生き甲斐の心理学

自分は何の為に生きているのか? 生き甲斐とは何か、自分の魂と成育史と身体を大事にしているか、を思索していきます。

自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2023年09月15日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
DNAの設計図は面白く誰がこのような法則を創造したのだろうとしみじみ思います。目の前の野川には季節ごとの野草が美しく咲きだし毎年同じ辺に同じ野草が咲いています。最近の分子生物学の本はこの細胞分裂の規則を分かりやすく書いてくれていますが、或細胞は命令を受けて、或状態になると、その分裂を中止して(アポトーシスの法則)、いつも同じ文様の美しい花が私の目を楽しませてくれます。自然の神秘は何とも感動的です。何故、同じ種が同じ文様を形成するのか?このサムシンググレートという概念があるので私の精神は健全に生きていられるようですが、もし、この概念が無いと、とうの昔入院していたかもしれません。神仏の概念が何時の頃からか人類の社会に生まれてきた事を改めて感謝しています。
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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2023年09月14日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
ふと目からウロコと言う場面に遭遇します。いつも同じものを見て生活しているのですが、ウロコがポロリと落ちると、いつも見ている風景が別な美しいものに見えてくるのです。今日もイギリスパンを買いにいつもの坂道を歩いていました。金剛流の「雪」をイヤホーンで聴きながら歩いていますとわんわんと子犬の鳴き声が聞こえてきました。立ち止まり辺を見渡すと飼い主がいませんが首輪に繋がる長い紐がつながれている木の周囲をぐるぐる回る内に、段々と短くなり自分の首を占めたので苦しくなり泣いていたのです。助けている内に飼い主が飛んできて何をするのですかと犬泥棒だと勘違いして私をどなりました。事情を話すと恐縮していましたが、この出来事で私は或事が解決したのです。自分で自分を縛り付け挙句の果てに自己嫌悪になつていた或思索が見事に解決しました。子犬と飼い主に感謝です。
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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2023年09月13日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
DNAの設計図は面白く誰がこのような法則を創造したのだろうとしみじみ思う毎年の春がきました。野川には野草が美しく咲きだし毎年同じ辺に同じ野草が咲いています。最近の分子生物学の本はこの細胞分裂の規則を分かりやすく書いてくれていますが、或細胞は命令を受けて、或状態になると、その分裂を中止して(アポトーシスの法則)、いつも同じ文様の美しい花が私の目を楽しませてくれます。自然の神秘は何とも感動的です。何故、同じ種が同じ文様を形成するのか?このサムシンググレートという概念があるので私の精神は健全に生きていられるようですが、もし、この概念が無いと、とうの昔入院していたかもしれません。神仏の概念が何時の頃からか人類の社会に生まれてきた事を改めて感謝しています。
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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2023年09月12日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
をむいて愛を語る人がいた場合、変な人だなあ、と思わないほうが良いようで特に日本文化には床の間の掛け軸を鑑賞しながら話をする文化がありますので変人扱いするのは大変危険です。欧米では直接相手の目をキチント見つめながら堂々と意見を言わないと変人扱いされる傾向あり日本の場合は目を見つめ合い正面きって意見を言うよりは湾曲に玉虫色にすこし遠慮がちに意見をいうのが良い場合があるようです。心理療法の場合も互いの椅子の角度を正面よりも少しずらして語り合う方が成功します。
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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2023年09月11日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
「愛の原型」が違う事を嘆く人、違う所に大いなる刺激と喜びを感じる人、様々です。親友、恋人、夫婦、色々の親しい愛の関係の中で、自分と違うと言って哀しむ気持ちはわかりますが、はたしてどちらが幸福感を体感出来るでしょうか?心理療法で、もしこの違いが主訴で相談に来る人がいた場合、考え方の話し合いは当然しますが、私は五感の違いの喜びを説明することにしています。例えば聴覚:私がモーツアルトが好き、と言いますと、相手がもし、変な人、あんなモーツアルトが好きなんて、と侮蔑するような考え方の人の場合、その人は多分、人を愛する事の下手な人といえるでしょう。そうではなくて、なるほどなあ、どんな所が好きなんですか?と本気で質問する人は幸せになれるタイプの人でしょう。そして私はベートベンが大好きです、と意見を言います。私は好き嫌いの領域において、こうして楽しく会話が進みます。相手の世界を否定するタイプの人は中々幸福感を共有出来ないタイプなので「愛の原型」が人生のオアシスではなく案外苦しみの遠因になるタイプかもしれません。
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2023年09月10日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
不思議な人生があるものです。そのお嬢さんの母君が病気で帰天、その一年後、父君が更に病気で帰天、その姉は某修道院に両親が元気な内に入会、今は幸せな修道院生活を送っている。
私の親友の家族のお話です。日曜日に一人残されたそのお嬢さんがめでたく結婚式をあげますが、私は今、何とも幸せな気分です。一時は神様の愛とは何だろうと悩みましたが、幼稚園時代から知っているkちゃんは今、元気で逞しく生きています。kちゃんには関係はありませんが大津波にしても放射能問題にしても次から次へと大きな難問が人々の人生には起きてきますが、人は逞しく生き抜いていきます。被災地で生き抜く人々を見ていると涙が流れますがその逞しい姿に生きる勇気をいただいています。醜い姿を時として人間は露出しますが、また時として何とも美しい姿を見せてくれます。人間の神秘を垣間見ますが私も益々自分の使命を意識して元気に生きていこうと思います。
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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2023年09月09日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
暖かい人間関係だったものが或日突然に「冷酷な無関心」を示されたら大抵の人はショックを受けて落ち込みます。この関係は案外、あちこちの場所で見られます。家庭、職場、取引先、友達、近所付き合いの中で生じる現象です。さて普通の人は、きっと自分のどこかが悪く相手の心を傷つけてしまったんだろうなあ、と反省し自信喪失し自己嫌悪に陥るます。何となく理由は分からないのですが、その相手に遠慮勝ちな態度か、多少、へつらうような感じとなり、益々自己嫌悪になりだします。さてここで数週間、数箇月、数年経過してもいつまでも冷酷な無関心を示す相手ならば多分、その人は「自己愛パースナリティ障害」を発症したと判断していいでしょう。但し、自分に対してばかりでなく、その他大勢の人々との会話を冷静に洞察する必要があります、その洞察の中でその冷酷な無関心を示す人が「有難う」という言葉を一度も発していないことが明確化された時、間違いなくその人は「自己愛パースナリティ障害」を発病したか、その筋が当初からあった、と判断すべきでしょう。この人の部下、子供、夫婦等、その周囲は能力が伸びないとか、自殺するとか、自信喪失するとか負の現象が終始起きています。この場合は自分が悪いのでなく、相手が病気なのでもう一度、自信を回復する努力が必要です。このような自己愛の病気があることを意識化しておきましょう。
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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2023年09月08日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
あの方は私の愛に気づいていない、あの方はなんて鈍感な方、若い頃はさんざん言われたものです。勝手に好きになり期待しあうのが青春ですが、それも人生の美しく楽しい所でしょうが、愛の原型、という知識を中高生徒時代に知っていたらなあ、と今更思います。古い思い出は沢山ありますが、その中に思い出しただけでも心底、幸せな気分なる場面があります。思い出しただけで自分はあの時、愛されていたのだなあ、と五感と体感で感じてしまうのです。それを生き甲斐の心理学では「愛の原型」と定義しています。幾つもあれば、それだけ多くの愛の原型を所持しているわけです。子供の頃のこの愛の原型を大人になっても持ち続けると少々問題が出てきます。大人になっても、そのように自分を愛してくれる大人が果たしているかどうか、を検討する心の余裕のある人は大丈夫ですが、それでも幼児時代、幼少時代の愛されかたに固執している大人は時々「自己愛パースナリテイ障害」と誤解される危険があります。気に入らないと直ぐ怒り出す人がその典型的な大人ですが、そのタイプの人は感謝心もありません。愛されることが当然だと思っているようです。愛し愛されるには訓練が必要ですが、愛は本能だ、と勘違いしている大人が多いようです。愛は修行が必要で特に命をかけるようなNPO,NGO,支援活動等では大人の愛が無いと無理なようです。
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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2023年09月07日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
難しい問題ですが愛がなければ人生は本当につまらないと思います。愛というと、うひーとか言う人がいますが、それがどう「もやまとびとの愛」らしいのです。こう書いていく私も冷や汗を流し、多分、きざな人だなあ、と言われそうで、照れてくるのです。イギリスでもアメリカでも挨拶をするとき抱き合い、頬に軽く音をだしながら接吻しますが、その時の私は、いつもへっぴり腰で笑われたものです。そのうち、素敵な若い女性の学友は私と抱き合うのを避けるようになりました。残念至極ですがやまとびとの抱擁は駄目のようです。この微妙な愛の表現が欧米とやまとびとの愛の姿の違いの一つですが、欧米人に理解されなかった「やまとびとの愛の形といか姿」が「沈黙の愛」でした。私には何とも優雅で慎み深い愛の姿なのですが、あちら様には不気味で何を考えているのか嫌なようでした。愛の原型は70億の人類がいるとすると全部違う、という事を知ると、この勉強をしている研究室の若者は「愛の原型」とは何かを勉強しだしました。同じ日本人でも愛の原型が違う事に気づいた人々は益々愛が深まり出します。何故でしょうね?
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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2023年09月06日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
欝と錯乱の具体的な事例はなんでしょう?自殺はその典型的な事例ですが、そのような大きな問題でなく身近なところでは「期待通りの返答をしない相手に怒りをぶつけてくる人」の事例かもしれません。といいますのはその人は平素、何なについて常に欝なのです。憂鬱でたまりませんが、本人はその憂鬱な原因を炙り出そうともしませんので手のつけようがないのです。ひたすら身近な人に八つ当たりをしてはうさを晴らしています。正常な人、心が統御された人から見ると錯乱状態に見えます。親、上司、得意先の人がこの状態ですと相手はたまりません。本人に病識がない限り救いようがありません。もともと欝と錯乱が何の為にこの人間に与えられているか、といいますと幸福と統御感を得る為にこの欝と錯乱が存在しています。この哲学的な意味を知らないと周囲も本人も不幸です。知は力なり、と昔より言い古されていますが、この欝と錯乱の直ぐ裏には深い幸福感と統御感が存在していることを知りましょう。
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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2023年09月05日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
愛を義務と考えていると人は不安神経症になりやすくなります。愛は楽しいものです。確かに恋をすると相手の言動から不安になりますが、これはまだ、恋の状態だからでしょう。神への愛にしても人への愛にしても愛は楽しもの、と解釈していないと人生が暗くなります。私も時々暗くなりますが、はっとして反省し、どこが悪いから明るくて楽しいはずの愛の世界がこんなに暗くなるのか解釈をしなおします。そうすると解釈が暗い自分に気づきます。こうした繰り返しが人生のようです。例えば信仰者が神の愛を信じなくなった場合、その人を非難する資格はありません。もしその人の信仰を非難する人がいたら、その人は冷たい人でしょう。非難の前に、その理由を洞察していく必要があります。人間は弱い動物なので重い病気になったり大津波に遭遇すれば神の愛を疑うのが当然でしょう。悩みながら再三解釈を修正していく内に、ふと自分なりの解釈が成立し再び生き抜く勇気が与えられます。その時、「愛は楽しいもの」という哲学を信じつつ修正していきたいものです。
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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2023年09月04日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
愛を義務と考えていると人は不安神経症になりやすくなります。愛は楽しいものです。確かに恋をすると相手の言動から不安になりますが、これはまだ、恋の状態だからでしょう。神への愛にしても人への愛にしても愛は楽しもの、と解釈していないと人生が暗くなります。私も時々暗くなりますが、はっとして反省し、どこが悪いから明るくて楽しいはずの愛の世界がこんなに暗くなるのか解釈をしなおします。そうすると解釈が暗い自分に気づきます。こうした繰り返しが人生のようです。例えば信仰者が神の愛を信じなくなった場合、その人を非難する資格はありません。もしその人の信仰を非難する人がいたら、その人は冷たい人でしょう。非難の前に、その理由を洞察していく必要があります。人間は弱い動物なので重い病気になったり大津波に遭遇すれば神の愛を疑うのが当然でしょう。悩みながら再三解釈を修正していく内に、ふと自分なりの解釈が成立し再び生き抜く勇気が与えられます。その時、「愛は楽しいもの」という哲学を信じつつ修正していきたいものです。
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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2023年09月03日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2023年09月03日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
男女の愛にしても信仰の世界での神仏との愛の世界でも、また親子、友情の世界にしても、理性、五感、体感、そのいづれにおいても暗いものを感じずに何か凄く神聖で豊かで爽やかな世界を漂うことがあります。この宇宙のような暖かい広がりは数十年経過しても、どう考えてもあれが神の世界だなあ、と思うことがあります。この場合は倫理道徳、規則は存在しませんがそこには荘厳な何とも言えない深くて何ものにも代え難い尊厳が存在していて、もはや言葉は不要でひたすら命の充実を感じます。神が存在するかどうか等はもう、どうでもよい世界で、存在は当然のもの、という世界で森羅万象を解釈していくのです。愛の世界は自由で神聖で秩序もあり居心地がいいのです。生きながら既に天国に生きているような世界は解釈いかんで誰にでも生まれてくるような気がします。自分の死は単なる通過儀礼にすぎず、その後は生きているときと同じように永遠に生き続ける、そんな解釈も生きている間に可能だと私は考えています。しかしこの解釈は信仰の世界、かつ、贖罪と復活の思想に裏付けられているのかもしれません。
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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2023年09月02日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
研究生徒の中にアフリカの某族の王子様がいました。1960年代のイギリスにはそのような青年が沢山いました。他にインドから来た王子様もいました。それが対等に差別なく研究室で勉強しているのですが同じ研究をしている内に私はコンプレックスがどんどん解消していきました。特にアフリカの王子様は気づきも遅く算数が弱いのですが、これにはどうも理由があるようです。帰国すれば沢山の侍女に面倒を見てもらえる立場で私とは違いますが教授からは厳しく指導されていく姿を見ると段々と私は日本人の優秀性を意識しだしました。それがまた教授は見抜きドイツ人と日本人は直ぐ傲慢になりやすい、と面と向かって非難します。私はハッと気づきます。そうすると恩師はにこりと笑い私にウインクをするのです。楽しい青春のひとこまでした。
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