五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

談山神社へ「奈良旅7」

2013年06月15日 | 第2章 五感と体感
後の持統天皇こと鵜野皇后は大化の改新の年(645年)に生まれます。

談山神社と云えば大化の改新です。中臣鎌足が蹴鞠の式で中大兄皇子に近づき、蘇我入鹿暗殺を企てます。その企てを密談した場所が談山神社です。(談山神社は明治の廃仏毀釈により、寺院から神社となりました。)

その企てを実行した後に中臣鎌足は藤原鎌足となり、中大兄皇子は天智天皇となります。
中臣鎌足は百済人とも云われています。
百済と親交が深かった倭の国(日本)は、唐との戦いに参戦し(白村江の戦)、大きな痛手を得るのです。

巨大な大国「唐」と立ち向かうために倭の国が国家というアイデンティティを意識し出した時期とも云えると私は思っています。

談山神社の境内に立つと、国家形成の始まりを感じさせる強さを感じ、今回の訪問も自分が緊張感に包まれる体感から逃れられませんでした。古来からの山岳宗教や道教もひしひしと感ずる境内です。
藤原氏所縁の地でもあり、たまたま目にとまった「藤原氏に纏わる名字の会」の名字一覧表を見ると私の父方の直系が関わる名字がほとんど載っていることに、「ああ、さもありなん、、、」とも、思い、信じる信じないは別として、源平藤橘の中で清和源氏が祖先であると書かれてある実家の過去帳及び系図もどうかな?。。。とも思ったり・・・。

最近の解釈では、蘇我入鹿悪者説は薄くなっているようです。史実というのは、現代を生きている人が実際に見てきたわけでもないので、いろいろな仮説が出てくるたびに、自分の信じたいものを大切にしていくことが、自分の感性を育んでいくのを助けていくのかもしれません。

次回談山神社を訪れる時は、4月の幸神祭に合わせ奉納能を是非拝見したいです。
長きに渡り、年に一度新作能を発表する義務があったと聞いています。世阿弥生誕650年の今年、今まで談山神社にてどのくらいの能がお披露目されてきたのでしょう。あのひんやりとした深い山である多武峰(とうのみね)の神秘に怪しげな魅力を感じ、引くに引けない緊張感を感じるのも、藤原氏の血が自分に入っているからかもしれません。(妄想は続きます…)

明日は岡寺を書きます。。。ブログはあくまでも所感中心に綴っております。史実認識については諸説ありますので、御勘弁くださいませ。

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吉野宮滝と天河殺人事件 奈良旅6

2013年06月14日 | 第2章 五感と体感
流石、ジャンボタクシーです。気の利く運転手さんが吉野上千本の分水神社まで案内してくださり、そこから金峯山寺を詣で、行きには通らなかった土産物屋や宿坊、旅館が並ぶ屋並みを抜け、元来た路に戻りました。
吉野川ほとりの製材所まで出た所で、吉野駅とは反対方向に吉野川を上ると、風光明媚な宮滝があります。
そこには、持統天皇が通った離宮がありました。今は観光用の看板しか立っていませんが、現在建っている小学校のあたりが宮滝と云われています。

宮滝に関しては、語れるほど書物を読んでいないので、これから学び深めてゆきたいと思っています。

或る本には、吉野の西行庵あたりから東に向かって降りて行くコースが、持統天皇が天武天皇と通った場所であると書かれてありますが、確かに天武天皇ゆかりの桜木神社、浄見原神社も歩ける範囲にあり、しかも御園という地名もあります。

吉野川の宮滝史跡の傍にある橋の欄干から見下ろす川は、岩が重なり流れが急です。若草色に映えような美しい水色は、ここから下流では見ることはできません。お天気にも恵まれたので、深く透明な水面(みなも)は吸いこまれていくようでもありました。
持統天皇が頻繁に通い、隠密の行動をするには相応しい場所だったのでしょう。遷都を繰り返す明日香という都会から離れ瞑目できる場所もきっとここであったのかもしれません。

この宮滝は、内田康夫著「天河伝説殺人事件」の舞台にもなっており、松本清張の「神々の乱心」でもこのあたりが舞台となり描かれています。

天河殺人事件については、天河伝説が基に成っており、世阿弥の長男元雅が亡くなる直前に天河神社に奉納した面をモチーフにし、現代の架空の能楽家元水上流の新家元が道成寺を舞っている最中に舞台で亡くなるシーンから始まります。浅見光彦が過去を遡っていくと吉野に住まうある女性に辿りつきます。続きは小説でどうぞ(笑)
少々フーコーの「薔薇の名前」にも似ているかな。。。と、思う節がある内容です。

金峯山寺には訪れても、ここまではあまり観光客が訪れないので、次回訪れる時のルートを慎重に計画を立てなければ、と、気持は次回の旅の行程が頭に巡りっぱなしでした。

続きはまた明日に・・・
宮滝からまっすぐ談山神社へと向かいます。

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吉野金峯山寺 奈良旅5

2013年06月13日 | 第2章 五感と体感
上千本から降り、憧れの金峯山寺に。

御開帳の期間を狙った旅でしたが、残念ながら御本尊を目の前にすることが出来ない事態に。。。

何故かと云うと、私達が訪れた6月7日は、な、なんと、役行者(役小角)忌であったのです。
しかも、法要の時間と重なり、普段はお目に掛かることのできない金峯山寺の管長様のお話を聴くことができたのです。

役行者は634年に葛城山に生まれ、吉野で修業を積み修験道を確立。(私の記憶では638年:確か、数日前のブログにはそう書きました。)明治の廃仏毀釈で、修験道は排斥され、苦しい道のりであったようです。
管長様は、信者の皆様に「よく耐え忍びました」と、労をねぎらう言葉を掛けていらっしゃいました。

桜の苗木を植えることが修行の一つであり、その苗木を植え続けている方が、表彰されていました。

役行者は、持統天皇(鵜野のさらら)よりも9歳年上ということになります。
何度も吉野を詣でた鵜野が、修行を積んだ役行者を師と仰ぐには、丁度いい歳の差でもあるかもしれません。

役行者は、結局箕面に流され、最後は伊豆に流され亡くなったと聞いていますが、管長様はそのことには触れてはいませんでした。

能楽の「葛城」は、まさに役行者の「葛城山から橋を掛けた」という伝説と重なります。

能楽の謡曲を表から読み解くもの好し。裏から読み解くのも好し。能楽の師の謡曲解釈の説明を思い出しながら金峯山寺の境内で鳴り響くホラ貝を聴くこととなり、思いがけないホラ貝の音から道教の思想の中で命を繋いできた祖先のDNAを私の身体に強く感じました。山々に響きわたるホラ貝は、空気に浸透するが如きの音でもありました。

「個人の真実」を信じることは、我を活かしていくための大事な「確信」にも値します。
それを他者に共強要すれば、他者は違和感を感じます。真実であることに疑いが無ければ、それは我の真実となっていくのです。
修験道者である役行者の成りを見た人々は、その魅力にも取り憑かれたことでしょう。
その「成り」が未だに絶えずに人々の心を捉えているということは、魂という本質からぶれていないからなのだと、ひしひしと感じ山を降りました。

明日のブログは鵜野皇后が足繁く通った吉野「宮滝」です。

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吉野詣 奈良旅4

2013年06月12日 | 悔いのない人生とは?
今まで何度奈良を旅したかきちんと数えた事はありませんが、長谷寺、室生寺方面、法隆寺や信貴山方面、二上山を眺めながらの當麻寺詣、山の辺の道、明日香、多武峰方面、柳生の里や浄瑠璃寺方面、奈良坂、高畑を抜けた新薬師寺あたりや春日原生林等、地図を頼りに自分なりにパーツに分けて随分歩いてきました。

修学旅行で奈良に行ったのが初めてであり、10代~20代の頃はインドやアジアの国々に興味を持ち旅しているうちに、改めて奈良を歩きたくなり、旅をしたのが、「私の人生の奈良期」のプロローグだったのかもしれません。

仕事や勉強会で年に数回関西を訪れる機会を与えられた10数年前から、一気に拍車がかかり、時間を作って奈良や京都巡りに費やしてきました。
でも、さすがに吉野は遠いというイメージが付き纏い、なかなか足を踏み入れることができずにいました。

今回の旅行は、ジャンボタクシーの定員9名に合わせて旅のメンバーを募ったことで、心身ともに楽に移動することができました。しかも、私達は金峯山寺まで行くのが精一杯だと思っていたのですが地元で育ったこの道30年の運転手さんが気を利かして上千本まで案内してくれたのです。

源氏物語に登場する現場に立ちたくなり、平家物語を読むにつれ、特に西行や義経にまつわる場所を訪れたくなり、現場に立つことで私の頭の中で物語の再現が成されていくこと自体が、今や私の趣味と生活そのものと言っても良いかもしれませんし、生き甲斐だと言いきることもできます。

吉野川を渡り、吉野杉の製材工場の脇を通り抜け、吉野駅に立ち寄り、グングンと山道を上って行くと道路の途中に後醍醐天皇御陵がありました。「鎌倉時代から室町時代を生き抜いた後醍醐天皇がこの山奥にあるの何故か?そして後醍醐天皇の怨霊を恐れ、御陵の入口を北にし京都に向け、怨霊を封じたのであろう…」と勝手な推測でタクシー内で盛り上がっているうちに上千本の水分(みくまり)神社に到着しました。
修験の香り漂う地であり、社殿は関東の香取神社をコンパクトにしたようなイメージを受け、時代を経るごとに役割が重なり、安産祈願へと変化していったように見受けられました。
分水嶺にある社であるゆえに修験道を確立した役行者以前の古層の祈り場であることは確かでありましょう。地が持つ力がとても強いと感じました。
神仏習合の名残である八角の御輿を拝見することもできました。

たぶん、この分水神社から先がさらに修験道の大奥になるはずで、豊臣秀吉が修験の山の奥の奥まで桜の山にしたことも修験者に対する制圧にも繋がるであろうし、現在では桜木を植えることが修験そのものであることを知り今回の旅の驚きの一つでもありました。

役行者(小角)も空海も西行も、そして芭蕉もこの山で多くを学んだはずです。そして、頼朝に追われた義経が静御前と別れた場所が西行が三年間住んだと云われている庵跡と同じ場所であろうことも感慨です。女人禁制の修験の山に女を入れることは危険極まりなく、歩けるはずもありません。静御前は後ろ髪を引かれる思いで都に戻り母の元に戻りますが、直ぐに頼朝に捕えれてしまいます。鎌倉に連れて行かれ、義経の子を宿ったことが解りますが、生んだ子供は無残にも由比ヶ浜に沈められてしまうのです。義経はこの吉野の山から平泉に逃れるのですが、日本海から東北に抜ける大きな関門が有名な安宅です。
東大寺再建のために勧進して巡る修行僧を装った弁慶の名シーンが、この安宅の関です。

吉野と云えば、能楽では「二人静」が有名です。里の女と静の合舞いによって、静御前の霊を間近に見ている様な感覚に成る演出がとても美しいです。

分水神社から少し下がったところには車も停車できる展望台があります。お天気の良い日は大阪城も見えるらしいのですが、ホンマカイナ!と思うくらい山々が連なっていました。役行者の生まれ故郷にである葛城山を望み、思わず手を合わせたくなる情動に駆られた風景に、憧れの吉野の地に立った臨場感が湧き立ちました。長きに渡り修験者しか見ることのできなかった風景を見ることができる時代に生きている自分は本当に幸運です。いや、、、昔々の自分の祖先は修験の山々を駆け巡っていたやもしれませぬが。。。( ^^;)

続く・・・
明日も吉野を綴ります。

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大和三山「奈良旅3」

2013年06月11日 | 第2章 五感と体感
香久山は 畝火雄々しと 耳梨と

    相あらそひき 神代より 欺くにあるらし

古昔も 然にあれこそ 

    うつせみも 嬌を あらそふらしき

藤原京を囲む大和三山をいつか歩いてみたいと望み続け、畝傍山は時間の都合で果たせませんでしたが、香久山と耳成山の山頂に立つことが出来ました。

藤原京から見る畝傍山は西側にあります。袂には橿原神宮と神武天天皇御陵があり、いずれの場所からも見上げることのできる尊いお山です。標高は198.8m。

耳成山は藤原京の真北に位置しています。標高は139.6m。中腹には耳成山口神社があり、その奥の山道を2,3分登ると頂上に着きます。

香久山は藤原京の東側に位置し、標高152m。山頂には天香久山神社。山の麓に近いところにはイザナギノミコトとイザナミノミコトが、離れた場所に祀られており、山を降り切った場所に天岩戸神社があり、重なり合う三つの岩が祀られています。

緑の繁る季節には、地形を把握するには難しいのですが、香久山からは、葛城山、金剛山、二上山を望むことができます。

耳成山は、樹木の新陳代謝が早いようで、比較的木々が細いのが印象的でした。香久山は、東側に連なる山々「多武峰(とうのみね)」の森に似た草木が茂っており、大和三山の草木の違いに、太古の昔奈良盆地が巨大な湖であった名残を何となく感じとることができました。
なんといっても気の好い場所で太極拳をすることもできた今回の旅。香久山の山頂と畝傍山の麓での太極拳は、とても気持のよいものでした。

藤原京は、これらの三山は警護の山であったことは明らかで、南にある甘樫丘を含めて、厳重な警護がそこで成されていたことも現場に立って改めて実感できたことです。四方には、他種の部族が住み、渡来人が行き来し、修験者が山に住み、それらを纏める采配の知恵は現代よりも難しいものであったことでしょう。

能楽にも「三山」があります。
万葉集は、本日のブログ上記に記した中大兄皇子と大海人皇子と額田王の三角関係の歌がありますが、
謡曲三山は、ちょっと違う内容です。畝傍山の男が、桜子と称する香久山と桂子と称する耳成山を愛し、そのうち美しい桜子ばかりを寵愛するようになると、耳成山の桂子は、憂い哀しみ池に身を投げてしまいます。
それから年月が過ぎた或る時、大原に住まう僧都が由緒ある大和三山を眺めながら耳成山の池を通ると、一人の女がやってきます。女は耳成の桂子で、つらつらと僧都に西に見える畝傍の派手やかさを恨み事を述べるのです。
そのうち、畝傍の桜子まで現れ、結局、僧都の前で桂子は桜子に恨み辛みをぶつけ、桜子は言い返し、そのかけあいの中、僧都は二人を弔い続け、最後は御法を受けて二人の女は消えてゆく。。。というお話です。

夏の発表会で三山を謡うので、派手やかな畝傍に嫉妬する耳成の想いを心ゆくまで感じ取ることもできました。

美しい桜子が我が身の美しさゆえ当たり前のように全てが手に入る物云いに、「桂子がんばれ!」と思いながら、妬む気持に感情移入する私は、桂子の気持がよくよく理解できるのです。
いにしへから現代にかけての人々も、そんな桂子に哀れを思ったのでしょうか。。。
耳成山の麓には桜の公園があるようです。

ちょっと長くなりましたが、今日の奈良旅は、大和三山でした。

続きは明日。。。

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藤原京と本薬師寺「奈良旅2」

2013年06月10日 | 第2章 五感と体感
橿原の本薬師寺は、680年、鵜野(後の持統天皇)が病に倒れ、天武天皇が平癒を誓願し薬師如来を本尊とする寺の建立をしたのが始まりだそうです。(日本書紀)

梅雨晴れに恵まれたおかげで、念願であった藤原京跡と本薬師寺跡に立つことが出来ました。

☆本薬師寺には一部の礎が残されており、円形で3,4人が腰を下ろすことができるくらいの高さと大きさです。
柱の形状が同じであったはずですが、礎の上層部分はそれぞれ違う形をしており、ひとつひとつ、それぞれ役割があったように見受けられます。

千四百年という時を経た礎には、時を経験した記憶が宿っているせいか私のいつもの妄想癖が始まったのか、境内に入るや否や、鳥肌が立つ体感的現象を経験し足が動かず、皆さん全員が入るまで入ることができませんでした。

遺跡には、代々継がれてきた遺跡守りの一族も暮らしているようで、並んだ礎の真ん前に一件の家が建っていました。

☆藤原京は、遺跡の調査が進んでおり、私が想像していたよりも広い範囲で残されていました。
本殿の礎跡には、見学者に高床式の柱のスケールが解るように立てられており、私の背の高さよりもはるかに高いことも解りました。その跡地に立つと大和三山である耳成山、畝傍山、香久山、そして甘樫の丘を見渡すことができ、山々に囲まれ広大な盆地の中心であることが良く良く理解できました。

現場に立つと、千年、二千年の時空を飛び越えることができます。

真北には後の平城京、平安京、鞍馬山、そして日本海の小浜、南の天河、吉野、熊野、新宮。
西方向には二上山、葛城山を望み、東方向には多武峰を望み、中枢の地を体感することで、本殿に鎮座する権力者の情報力を感じることができました。

天智天皇、天武天皇、持統天皇、中臣鎌足や蘇我入鹿と同じ時代に生きていた役行者の布石と深く結びついてくることは私の思索の中心であるかもしれないと、ふと思い、二日目の吉野が一層楽しみになりました。

続きは明日…


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奈良の旅 其の一

2013年06月09日 | 第2章 五感と体感
今回の奈良を巡る旅は、二日間9人乗りのジャンボタクシーをチャーターし、明日香、吉野、多武峰を巡りました。

一日目は午後二時~ホテルを出発し、耳成山と香久山に登り、本薬師寺跡と藤原京に立ち、神武天皇御陵と橿原神宮を参拝。

二日目はホテルを9時出発し、吉野上千本、水分神社(みくまり)まで車で上がり、葛城山、二上山、金峯山寺を見渡し、新緑の桜の葉を愉しみ、金峯山寺を参拝。6月7日は、役行者(役小角)忌であり、大規模な法要に遭遇。管長様のお話を直に拝聴することが出来た上に、ホラ貝の音を聴くこともできました。
金峯山寺から、持統天皇が30数回通った吉野宮滝跡に立ち、吉野川の清流を橋から眺め、そこから車で40分くらいかけて走り多武峰に到着。談山神社を参拝し、明日香に戻ると13時過ぎ。岡寺の袂で昼食を頂き、岡寺、飛鳥寺へ。
飛鳥寺の外にある蘇我入鹿の首塚を拝みつつ、飛鳥寺のアイドル犬イブちゃんにも再会できました。

3日目は、関西の勉強仲間と合流し、唐招提寺、薬師寺へ。唐招提寺は、鑑真和上忌であったため、ここでも法要の準備がされていました。法要が始まると本堂に入れなくなるので早めに参拝し、東山魁夷の描いた襖絵を本坊で拝見。鑑真和上の墓を拝み、清涼感に包まれました。
門前の84歳のおばあちゃんが経営するうどん屋さんで冷やしうどんを頂き、薬師寺へ。
薬師寺から西の京駅まで歩き、そこからタクシーに乗り、聖武天皇光明皇后御陵参拝し、二月堂へ。お天気も良く二月堂から望む風景は素晴らしく生駒山も望むことができました。
手向山神社、二月堂、湯殿を抜け、講堂跡を通り、東大寺本殿を外から拝み、南大門を抜けて近鉄奈良駅へ。

盛りだくさんの大人の修学旅行は、結果的にこんな行程となりました。

皆様ととても楽しく旅することができ、感謝しています。

旅を終えたばかりで飽和状態をさましつつ、書き綴りたいと思います。


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持統天皇を巡る旅に

2013年06月06日 | 第2章 五感と体感
昨日のNHK歴史ヒストリアは伊勢神宮でした。伊勢神宮と持統天皇は切っても切れぬ縁があるわけで、昨日の番組でもそのことに焦点があてられていたようです。
勉強になりつつも一部私が解釈しているものとは、ちょっと違うなぁ、、、と思いながら拝見しましたが、今日から出発する「持統天皇を巡る旅」のワクワク感に拍車がかかりました。

いつもは奈良市内に宿を取りますが、今回は橿原を拠点に、じっくりと巡る予定です。

今日は、橿原神宮~神武天皇御陵~藤原京や薬師寺跡を見学しながら大和三山巡り。

金曜日は、飛鳥寺~天武天皇持統天皇御陵~岡寺~談山神社~吉野宮滝遺跡~吉野金峯山寺

土曜日は、唐招提寺と薬師寺、東大寺

いずれも何度か足を運んでいる場所ですが、吉野はまだ未経験です。本来ならば一週間くらい宿坊に泊まり、西行庵や義経塔を歩き山の中で「二人静」などを謡いたいのですが、今回は謡曲「三山」を携えて、ハミング程度に抑えます((笑))
もう少し謡いが上手くなったら、龍田神社で龍田をハミングしたいと壮大な夢を持ってはおりますが^^;

大人の修学旅行。。。生き甲斐の心理学を学ぶ友が10人集まり、賑やかな旅に成りそうです。

現場に立ち、自分が何を感じるか。

現場に立つことで感じるものを五感を使って感じ取ることは、歴史の知識などはあまり必要ありません。
逆に知識が無い方が、違和感を感じ取りやすく面白いのです。

文化人類学、比較宗教学を研究するためのフィールドワークの面白さはここにあります。
特別なことを言語化するのではなく、自らが自然に吐露する言霊(ことだま)は、自分自身を知ることにも繋がっていきます。

では行ってまいります~~^^//

facebookやツイッターでぽろぽろと呟きますが、ブログは土曜日までお休みいたします。

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鎌倉の大仏

2013年06月05日 | 第2章 五感と体感
昨日の腰越勉強会のお題は「鎌倉・長谷の大仏」でした。

現在は浄土宗であり、お寺の名前は高徳院です。

壇ノ浦の戦いが1185年。

平家が東大寺を焼き打ちした後、東大寺再建に力を貸したのは頼朝であり、鎌倉八幡宮を中心に鎌倉と東大寺は長い期間親交を深めています。

長谷の大仏は、1243年に造られたと吾妻鏡には書かれてあるそうです。

昨日のブログにも書きましたが、腰越に縁が出来、K邸のリビングから万福寺の裏側を望み、その先の海を望むと、義経の憂いが伝わってきます。

道教~山岳信仰~役小角、都の明日香に暮らした豪族、他国の民族、権力者も草の民も風土に育くまれた文化で生き、時代を隔てて生きた義経もまた、山に住まう人々に多く助けられながら生き延びていきます。

政権を握った頼朝は、長きに渡る西の文化を模しながら、武家文化を増強し禅宗の寺が鎌倉時代のイメージを強化させていきます。

現代の鎌倉は、私が片足を突っ込みながら育った自分の生活圏でもあったので、寺院巡りというよりも暮らしに根ざしていたと云ったほうがしっくりきます。

でも、歴史の学びを深めていくと、長谷の大仏でさえ、鎌倉時代の抑圧的な模倣の精神に、儚さを感じる対象となってしまうのです。

平家物語を読むにつれ、平家に肩入れする私の心があるのかもしれませんが、従兄弟である義仲の子を娘と共に育てながらも梯子を外して追い打ちし、兄を慕う義経を最後の最後まで追い詰めていく執拗さを忘れることはできないのです。

家臣に父を殺された頼朝の愛と憎しみの表裏を感じざるを得なく、抑圧的なもののなかに大きな罪悪感も垣間見え、それらが鎌倉という地のアイデンティティになっていることも感じたりします。

吾妻鏡をまともに読んでいないので、ここで突っ込んだことを書くに憚られますので、まずは吾妻鏡をよく読んでから鎌倉の学びをしていかないと、鎌倉というフィールドに立ちながら鎌倉を題材にした学びは進まない思うようになりました。

鎌倉の大仏。。。伽藍が津波で流され、なんども造り変えられ、修復され、今に至るわけですが、未だに私の意識の外にある大仏様をもう少し学びを深めてから考えていきたいと思うのです。

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腰越と義経

2013年06月04日 | 第2章 五感と体感
今日は腰越勉強会です。

腰越状をしたため、つれなく頼朝に追い返された義経。。。

腰越の万福寺から見た江の島と富士山の景色が、900年ほど経った今でも変わらないと思うと、直ぐに時空を超えてします。私の妄想癖は、今から始まったわけではないので、時空を超えた想像が今では自分を助けてくれている思っています。

義経の足跡を辿るほど、義経が好きになるのは、きっと私に限ったことではないように思いますが、湘南の海を眺めなたら、平泉で北上川を眺めながら、義経は何を思ったのか。。。と考えると、義経の寂寥感と孤独感にどうしても繋がってしまうのです。

今日も900年後の今に生きる私が義経供養をさせていただきながら、腰越に行ってまいります。

紫陽花の季節でもあり、鎌倉は五月の連休と同じくらいの賑わいようかもしれません。

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人との繋がり

2013年06月03日 | 第2章 五感と体感
誰もが言う言葉ですが、やっぱり、人との繋がりはありがたいものです。

一所懸命やり続けていると、誰かが見ていて、誰かが近寄り、誰かが知らせてくれて、また人との新たな出会いが生まれていきます。

当たり前のことのようですが、この繋がりを実感すると、奇跡のような尊さを感じたりすることがあります。

東日本大震災から2年が経ったこの年になり、私自身ようやく「他で活動している方々が見えてくる余裕」が出てきました。

自分達が活動している生き甲斐の心理学をどのように被災地の方々に役立てていくかを模索し、活動しているうちに、自分なりの形が形成されてきました。

3年目という時間を経て自分達の形が形成されてくると、第3者へ自分たちが行っていることを伝えやすくなってきます。

つまり、「経験したことや行っていることを自分の言葉で伝える」ことが、もっとも第3者に伝えやすい「道具」であることをしみじみと感じているわけです。

経験を言語伝達することは信用にも繋がります。

活動を通して出合う他の団体とのコミュニケーションも段々と私自身が必要としてきたかな、、、と、思うようになったのも、自然な流れかもしれません。

石の上にも3年。
耳にタコができるような言葉ですが、3年やってみて初めて実感するものであるかもしれないと思っています。

出会いと繋がりを大切にしながら、自分のできることをあいも変わらず粛々とやり続けることが私の形です。その過程での出会いは、ほんとうにありがたいものです。

昨日、福島から避難している人々のためにピアノを教える活動をしている友人の姿を垣間見、私達が行うそれぞれの形を結ぶものは、「愛と信頼だなぁ~~」と、しみじみと感じました。

友人と離れて生活していても、やっていることを垣間見ただけで、安堵感を感じたことも確かです。

人との繋がりは、ほんとうにありがたいものです。

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香り

2013年06月02日 | 第2章 五感と体感
気位の高い六条御息所が潜在的に相手の不幸を祈ることを「六条御息所の髪に染み付いた護摩焚きのケシの実の香」と表現した紫式部の表現力は、ほんとうにスゴイと思います。

意識的に祈るのか
無意識のなかで祈るのか

でも、浸み付いたケシの実の香りは、そうそう取れるものではないようで、いくら取り除こうとしても取れません。

「私としたことが、若い女に嫉妬して、呪いをかけるなどありはしない。。。」と、必死で香りを取り除こうとする焦りのシーンは、手に汗握るサスペンスさながらです。

源氏物語最終章の浮舟に登場する「匂君」「薫君」も象徴的に香りを表現しています。

匂いは直接的であり、薫りは比喩的です。
光源氏亡き後、まさに、そのような人生を歩む二人。

幸せを直に掴むことのできる匂君
父と呼びながらも父では無い薫君の隠された出生の秘密は、彼に抑圧的な心模様を形成させていきます。

梅雨に入り、じとじとした空気を清浄するために昨日は唐招提寺の香を焚きました。

この季節になると香を焚きたくなります。

罪悪感や抑圧的な香ではなく、あでやかで直に香るものではなく、魂に触れる様な香りを聴いていたいものです。

鑑真和上1,250年忌とのこと。来週の旅の締めくくりに唐招提寺の墓地に手を合わせます。気に満ちたあの場所からどのような香りが漂ってくるか、これもまた楽しみです。

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二人の皇子とグレートマザー

2013年06月01日 | 第2章 五感と体感
大津皇子と草壁皇子。

文武両道であり、イケメンである大津皇子の母親は、鵜野皇女(後の持統天皇)の姉である大田皇女です。

かたや鵜野皇女の息子である草壁皇子は、大津皇子ほどの才能はなかったようです。

出来る男の大津皇子は、恋人もいて、互いにやりとりした歌も万葉集に入っており、生きた足跡を辿ることができます。

母親同士は姉妹であり、同時に天武天皇との間に生まれた大津腹違いの兄弟であった二人。

世間が認める皇子であっても、母親である大田皇子は他界しており、気の強い鵜野皇女の子息である草壁皇子のほうが、政治的に裏打ちされた強い安定があったことは確かのようです。

国を治めるには、統率力、判断力があり、人から慕われるカリスマ性が必要ですが、それらを持ち備えていても、統率者の周りを固める人々の力が無くては、砂上の城です。

世間から認められ、次期天皇としての期待もされていたであろう大津皇子は、あっさりと謀反の罪に着せられ処刑されてしまうのです。

そして、二上山の頂上に葬られ、見せしめとされるのです。

そうであるから故、當麻寺の向こうにそびえる二上山は、哀しみの対象として私の心に留まっています。

大津皇子が葬られた後も、後継者が決まらず、結局は身体が弱かった草壁皇子も亡くなってしまいます。

結局、持統天皇となる鵜野皇女は、めきめきと本領を発揮していくのです。

我が子を飲み込み、母親としての役割以上に子供を追い越してしまう母親像を象徴的に表現するならば、真っ先に持統天皇が浮かぶのは私ぐらいかもしれませんが、現代の親子関係に置き換えてみると、いつの世もなんら変わらない「人の成り」であるように思います。

ユングの云う6つのファクターの一つである「グレートマザー」にしても、このような歴史の積み重ねから臨床学的に立証もされてきたのでしょう。

母親の存在の強さと葛藤する経験は、人が成長としていくうえで、必要な通過儀礼であるかもしれません。
出来得ることならしかるべき年齢にそれが経験できることが望ましいかもしれません。
いつまでも母の幻影が付きまとわれていると、その幻影は限りなく大きなモンスターとなって、本当に飲み込まれてしまうかもしれません。「グレートマザー」とは、良く言ったもんだ、、、と、思います。

母親と子供の関係は、精神的なカニバリズムであると、ツラツラ思うわけです。。。
とはいえ、母と子の課題は、誰しもありし課題なのです。

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