散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

勝どき

2014-04-25 | Weblog
このところ天気いいから会社にじっと座ってられなくて、おとといは築地を歩いてコラムネタをひろい、
きのうは聖路加のまわり歩いてコラムネタをひろった。きょうは勝どきを歩いて、あいにくコラムネタは
ひろえなかったけれども、かわりにブログネタをひろった。


やさしさ見つけた

薬局だからお年寄りが置き忘れた携帯電話かも。勝どきは埋め立て地で、どこまでも凹凸のない平らな
地面が続く上に高層ビルが多いから、人情とか温かみを感じる土地ではないかと思ったら、あるじゃん。
やるじゃん薬剤師さん。


十返舎一九の墓所

もうちょっといったら東陽院というお寺に、弥次さん喜多さんがお伊勢参りをする『東海道中膝栗毛』の
作者、十返舎一九の墓所を示す碑があった。裏側を見ると昭和33年に東宝映画がこれ立てたみたい
なことが刻んである。


そんなようなこと

てことは、このお寺にお墓があるんだろうけど、門が閉まってる中で幼女がひとり遊んでいて、なかなか
入りにくい。幼女に聞いてもわからんだろうし、だいたい怪しまれそう。庶民が半ば道楽で旅する先駆け
みたいな滑稽本の作者だから、その末流の末流の末流の……なんだかわからないところに散歩ブログ
もあるかもしれず、お墓が見たい気もしたけど今日はあきらめた。 近いからまた訪ねられるし。


いちおう裏に回ってみたりして

墓地があるかなと期待したけど見当たらない。勝どきって明治から大正にかけて埋め立てられたらしい
から、お墓ったってそんな古くないだろう……と思うと、十返舎一九の墓があるのは不思議かも。どこか
から移してきたのかな?


いいところに気づいちゃった……

立て札を読むと、十返舎一九は天保2年(1832年)に没し、浅草永住町の東陽院に葬られたんだけど、
関東大震災のあと東陽院がこの地に移転し、墓も移された。つまり、亡くなった場所ではない。ならば
べつに墓石は見なくてもいいかな。


またいわくありげ

防災まなぶ不動明王……左の碑を読むと、「東京消防庁職員、佐藤学君(まなぶキター)は昭和57年
5月5日深夜、中央区勝どきのマンション火災に出場、猛煙猛火をかいくぐって7階のベランダに突入し、
熾烈なる火炎に対し我が身を母子らの楯として身を焼かれながらも庇護し、次々と4名の救出に成功。
そのあと、リフターに自分も乗れば、重量が超過して墜落する危険があることを考慮し、救急活動と酸素
欠乏で極度に披露した体にむち打ち、1人火炎を分けて無枠のはしご車の先端に飛びついたのであった。
しかし非情にもそのはしごは噴出する火炎に赤く焼けていて、灼熱のはしごを握る両の掌は焼けただれ、
ために握力が弱まっていた所に、一挙に拡大して噴射した火炎と熱風に圧せられて殉職なされた。享年
30歳、新婚3か月であった。(これで半分)


あの2階建てには

まなぶ君はホテルニュージャパンの火災のときも4名、宿泊客を助けた優秀な消防署員だったみたい。
ふりかえるとビルの下に2階建ての家(?)があり、カベに掲げた手書きの看板を読んでみると……


2階で巨大スクリーン完備

なんか意外なことが書いてあって、びっくりしたことであった。 勝どきの話は、これでおしまい。
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