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謎の女・赤橋登子(その6)

2021-03-05 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月 5日(金)08時41分45秒

国会図書館サイトで「赤橋登子」を検索すると僅か三件だけヒットして、その一つは前回投稿で紹介した「足利尊氏の正室、赤橋登子」(芥川龍男編『日本中世の史的展開』所収、文献出版、1997)です。
残りは『日本石造物辞典』(吉川弘文館、2012)に「赤橋登子供養塔(京都府)」、『日本人名大辞典』に「赤橋登子」という項目があることを示すだけですね。

https://iss.ndl.go.jp/books?any=%E8%B5%A4%E6%A9%8B%E7%99%BB%E5%AD%90&op_id=1

「赤橋登子供養塔」というのは、京都府綾部市の安国寺に足利尊氏・上杉清子供養塔と並んでいる宝篋印塔のことだろうと思われます。

「安国寺宝篋印塔」(『石仏と石塔!』サイト内)
https://kawai24.sakura.ne.jp/kyou-ayabe-ankokuji-2.html
「京都府内の石造物⑭:安国寺宝篋印塔(足利尊氏、上杉清子、赤橋登子供養塔)」
https://note.com/seki_hakuryou/n/n8fcedd22b97c

また、宮内庁書陵部研究職で、『鎌倉府の支配と権力 (歴史科学叢書)』(校倉書房、2018)という著書もある植田真平氏の『中世人今際図巻 死に様データベース』でも、参考文献は、

『大日本史料 第六編之二十六』 (1933)
谷口研語「足利尊氏の正室、赤橋登子」(芥川龍男編『日本中世の史的展開』 文献出版 1997)

http://imawazukan.blog.shinobi.jp/Entry/47/

とあるだけです。
赤橋登子は、女性史研究者を含め、歴史研究者の興味を惹く存在ではないようですね。
そして、唯一の論文である谷口研語氏の「足利尊氏の正室、赤橋登子」を見ると、その構成は、

-------
はじめに
一、北条一門赤橋氏と足利氏
二、鎌倉脱出
三、兄守時の戦死と鎌倉の陥落
四、尊氏の子供たち
五、冷遇された庶子
おわりに
-------

となっていて、「はじめに」には「登子について直接扱った論稿は他にないようなので、本稿がたたき台となり、より詳しく正確な登子像が描かれることになれば、望外の幸せである」(p110)とあります。
さて、谷口論文の第一節は誰が書いても同じような概略的説明ですが、第二節に入ると、谷口氏は「尊氏と登子の結婚は、二人の第一子千寿王(のちの二代将軍義詮)の生年から逆算して、元徳年間(一三二九~三一)のころだったろうか」(p114)とされます。
そして次のように述べられます。(p115以下)

-------
 尊氏は鎌倉を発する時、すでに寝返りの決心をしていたのだろうか。もし、寝返りを決意していたとしたら、登子は夫尊氏の心中を知らされていたのだろうか。
 尊氏が寝返りを決意した時点については諸説あるが、『太平記』の伝えるところによれば、彼の寝返りは鎌倉を発する前に決まっていたという。彼は再度の出陣要請があると、たび重なる得宗の仕打ちを恨み、寝返りを決意、出陣にあたって、妻子までも連れていく気配を見せた。そのため、あやしんだ得宗高時は、出陣する尊氏に対して、登子と千寿王を鎌倉に残し、誓紙をもって二心ないことを示すように要求した。尊氏がこれについて弟直義に諮ったところ、直義は「大事の前の小事」であるとして、次のように答えたという。
  公達(千寿王)は未だ御幼稚にてあれば、万一の場合には、少々残し置く郎従どもが抱きか
  かえて、どこへでも隠し奉るでありましょう。御台(登子)の御事は、赤橋殿(守時)もお
  られること故、何のおいたわしき事もあろうはずがありませぬ。
 この直義の説く道理に服して、尊氏は登子と千寿王を鎌倉に残したというのである。『太平記』はこのように解説している。もちろん、このような密議を『太平記』作者が知るはずもなく、こんな部分は作者の創作だろうが、それはひとまず措こう。
 これによれば、登子は鎌倉に置き去りにされる可能性があったことになる。であれば、彼女に尊氏の意中は知らされていなかったのではないだろうか。千寿王は五月二日に鎌倉を脱出したという。『太平記』は登子について何も記していないが、この後、彼女が生存している以上、千寿王と一緒に脱出したはずである。登子が夫の叛意を知ったのは、脱出直前だっただろうか。その時、すでに夫は行動を起こしていた。
-------

いったん、ここで切ります。
谷口氏は『太平記』を引用した後、「もちろん、このような密議を『太平記』作者が知るはずもなく、こんな部分は作者の創作だろうが、それはひとまず措こう」と言われるので、『太平記』以外の史料に基づいて推論するのかと思いきや、直後に「これによれば、登子は鎌倉に置き去りにされる可能性があったことになる」とあるので、ちょっとびっくりしますね。
どうも谷口氏は「密議」以外は『太平記』の記述を信頼されているようです。
そして、「可能性があった」と書いた直後に「であれば、彼女に尊氏の意中は知らされていなかったのではないだろうか」とされるので、またびっくりですが、「可能性があった」は事実に転化してしまったのでしょうか。

>好事家さん
レスは後ほど。
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