市の星月夜日記

織江市の短歌、エッセイ

ひかりみづみづと注げり基督の掌(て)の孔のごとまばゆき初夏よ

2008-04-29 14:31:48 | Weblog


 仏はつねにいませども

 うつつならぬぞあはれなる

 人の音せぬ暁に

 ほのかにゆめに見えたまふ

                          梁塵秘抄


 祈りのこころを「短歌表現」に昇華するのは曲折が要る。

 「賛美歌」にしてしまうと、そのユニゾンではすなおすぎて、現代の歌としては「嘘っぽい」と感じる。

 かといって、虚偽や空疎な歪曲は冒瀆的に思える。

 ひねくれでなく、真摯に、自分のこころの(照り翳り)と信仰の領域をハーモニーさせることはできないだろうか。

 歌としても自立しながら、同時に頭でっかちではない自己表白でもあるという……


 浜田到さんは、ときどき信仰について詠っておいでだけれど、どこか苦いニュアンスがこびりつく。それはいや。

 
 いずれにせよ、この現代で、イエスさまを信じるということじたい、いたみをともなうことではなかろうか。あるいはいたみを認識すること、とも。


 大正エログロナンセンス時代のような奇怪な事件が頻繁に起こる。

 そんなニュースを目にするたび、自己の基軸を喪失してしまった魂の行方をいたわしく思う。


 この梁塵秘抄の小唄は平安末期の、貧しい庶民の「流行歌」だけれど、いつわりのない哀歓と「祈り」がこもっていると感じる。

 

 
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