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「足利高氏は妻子を失い滅亡する可能性もあった」(by 谷口雄太氏)

2021-07-23 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 7月23日(金)10時48分4秒

尊氏軍の戦争システムは四月二十七日からフル稼働していて、同日以前に既に尊氏の明確な指示が出ていると思われること、尊氏の唐突な方針変更に反対する連中へ対処する必要があることに加え、私は鎌倉の赤橋登子・千寿王(義詮)と連絡する必要があったことも尊氏が名越高家の討死と無関係に討幕の決意を固めていた理由に加えたいと思います。
この点、谷口雄太氏は『南北朝武将列伝 北朝編』(戎光祥出版、2021)の「吉良貞義・満義・貞家─尊氏に蹶起を促した一門の長老」において、

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 ところが四月二十七日、名越高家が突如戦死すると、事態は一気に流動化していく。同日、足利高氏が丹波国において急遽幕府方から離反し、後醍醐天皇の命を奉じるかたちで反乱軍へと加担、諸将に決起を促しはじめたのだ。この選択は大きな賭けであった。足利高氏にとって幕府・北条氏の存在は巨大である。妻は北条一門・赤橋守時(幕府執権)の妹で、子・足利千寿王とともに鎌倉にいる。何よりも六波羅軍・金剛山包囲軍、さらには牙城・東国にひかえる鎌倉軍は依然強大である。足利高氏は妻子を失い滅亡する可能性もあった。他方、足利高氏のもとには後醍醐側からの勧誘も到来し、衝撃的なことに同僚の名越高家はつい先ほど戦死した。激動する西国情勢のなかで、幕府への忠誠か、反逆か、決断を迫られたのだ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/55bfcd49dfd5cec5d026978edf653b1d

と書かれていますが(p115以下)、四月二十七日の名越高家討死を聞いた後に尊氏が討幕を決断し、その旨を鎌倉に連絡したのでは、「滅亡」するかはともかく「妻子を失」う可能性は極めて高くなるはずです。
『太平記』には、

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 さる程に、足利治部大輔高氏敵になり給ひぬる事、道遠ければ、飛脚未だ到来せず、鎌倉には、かつて沙汰なかりけり。かかる処に、子息千寿王殿、五月二日の夜半に、大蔵谷〔おおくらがやつ〕を落ち、いづくともなくなり給ひにけり。これによつて、「すはや、親父〔しんぷ〕の京都にて敵になり給ひけるは」とて、鎌倉中の貴賤上下、ただ今事のあらんずるやうに騒ぎ合へり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2b878e24056e3a1c120263f82ca51606

とあって(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p99)、義詮の鎌倉脱出は五月二日の夜半とされていますが、このタイミング自体は特に疑う必要はないと思います。
即ち、千寿王の鎌倉脱出が早すぎれば尊氏の動きが怪しいという知らせを持った早馬が鎌倉から京に向かい、尊氏の計画が頓挫してしまいます。
また、尊氏謀叛が発覚して、六波羅からの早馬が鎌倉に到着した後ならば千寿王の脱出は困難です。
従って、五月二日夜半の脱出はまさに絶妙のタイミングであり、尊氏と千寿王周辺は緊密に連絡を取り合っていることが分かります。
ところで、元弘三年四月は小の月なので、仮に名越高家討死を聞いた尊氏からの使者が二十七日の昼頃に京都を出発し、五月二日遅くに鎌倉の足利邸に到着したとしても、二十八、二十九、五月一日、二日と正味四日と少ししかありません。
まあ、承久の乱に際しての押松の例などもあるので、気力・体力抜群の使者を使えば物理的に全く不可能ではないでしょうが、しかし、途中で何らかの不備や事故が生ずればたちまち破綻してしまうギリギリの日程です。

葉室光親が死罪となった理由(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a1055641c3aa05a0defdabe2a3b8ba23

尊氏としては、本当に千寿王と赤橋登子を守りたければ、そんな博奕紛いの日程で連絡するのではなく、もっと前に脱出のタイミングを指示していたはずで、それはつまり、尊氏の最終的な決断が四月二十七日より前に下されていたことを意味します。
なお、鎌倉を脱出した後、千寿王は五月九日に新田義貞の軍勢に加わりますが、僅か四歳の千寿王をめぐるこのような手際の良い采配が赤橋登子を蚊帳の外として行われたとは考えにくく、私は登子が積極的に主導したものと考えます。
登子の詳しい動向は分からないものの、足利邸に住んでいたなら当然感じたであろう怪しい気配を幕府執権の兄・守時に通報しなかったという不作為は明らかですから、登子は尊氏の謀反に突如として巻き込まれた犠牲者ではなく、むしろ積極的な加担者ではないかと私は考えます。

謎の女・赤橋登子(その6)(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/91ebebdda3a73c79bc24e9e45ff0b492
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6b9ea58a03901c6047d60f9cd0cfedcc
尊氏周辺の「新しい女」たち(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f4e978a0ffdad8e70040c906f49a6e8f
四月初めの中間整理(その13)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/493074c440687d0824d76e2a4d199323
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