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謎の女・赤橋登子(その7)

2021-03-05 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月 5日(金)11時04分24秒

谷口論文の続きです。(p116以下)

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 夫尊氏の叛意を知らされた登子は、何の心の準備もないまま、急ぎ自分と幼い子供のとるべき道を決断しなければならなかった。里方の北条一門につくか、婚家の足利氏につくか。その時点で、両者の前途がどのように転がるかは不明だったが、登子は里方北条一門を捨てた。足利氏の女として生きていくことに決した。彼女には、おそらくその選択しかありえなかったのである。
 登子と千寿王の鎌倉脱出は五月二日の夜半。このころ鎌倉では、幕府内部も市中も、京都周辺の戦況について不安をつのらせていた。そこへ登子と千寿王の脱出である。この時点で、まだ鎌倉では、尊氏の動向をはっきりとはつかめていなかった。しかし、二人が脱出したことで、にわかに動揺が広がった。そして数日後、「尊氏寝返り! 六波羅危機!」の急報が入る。ここに、登子の兄、執権守時の立場は急変した。
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うーむ。
畳みかけるように断定が続き、まるで太宰治の『走れメロス』のような見事な文章だとは思いますが、「夫尊氏の叛意を知らされた登子は、何の心の準備もないまま、急ぎ自分と幼い子供のとるべき道を決断しなければならなかった」、「登子は里方北条一門を捨てた。足利氏の女として生きていくことに決した」という断定の根拠は何なのか。
まあ、『太平記』以外には判断材料はありませんから、ホップ・ステップ・ジャンプと軽やかに論理が飛躍する谷口氏の見解は、結局のところ『太平記』の読書感想文ではあっても歴史学の「論文」とは言い難いものですね。
ところで、「尊氏は鎌倉を発する時、すでに寝返りの決心をしていたのだろうか。もし、寝返りを決意していたとしたら、登子は夫尊氏の心中を知らされていたのだろうか」という谷口氏の問いに対し、私自身はいずれも肯定してよいと考えます。
僅か四歳の千寿王(義詮)が鎌倉を脱出し、新田軍に加わった動きはあまりに手際が良く、事前に周到な準備と連絡がなされていたことを想像させます。
そして、登子が何も知らされておらず、尊氏の命を受けた武士が突如として登子から千寿王を奪い去り、荷物のように鎌倉の外に運んで行った、と想定するよりも、登子が千寿王の身支度を整えて、「お父様の名代として、しっかりおやりなさい」くらいの激励をして送り出したと考える方が自然です。
『一遍上人絵伝』にも描かれているように、鎌倉への出入りは普段から監視されており、まして「鎌倉では、幕府内部も市中も、京都周辺の戦況について不安をつのらせていた」時期ですから警戒は厳重だったはずで、見張りの役人の前で千寿王が泣き出しでもしたら大変です。
「千寿王の鎌倉脱出は五月二日の夜半」という『太平記』の記述が正しいのであれば、通常のルートではなく抜け道を行ったのかもしれませんが、その場合でも千寿王にそれなりの覚悟をさせておかなければ危険ですね。
結局、僅か四歳の千寿王の鎌倉脱出と新田軍への参加は、尊氏と連絡の上で登子が積極的に関与したと考えるのが自然であり、それが登子の後半生とも整合的です。
さて、第三節に入ると、谷口氏の想像力は更に躍動します。(p117以下)

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 尊氏の寝返りが鎌倉へ報じられたときから、鎌倉陥落に至るまでの十数日、その間の登子の兄守時の苦渋に満ちた日々は想像にあまりある。『太平記』はそのような守時の苦渋を、劇的な筆致で描写し、鎌倉合戦のひとコマとして挿入している。
 元弘三年五月、新田義貞率いる倒幕軍が三方から鎌倉に迫った。【中略】やがて守時軍がわずか三百騎となったとき、守時は侍大将南条高直を呼んで、次のようにいったと伝える。
  万死を出て一生を得、百度負けて一戦に利あるのが、合戦の習いである。今、この戦いでは
  敵が勝ちに乗っているが、さりとて北条一門の命運がここに窮まったとも思えない。しかし
  ながら、守時は一門の安否を見届けるまでもなく、この陣頭において腹を切ろうと思う。守
  時と足利殿との間に妹登子の縁がある以上、得宗高時殿をはじめ一門の人々が守時にうちと
  けることは、もはやないであろう。昨日からの激しい戦いで、我が陣の兵は皆疲れ切ってい
  るが、何の面目があって、固めた陣を引き、しかも嫌疑の中でしばらくの命を惜しむことが
  あろうか。(以上は要約)
 こういうと、守時は陣幕の中に入り、腹を十文字に掻き切って果てたのだった。
 この守時の言葉に、彼の苦渋に満ちた数日間が集約されている。『太平記』の伝えるエピソードの細部についてはともかく、新田軍の鎌倉攻撃がはじまる前に、守時が鎌倉を脱出したというような事実がないかぎり、『太平記』の脚色は、守時の立場を正確に理解したうえで、なされていると評価せざるをえない。
 そして、そのような守時の立場を思いやれば、北条か、足利か、登子の選択が、結局は後者にしかありえなかったことがわかるだろう。そのまま登子が鎌倉に残っていたらどうなっていただろうか。その場合は、たとえ、鎌倉が陥落せず、北条得宗の専制体制が安泰であったとしても、尊氏の寝返りがわかった時点で、守時はおそらく登子をみずからの手で殺したにちがいない。いや、みずからの手で殺さざるをえなかったであろう。兄守時もまた、他に選択する道はなかったはずである。
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うーむ。
感動的な名文だなとは思いますが、谷口氏の想像力の源泉は全て『太平記』ですね。
感想は次の投稿にて。
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