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「足利の重鎮にして一門の長老、高氏に謀叛をそそのかす」(by 谷口雄太氏)

2021-07-19 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 7月19日(月)08時42分22秒

私にとっては尊氏が名越高家の討死とは無関係に叛意を固めていたことは自明なのですが、谷口雄太氏は『南北朝武将列伝 北朝編』(戎光祥出版、2021)の「吉良貞義・満義・貞家─尊氏に蹶起を促した一門の長老」において、私とは全く異なる見方を述べておられますね。

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まず、前提として吉良氏がいかなる存在かが問題となりますが、谷口氏は冒頭に次のように書かれています。(p114以下)

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足利の重鎮にして一門の長老、高氏に謀叛をそそのかす

 吉良氏は、三河国吉良荘(愛知県西尾市)を名字の地に持つ足利一門の名門である。そのはじまりをたどれば足利惣領家の兄の流れにあたり、鎌倉期には(「吉良」ではなく)「足利」を名字とする足利の重要な庶子家であった。他方、鎌倉幕府・北条氏からの信任も厚く、蒙古襲来(文永の役)の翌年・建治元年(一二七五)の異国征伐計画では足利勢から唯一、吉良満氏(吉良貞義の父)が守護(越前国)に抜擢されており、元弘元年(一三三一)の後醍醐天皇の反乱(元弘の変)でも吉良満義(吉良貞義の子)が討伐部隊の一員として見えている。このように、吉良氏は足利一門であると同時に、北条氏とも密接な関係にあり、首都・鎌倉(大蔵稲荷下)の屋形から三河国吉良荘などにある遠隔地所領を支配していた。
 状況が変化したのは、元弘三年のことである。西国で猛威を振るう後醍醐方に対し、三月、幕府は名越高家(北条一門)と足利高氏を大将とする部隊を鎌倉から出撃させた。このとき、足利高氏は同世代の吉良満義も率いていたという(『太平記』)。足利高氏は東海道を西上し、途中、自らが守護を務める三河国に入り、足利一門の長老で吉良満義の父にあたる吉良貞義と接触したのち、四月、京都へ到着。名越高家は山陽道、足利高氏は山陰道を進んでいった。
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「足利高氏は同世代の吉良満義も率いていたという(『太平記』)」とありますが、既に紹介したように、西源院本『太平記』の第九巻第一節「足利殿上洛の事」には、

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 足利殿御兄弟、吉良、上杉、二木、細川、今川、荒川以下の御一族三十二人、高家の一類四十三人、都合その勢三千余騎、三月七日、鎌倉を立つて、大手の大将名越尾張守高家に三日先立つて、四月十六日には、京都にこそ着き給ひにけれ。
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という具合いに「吉良」とあるだけで(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p40)、満義の名前はなく、これは流布本も同様ですね。
ま、満義で間違いはないのでしょうが。
また、「足利一門の長老で吉良満義の父にあたる吉良貞義と接触」とのエピソードは『太平記』にも『梅松論』にも存在せず、これは少し後の谷口氏の説明にあるように『難太平記』が出典ですね。

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 この時点での西国の幕府軍には、六波羅を頑強に防衛している探題軍(在京)、楠木正成の籠城する金剛山千早城(大阪府千早赤阪村)を包囲している関東の大軍(在河内)、そして、名越高家・足利高氏という東国からの新規の援軍など、多数の味方がいたわけで、幕府軍の勝利はもはや目前であったはずだ。『太平記』が「関東から名越殿と足利殿の両名が大軍を率いて上洛してきたので、京都を守る幕府軍は「これでもう安心だ」と勢いづいた」と描いているとおりである。
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うーむ。
「幕府軍の勝利はもはや目前であったはずだ」とのことですが、『太平記』の原文では、

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 両六波羅は、度々の合戦に打ち勝つて、西国の敵なかなか恐るるに足らずと欺〔あざむ〕きながら、宗徒〔むねと〕の勇士と憑〔たの〕まれたりける結城九郎左衛門尉、敵となつて山崎の勢に馳せ加はり、またその外〔ほか〕国々の勢ども、五騎、十騎、或いは転漕〔てんそう〕に疲れて国々に帰り、或いは時の運を謀つて敵に属しける間、宮方は、負くれども勢いよいよ重なり、武家は、勝つと雖も兵日々に減ぜり。かくてはいかがあるべきと、世を危ぶむ人多かりける処に、足利、名越の両勢、また雲霞の如くに上洛したりければ、いつしか人の心替はつて、今は何事かあるべきと、色を直して勇み合へり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1288bebe2cfd662d9be837f75a8a5bb1

とあって、「結城九郎左衛門尉」(結城親光)が裏切ったり、転漕(兵糧を運送すること)に疲れて帰国者が出るなど、「武家は、勝つと雖も兵日々に減ぜり」という微妙な情勢であって、「かくてはいかがあるべきと、世を危ぶむ人多かりける」という状況ではあった訳ですね。
もちろん、「足利、名越の両勢、また雲霞の如くに上洛したりければ、いつしか人の心替はつて、今は何事かあるべきと、色を直して勇み合へり」と変化したことは確かですが。
さて、問題はこれからです。(p115以下)

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 ところが四月二十七日、名越高家が突如戦死すると、事態は一気に流動化していく。同日、足利高氏が丹波国において急遽幕府方から離反し、後醍醐天皇の命を奉じるかたちで反乱軍へと加担、諸将に決起を促しはじめたのだ。この選択は大きな賭けであった。足利高氏にとって幕府・北条氏の存在は巨大である。妻は北条一門・赤橋守時(幕府執権)の妹で、子・足利千寿王とともに鎌倉にいる。何よりも六波羅軍・金剛山包囲軍、さらには牙城・東国にひかえる鎌倉軍は依然強大である。足利高氏は妻子を失い滅亡する可能性もあった。他方、足利高氏のもとには後醍醐側からの勧誘も到来し、衝撃的なことに同僚の名越高家はつい先ほど戦死した。激動する西国情勢のなかで、幕府への忠誠か、反逆か、決断を迫られたのだ。
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うーむ。
ここは本当に疑問だらけですが、次の投稿で書きます。
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