五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

自分の感情のこと

2012年06月15日 | 第2章 五感と体感
心の中が整理しきれていない状態であったり、現実を受け容れることが困難であったりすると、自分の感情が自分から置き去りになっていることがあります。

自分の感情を向き合うことをしてばかりいたら、もしかしたら何事も進まないかもしれないので、いちいち感情を見つめることをさせない人の造りは上手くできているな、と思ったりもします。

でも、

いつまでたっても同じ考え方、同じ見え方しかできず、それに嫌気がさしてきて、同じ気持でグルグルと回っている自分に気付いたら、それは、一歩進んでドアノブに手を掛けたことと同じように思います。

今日の東急セミナー雪谷の勉強会は、自分の感情に留まってみながら、カールロジャーズのプロセススケールを見ていきます。

来週のたまプラーザも同じような内容を予定していますので、テキストをお持ちの方はP136のスケールをちらちらと見てください。

湧き上がる感情には必ず意味があります。

その意味は、湧き上がった本人にしかわかりません。もしかしたら、その意味や解釈が自分を苦しめているかもしれません。

答えは自分の内にあります。
他者のアドバイスが自分自身の答えではありません。

できることなら、スケールを見ながら、自分自身で測ってみることから自分の感情を見つめていくと、無理が無いように思います。自分のペースでゆったりと、楽しみながら学び合っていきましょう^^

一カ月ぶりの再会を楽しみにしています。

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祗園女御の結婚

2012年06月14日 | 第2章 五感と体感
大河ドラマ平清盛に登場していた祗園女御こと松田聖子さんが結婚とのニュースで世間が盛り上がっております。

白河法皇に寵愛された白拍子の役と合い重なり、面白さを感じています。

平家物語では祇王と仏御前もそうですし、静御前に常磐も然り、一人の女性が輝く時期のなんと短い事…。現代でいえばセクハラ同然です。

近江の国でひっそり暮らす祗園女御のイメージを払拭し、幸福感溢れる話題を提供する彼女に、生きるエネルギーの強さと並々ならぬプロ根性を見せつけられた様な気がしています。

…、

アイドル全盛、歌謡曲がもてはやされた時代に、それらに全く興味の無かった私が、今では謡曲を愉しみ、白拍子の舞いを妄想していること自体想像もしていなかったことです。
聖子ちゃんに、してやられた感を持つのも、同世代の僻みでもあるかもしれません(笑)

身体の底から異物を感ずることなく通る声、頭のてっぺんから指先まで気を入れて、謡い、舞おうとする私の能楽修業は、始めるにはちょっぴり遅かったかもしれませんが、悔いなく死ぬためには、どうしてもやらねばならないことなので、自分の喜びの体感を今までよりも大切に生活していきたいな、と思います。

今度の会見は、「ビビッと」ではなく、「ビビビッと」でしょうか^^。

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レフリーの実力

2012年06月13日 | 第2章 五感と体感
昨日の日本対オーストラリアの試合は、試合よりもレフリーの判断と行動が目立ちました。

二国の選手は、今までにないくらいの集中力で試合を展開させ、観ている私も息をするのを忘れるくらいでしたが、レフリーの様子を見ていると、クライアントを嫌な気分にさせるカウンセラーのように見えてきて、段々と見ている私が不快な気分になってきました。試合の留めが、今まさに蹴ろうとしているフリーキックの瞬間であったことにも、気持が盛り上がってきた時にブチっと人の感情をぶった切るカウンセラーを想像し、これまた後味の悪さを感じました。

レフリーは、ある意味カウンセリング的な手法で臨まなくてはならないと思うのです。

試合中に自分が出したオーストラリアに対するレッドカードが、試合後の自分に恐怖を感じたのでしょうか?ともかく日本に対しても、オーストラリアに対しても理不尽な判定が下され続け、結果、レフリーが操作することが目立った試合となってしまいました。

クライアントの思考と感情流れをあるがままに受容する中で、不安感を感じ取り、主訴を読み取り、丁寧に傾聴していくことにより、本人自身が自分自身で答えを見い出していくことが理想のカウンセリングです。カウンセラーができてもできなくても、出来ていない自分に反省しながら、学問を意識しながら理想的な方向で傾聴していかなくてはなりません。

レフリーが強引に試合の結果、つまりクライアント自身の中にある答えを強引に引き出してしまったことと同じように思います。

「思考・感情・行動」を操作することで、相手の答えを導き出すものは、答えではありません。

沸々と湧き出す自らの情動が、自らの力で引き出すものでなくては、多分自分の五臓六腑に響かないはずです。

日本のサッカーの試合を見ながらそのようなことを思い、あまりの後味の悪さに録画してあったイタリア対スペイン、フランス対イングランドの試合を改めて見直してしまいました。これらの試合のレフリーはスマートでした。。。(笑;)

試合の内容が良かっただけにとても残念でしたが、私も日頃の自分を叱咤する機会を得たわけで、学びをサボれば明日は我が身だと痛感しました。日々真摯に粛々と勉強するのみ、、、です。

…勉強とは、自分の知識を積み重ねるだけのことではありませぬ。。。

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本丸から太鼓

2012年06月12日 | 第2章 五感と体感
週末、昨年に続き名古屋能楽堂に行く機会を頂きました。

名古屋能楽堂の天井が高いので開放感があり、見入った後にふと頭を上げると天の高さにホッとするのです。

午前中は徳川美術館を訪れ巧みな工芸に惚れ惚れし、観能後は栄にくり出し名古屋の味を堪能し、繁華街をぶらぶら歩いて地下鉄にも乗り、満喫した一日を過ごしました。

能楽仲間とさんざん喋り笑い、名古屋城にほど近いホテルでぐっすり眠ったわけですが、いやはやびっくり。。。
6時に太鼓の音で起されたのです。

名古屋城から聴こえてきたのです。

大きな太鼓の深く太い音の響きを聴き惚れ「ああ、この時間軸がいいなぁ」と思いました。

太鼓の音は梅雨の空気にしっとりと馴染み、かなり遠くまで響いているはずです。

日常に聞く音は、日常に見る風景と連動しています。

よく考えてみると、謡いを始めた頃から呼吸も深くなったように思います。呼吸が深くなると心身に余裕も出てきたように思います。キリキリしていると呼吸が続きませんから、何があっても丹田まで息を落とす感覚を意識しているうちに何となく感覚が掴めてきたようにも思います。

住まう地域の環境が人をつくり、人が環境をつくります。

太鼓の音で夢から覚め、積み重ねられた歳月と歴史から生まれる考え方は、人のアイデンティティに深く影響していることをよくよく意識させられました。

また太鼓の音で目覚めてみたいものです。次はいつになるかな…

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墨の香

2012年06月10日 | 第2章 五感と体感
知人から沢山の書が届きました。

私が2,3枚書いていただけるかお願いしたら、追加の郵便で届いたのです。

A4の封筒に入れるのに苦労したことが一目でわかり、書くこともさることながら、一所懸命荷造りする彼女の姿を思い起こし、可笑しく嬉しく思いながら封を開けました。

閉じてある封を開けると、

ぷぅ~んと墨の香り。

墨の香りは湿度の高い梅雨の空気に混じり、居間の空気が浄化していくのを感じます。

さて、

どんな掛け軸に仕立てようか。

これから、また楽しみが増えました。


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今年も萩がグングン

2012年06月09日 | 第2章 五感と体感
紫陽花が見頃になってきました。
お隣からはみ出している紫陽花も去年よりも花数が多く、元気良く咲いています。

毎年恒例我が家の名物萩も一番枝を切った五月の連休からグングンと伸びてきました。

昨年は、東日本大震災と原発事故からまだ二カ月しか経っておらず、ひたすら不安感と向き合うためのブログを書いていたことを思い出します。

見えている風景は変わりませんが、自分の意識は震災前とは確かに違います。
ほんとうに自分にとって何が大事なのか、を意識化しようとする心がけは、以前より強くなっているようです。

今年もグングン伸びている萩が、おおらかに伸びやかに育つことを期待して、夏を過ごしたいなぁ~と思います。

2年前位に購入したオリーブの木もようやく花が咲きました。

季節が巡り、順繰りと植物が育ち花が咲き、そのたびごとに愉しむことのできる感情を大事にしていきたいものです。

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母の息と子の息

2012年06月08日 | 第2章 五感と体感
「母の呼吸は、子の呼吸でもあるな」と、しみじみ思います。

子を見ていると、母の息遣いが見えてくることがあります。

母である私自身も「子」です。
離れて暮らしていても、母の息遣いは伝わってきます。
この息遣いが呪縛になることもあれば癒しになることもあり、まさに天使と悪魔だ、と思ったりします。

母の呼吸が整うと、子の呼吸も整うのです。

自分がどんな呼吸をしているのか。

自分が呼吸に乗せて表す「ことのは」(言葉)は、どんなものか。

息…よくよく漢字を見てみると、息は「自分の心」で成り立っています。

子のことを心配する前に、自分の「息」を意識してみると解決の糸口が子でなく、もしかしたら自分であることに気付くかもしれません。

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本音って何なのさ!

2012年06月07日 | 第2章 五感と体感
昨日の続きです。

或る人にとっては本音に辿りつくまでの道のりは長い、と昨日のブログで書きました。

本音って一体何なのでしょう?

私自身、それを自分に問うと本音が自分の理想にかき消されて見えていないことがシバシバあるし、もともと本音が見えていないかもしれないのです。

「自分の主訴」は何か?

子供の素行を変えたい。
夫の習慣を変えたい。
職場の環境をどうにかしたい。
こんな自分をもっとすっきりさせたい等、

「本当に訴えたいことを「主訴」とするならば、果たして上記の内容が主訴と言えるのだろうか?」

「~したい、~すべきだ、~すべきでない、~で当たり前だ」
自分自身の感情を置き去りにして、これらの理想をひたすら想い巡らせているだけでは、それは主訴ではないようです。

このように理想を並べ立て、あたかもそれが主訴であるかのように置き換えている自分の思考には、必ず何らかの感情が背景にあるはずです。理想が叶えば自分の悩みが解決するわけではないようです。

つまり、湧き出している何らかの感情が、自分の理想を創造し、その理想と実際自分が経験している現状のギャップが何らかの感情を湧かせているようです。湧いてくる感情が自分で意識できていると、自ずと叶わない理想との戦いをしている自分に気付くことがあるのです。

叶わない理想と戦っている自分の何らかの不安感、つまり自分の本音に蓋を閉めているのであれば、きっと同じことの繰り返しです。

この本音の感情は、とても恥ずかしくて他者には言うことなどできないかもしれません。

他者に言ったところで、他者が答えを導き出してくれるわけではありません。本音の感情と向き合い、その感情をどうにかするのは自分自身です。

じだんだ踏みたいくらいの感情の中に更に潜んでいる「自分の不安感に焦点が合った」としたら、それが「自己受容」であるように私は思います。自分の身体に腑に落ちたような体感が得られたら、光が見えてきた証拠であるかもしれません。

それまでの道のりを共に歩んでいくのが私の役割なのですが、私自身も答えを探している一人の人に過ぎません。

「自己受容と他者受容」は、生きている以上日々の課題です。

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本音が出るまでの道のり

2012年06月06日 | 第2章 五感と体感
「一所懸命家の事をやっているのに…

一所懸命仕事をしているのに…

心を尽くして面倒見ているのに…

なんで相手は私の事を解ってくれないのだろう?」

このようなため息混じりの愚痴は、誰もが耳にする内容であろうし、自分自身も誰かに聞いてもらっている内容であるように思います。

「私は○○やっているのに…なんで、解ってくれないんだろう?」

相手が欲していることをやっているのか?
それとも、自分の理想や習慣が自分を縛り、自分自身に義務化していることをやっているのか?

いったい、どちらなんだろう…

ちょっぴり立ち止り、「自分がやっていること」と「自分が何を望んでやっているのか」を整理してみると、自分の身体と心と魂のバランスが見えてくるようです。

あれもこれも望み、あたかも自分が他者のために何かをしていると思い込んでいること自体が、自分を不健康に追いこんでいる根源かもしれません。

自分の本音が見えていないと、このようなことになりがちになるように思います。

一体、どのくらいの膜が自分の本音を包み込んでいるのか、自分の本音が意識化できたときに初めて認識できるものかもしれません。

或る人にとっては本音を意識化できる道のりは、そうそう簡単なものではないようです

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エリザベス女王様と仏表具

2012年06月04日 | 第2章 五感と体感
ワールドカップ最終予選、日本代表が快く勝ち、エリザベス女王即位60周年記念のテムズ川のパレードを惚れ惚れと眺め、日曜日らしい日曜日を久しぶりに過ごしました。大河清盛は、瞼が下がってきた関係で、後日のお楽しみです。

気になる表装作業から解放され、一日遊び暮らしていたら、やはり夢の中でしわ寄せがやってきました。
ずっと裂の取り合わせをしている夢。

結局、目覚めと同時に、仏表具に使うための4種類の裂を合わせざる得なくなり、ウジウジ悩んでいた裂の取り合わせを完了しました。
毎度、本紙(作品)に着せる形式と裂選びは、悩みに悩みます。

悩んだ挙句、滝つぼに落ちるような感覚で決定することもあります。

選んでしまえば、こちらのものなのですが、悩む時間が長いのが私の一番の不安な時間かもしれません。

岐路に立ち選択に迫られる時の感覚と同じです。

かといって、この裂選びは私の最大の楽しみでもあるわけで、好きだからこそこだわりたく、何となくプライドもあったりして、だからこそ囚われたように悩むのです。

さて、裂が決まった??(いやいや、きっと裁断するまで悩むと思うのですが)ので、今日は一応すっきりと仕事に出かけます。

皆様もよき一週間でありますように…

女王様のお帽子とスーツに「これが似合うのはこの方だけだわ~」と思い、アン王女の軍服姿に「うはー、カッコイイ」と呟き、ヘンリー夫妻に溜息を漏らし、兎にも角にも英国王室一家の服と帽子の設えに夢を与えていただき、今週も元気良く過ごせる感じが致します^^

とはいえ、私は平家納経と焚いた香に想いを馳せ…、日本の美しさに誇りをもちつつ^^

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職人に思う構想

2012年06月03日 | 第2章 五感と体感
昨日、六本木の新国立美術館でセザンヌ展を観ました。公募展やエルミタージュ美術館展も開催されており、芸術を愛する日本人の好奇心向学心をしみじみと感じて、椅子に座りあまり好きではない美術館のウネウネした建築をぼんやりと眺め、私の前を通り過ぎてゆく人々の鑑賞も愉しんできました。

日本の美術館にもセザンヌの代表的な絵画が所蔵されており、海外の大きな美術館に行けば当たり前のように展示されているセザンヌ。印象派の代表格として有名ではありますが、これだけの規模の展覧会はなかなか実現できるものではありません。
極東の日本へ運ぶための費用と保険の費用は鑑賞者には見えませんが、それらが整わなくては展覧会は開催できないのです。

今回の私のお楽しみは、セザンヌの絵も勿論ですが、額縁でした。

誰もが知っている画家であるが故、その絵画を生かすための額縁は、素晴らしい出来です。フランスの歴史的建築物の切れ端が集約されたような技術の深さを改めて拝見させていただきました。
石を彫るかのごとく、厚みのある木材を深く彫刻してある額縁は、これだけの大家の作品展でないと観る事はできないのです。

バリ島の木彫も手の込んだ繊細なものであるし、勿論、日本は仏師による木彫技術は言うまでも無く素晴らしいものです。
明治時代の廃仏棄釈で、平気で仏様を投げ捨ててしまったことで、どれだけ素晴らしい彫刻が捨てられ、どれだけ腕利きの仏師が職を失ったか想像すると、とても哀しくなりますが、日本人の持つ腕の良さは、私達の遺伝子に組み込まれているものであることは確かなのです。
美術館にこれだけの人が集まるというのも、巧みな何かが遺伝子に組み込まれていて、それが展覧会に足を運び、何かを表現する情動現象に表れている証拠であると思うわけです。

明治時代、ヨーロッパ絵画がどんどん日本に入ってきた時に、売れない彫刻家が額縁を作り出した話はよく聞きますが、仏師が洋画の額縁を彫った話は、そういえば耳にしたことがありません。多分、私が知らないだけの話であり、気に留めて調べてみようかな、と思います。

安易に額縁を手に入れる事の出来る時代が、果たして豊かであるのか…
機械で安易に表装をしてしまう時代が、果たして望ましいのか…

ちょっぴり考えさせられた一日でした。

人々が極上の一品を愛すると、それに纏わる何人もの職人が、自分の技でご飯を食べて行くことができるるのです。

入学者のいない大学を放置することよりも、現代でいえば、シルク ド ソレイユのような団体を一つ作ったほうが、より経済が活性化するように思います。
質の高さは、は命がけの技が必要ですし、命がけの人を支えるためには、更に人の手による繊細な技が必要になってきます。
本気のものを作ろうとすると、ほんとうに好きなことをしながらご飯が食べていけるように思うのです。

大学を作るより、一つの理想的な村を作ることのほうが、本気度が増してくるかもしれません。
そこでNPOというシステムを上手く活用すれば、大学よりも魅力的な学び舎ができるように思います。

セザンヌから、だんだん逸れた日曜の朝の長い呟きでございました。

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義経とのご縁

2012年06月01日 | 第2章 五感と体感
昨日も白旗神社で気合いをし、心の中で手向け仕事場に向かいました。

白旗とは、皆様御存じの通り、源氏の白旗です。平家は赤旗です。
頼朝に追われ平泉で自害した義経は鎌倉に運ばれ、腰越あたりの海に放られ、江の島の脇を流れる境川を上り、現藤沢駅の北2キロくらいの場所に流れ着いたそうです。昔は湾が深くそのあたりも河口に近かったと云われています。
その漂着地であると云い伝えられている場所に義経の首塚があり、そこから5分ほど北に上がった場所に義経公を祀った白旗神社があります。

6,7年前、源氏物語の所縁の地を訪ねまわっていた頃、鞍馬山を参拝しました。どうせなら義経が歩いた九十九道を歩き奥の院まで歩こうということになりました。
木々の根がうねうねと張った細い山道を歩いていると、木漏れ日が射し風が吹くと誰かが軽々と山道を駆け抜けているような気配を感じました。「ああ、きっと義経、」と思うと、母である常磐から離され、それでも清盛から命だけは助けられ、鞍馬寺に預けられた義経の遠い彼方の母の愛を希求する姿が見えてきたように思ったのです。

カウンセリングの学びの中で、避けて通ることができないテーマが「愛の原型」です。
昨日のブログに「自分は他者に、そして親に、どんなふうに構われたいのか?」という内容を記しました。つまり、このことは自分はどのように愛されたいのか?そしてどのように愛したいのか?という深い問題に繋がっていきます。

義経は、乳飲み子であった時から母と離され、物心ついた時には既に鞍馬山の修行の身であり、それでも鞍馬の山深くに隠れ潜む源氏の家臣達がキコリや農夫に姿を変え義経を遠く見守り続け帝王学を密かに教育されたようです。
どこかに住まう母を想うことが、義経の叶うことのないことに対する希求の強さとなり、義兄頼朝への期待感も愛への憧れが重なりどんどん強くなっていきます。

どんな目に遭おうと義兄頼朝を信じ、愛を求める義経を想像すると、現代の人の在り様と何ら変わりなく、人の業の普遍性を感じるのです。

4月に訪ねた平泉の高館から眺める広大で美しい北上川の風景は義経の眼にも深く焼き付いていたはずです。
愛せば愛すほど非情な仕打ちをする頼朝をどうしても好きになることができない私の思いが、白旗神社との出会いで浄化されているような気になります。
誰もが抱える愛の問題を敢えて向き合う仕事をしている自分が、気を整える場所として相応しいわけです。

湧き上がる感情には意味があります。
その意味を自分自身の解釈に置き換えていくには、置き換えるべく感受性が大切であると教えられています。
自分に起こる現象に対して、意味付けをしていくには、諸々な学びが必要なのです。

「あなたは夢見る夢子さんで、オメデタイわね、」と母に言われ続けて育った私の行き着く先が、現象に対しての意味を思索することであったこととは、さもありなん…だと、このところしみじみ感じます。

いつも私の正中線を整えてくださる義経公に感謝…

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