を与えて来た者だ。産業組合が破綻に瀕しても、普通の金貸の様に、決して無理な注文も出さず、只管に組合の後図の発展を希望して、種々の便宜を与えて居るのを見れば、誰れでも有徳の士として之を迎えねばなるまい。目下東京麻布に住むで居る。彼の農村問題に就いての考だと云ふのを聞くに、争議は一時的のもの、我が農業は永遠のものである。地主が農村の先達となつて、農業指導の任に当らねばならぬ、肥料金の貸付や、深耕多産の方法や、都市に対しての交換経済の保護や協調思想の涵養や──幾多の点に於て努力すべき者となし、商大出の彼は現に暇を作つては、官民協会の講演に出かけたり、埼玉や、奥州に実地農業視察に出かけたりして居るとの事である。
 甲州の地主諸君も、時勢の大流が分らず、世の中は所有権者よりも、実際産業に携はれる利用権者(小作人)の方を保護せなければ、社会が進歩しない、国運の発展を期する事は出来ないと云ふ、思想が今、漸時日本に台頭して来て居る矢先、土地会社など云ふ愚にもつかぬ者を作つて、小作人を激発せしめ、宛ら隻手を以つて、大河の決するを止めるが如き、馬鹿の事をして居るが、少しは我が網野氏の進歩せる思想にあやかつて欲しい者である。彼は今尚、少壮有為、その聡明と、其の徳望と、今後の勉強努力とを以つて、既に我が農業に対して指導的実力を失墜し、遊食無為の徒となり、生産者を圧迫する事を以つて、只能事となせる我が農村の地主に対しての一大清涼剤となり、兼ねて、現に破綻に陥れる我が農業を一日も早く救はんが為めに、現下の忌む可き争議より脱出せしめ、(争議は結局両者の損だ、無産運動者と称する大小無数の、利権屋や、名誉欲者を満足せしむるのみだ。一日早く争議が中止すれば、一日早く国家は更生の道に這入る。而し、それには我が地主諸君が合理的に生産者たる小作人を保護し得る丈け保護し、自己の取分を合理点に退却する外に道はない)我が故郷の農業を維新後より、日露戦争の時頃迄の状態に復帰せられん事を望むのである。前途有為なる彼に対して、此の希望を持つのは決して記者は無理とは思はぬ。(Y)
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