生き甲斐支援の旅で死に行く人との場面があります。健康な時は心に余裕があるので、照れくさい等平気で言えますが死に直面した人には<照れ>はありません。まさに真剣勝負の世界です。<寂>は<死>を表現した言葉、<光>は臨終後の<魂>を表現した言葉ですが、生きている時に<照れる>意味を思索しておく必要があります。照れくさい、と日常では簡単に表現していますが、照れくさい、という恥ずかしいような感情の領域の奥深くには人間修行の秘訣が内在しています。気障だから、とか、照れくさい、と言う心理は、大切な自分の死を正面から考えていく貴重な機会を失わせます。たった一度の人生を無駄に過ごさせる危険があります。死は暗いものではなく、明るいもの、あの世とこの世を結ぶ貴重な通過門ですので、恐れることなく、照れることなく、明るい希望を与える哲学として自分の死の意味を思索したいものです。照れくさいと感じて貴重な摂理を封印するこの<照れの心理>をもう一度考えてみて下さい。照れる自分の深層心理には意外と宝物が存在しています:<寂光論:89-3>:
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