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謎の女・赤橋登子(その4)

2021-03-03 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月 3日(水)11時01分29秒

「人質といっても別に拘禁されている訳ではなく、足利邸に普通に住んでいただけですから、適当な時期に鎌倉を脱出すればよいだけの話で、実際に登子と義詮はそうしています」と書いてしまいましたが、厳密に言うと登子が鎌倉を脱出したことを明記する史料はないようです。
『太平記』には義詮の脱出が記されているだけで、第十巻第一節「長崎次郎禅師御房を殺す事」に、

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 さる程に、足利治部大輔高氏敵になり給ひぬる事、道遠ければ、飛脚未だ到来せず、鎌倉には、かつて沙汰なかりけり。かかる処に、子息千寿王殿、五月二日の夜半に、大蔵谷〔おおくらがやつ〕を落ち、いづくともなくなり給ひにけり。これによつて、「すはや、親父〔しんぷ〕の京都にて敵になり給ひけるは」とて、鎌倉中の貴賤上下、ただ今事のあらんずるやうに騒ぎ合へり。
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とあります。(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p99)
尊氏が謀叛の意志を明らかにしたのは元弘三年(1333)四月二十七日なので、千寿王(義詮)四歳が鎌倉を脱出した五月二日というのは絶妙のタイミングですね。
千寿王の鎌倉脱出が早すぎれば、尊氏の動きが怪しいという知らせを持った飛脚が鎌倉から京に向かい、尊氏の計画が頓挫してしまいます。
また、尊氏謀叛が判明して、その飛脚が鎌倉に到着した後ならば脱出は困難です。
ということで、五月二日の脱出はまさに最適のタイミングであり、尊氏と千寿王周辺は緊密に連絡を取り合っていることが分かります。
そして、この後、千寿王は鎌倉攻めの新田の軍勢に加わります。
即ち、第十巻第三節「天狗越後勢を催す事」に、

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 その日の晩景に、戸祢川の方より、馬、物具爽かに見えたる兵二千余騎、馬煙を立てて馳せ来たれり。敵かと見れば、さはあらで、越後国の一族、里見、鳥山、田中、大井田、羽川の人々にてぞありける。【中略】面々に馬より下りて、おのおの対面して式代〔しきだい〕し給へば、後陣の越後勢、甲斐、信濃の源氏等、家々の旗を指して、五千余騎にて小幡庄まで追つ付き奉る。
 「これひとへに、八幡大菩薩の擁護に依るものなり。暫くも逗留あるべからず」とて、同じき九日、武蔵国へ打ち越え給ふ。即ち記五左衛門、足利殿の御子息千寿王殿を具足し奉つて、二百余騎にて馳せ付いたり。その後、上野、下野、上総、下総、常陸、武蔵の兵ども、期〔ご〕せざるに馳せ付き、催さざるに馳せ来たつて、一日の中に二十万騎になりにけり。
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とあって(p106)、千寿王の軍勢は記五左衛門(紀政綱)以下僅かの人数だったようですが、ここで千寿王が参加したことが後で大きな意味を持ち、鎌倉攻めでは戦功抜群の義貞も、後に鎌倉から京に拠点を移さざるをえなくなります。
『梅松論』には、

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扨も関東誅伐の事は義貞朝臣その功をなす所に、いかゞ有りけむ、義詮の御所四歳の御時、大将として御輿に召されて、義貞と御同道にて関東御退治以後は二階堂の別当坊に御座有りしに、諸将悉く四歳の若君に属し奉りしこそ目出度けれ。是実に将軍にて永々万年御座有るべき瑞相とぞ人申しける。
http://hgonzaemon.g1.xrea.com/baishouron.html

とあるだけで、千寿王の鎌倉脱出(五月二日)や新田との合流(九日)の日時を記している訳ではありませんが、まあ、特に疑う必要もなさそうです。
さて、この間、登子はどうしていたかというと、僅か四歳の千寿王をめぐるこのような手際の良い采配が登子を蚊帳の外として行われたとは考えにくく、むしろ登子が積極的に主導したと考える方が自然ですね。
登子の詳しい動向は分からないものの、足利邸に住んでいたなら当然感じたであろう怪しい気配を兄・守時に通報しなかったという不作為は明らかですから、登子は尊氏の謀反に突如として巻き込まれた犠牲者ではなく、むしろ積極的な加担者ではないかと思われます。

現代語訳『梅松論』(『芝蘭堂』サイト内)
http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou17.html
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