五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

義経とのご縁

2012年06月01日 | 第2章 五感と体感
昨日も白旗神社で気合いをし、心の中で手向け仕事場に向かいました。

白旗とは、皆様御存じの通り、源氏の白旗です。平家は赤旗です。
頼朝に追われ平泉で自害した義経は鎌倉に運ばれ、腰越あたりの海に放られ、江の島の脇を流れる境川を上り、現藤沢駅の北2キロくらいの場所に流れ着いたそうです。昔は湾が深くそのあたりも河口に近かったと云われています。
その漂着地であると云い伝えられている場所に義経の首塚があり、そこから5分ほど北に上がった場所に義経公を祀った白旗神社があります。

6,7年前、源氏物語の所縁の地を訪ねまわっていた頃、鞍馬山を参拝しました。どうせなら義経が歩いた九十九道を歩き奥の院まで歩こうということになりました。
木々の根がうねうねと張った細い山道を歩いていると、木漏れ日が射し風が吹くと誰かが軽々と山道を駆け抜けているような気配を感じました。「ああ、きっと義経、」と思うと、母である常磐から離され、それでも清盛から命だけは助けられ、鞍馬寺に預けられた義経の遠い彼方の母の愛を希求する姿が見えてきたように思ったのです。

カウンセリングの学びの中で、避けて通ることができないテーマが「愛の原型」です。
昨日のブログに「自分は他者に、そして親に、どんなふうに構われたいのか?」という内容を記しました。つまり、このことは自分はどのように愛されたいのか?そしてどのように愛したいのか?という深い問題に繋がっていきます。

義経は、乳飲み子であった時から母と離され、物心ついた時には既に鞍馬山の修行の身であり、それでも鞍馬の山深くに隠れ潜む源氏の家臣達がキコリや農夫に姿を変え義経を遠く見守り続け帝王学を密かに教育されたようです。
どこかに住まう母を想うことが、義経の叶うことのないことに対する希求の強さとなり、義兄頼朝への期待感も愛への憧れが重なりどんどん強くなっていきます。

どんな目に遭おうと義兄頼朝を信じ、愛を求める義経を想像すると、現代の人の在り様と何ら変わりなく、人の業の普遍性を感じるのです。

4月に訪ねた平泉の高館から眺める広大で美しい北上川の風景は義経の眼にも深く焼き付いていたはずです。
愛せば愛すほど非情な仕打ちをする頼朝をどうしても好きになることができない私の思いが、白旗神社との出会いで浄化されているような気になります。
誰もが抱える愛の問題を敢えて向き合う仕事をしている自分が、気を整える場所として相応しいわけです。

湧き上がる感情には意味があります。
その意味を自分自身の解釈に置き換えていくには、置き換えるべく感受性が大切であると教えられています。
自分に起こる現象に対して、意味付けをしていくには、諸々な学びが必要なのです。

「あなたは夢見る夢子さんで、オメデタイわね、」と母に言われ続けて育った私の行き着く先が、現象に対しての意味を思索することであったこととは、さもありなん…だと、このところしみじみ感じます。

いつも私の正中線を整えてくださる義経公に感謝…

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