仏はつねにいませども
うつつならぬぞあはれなる
人の音せぬ暁に
ほのかにゆめに見えたまふ
梁塵秘抄
祈りのこころを「短歌表現」に昇華するのは曲折が要る。
「賛美歌」にしてしまうと、そのユニゾンではすなおすぎて、現代の歌としては「嘘っぽい」と感じる。
かといって、虚偽や空疎な歪曲は冒瀆的に思える。
ひねくれでなく、真摯に、自分のこころの(照り翳り)と信仰の領域をハーモニーさせることはできないだろうか。
歌としても自立しながら、同時に頭でっかちではない自己表白でもあるという……
浜田到さんは、ときどき信仰について詠っておいでだけれど、どこか苦いニュアンスがこびりつく。それはいや。
いずれにせよ、この現代で、イエスさまを信じるということじたい、いたみをともなうことではなかろうか。あるいはいたみを認識すること、とも。
大正エログロナンセンス時代のような奇怪な事件が頻繁に起こる。
そんなニュースを目にするたび、自己の基軸を喪失してしまった魂の行方をいたわしく思う。
この梁塵秘抄の小唄は平安末期の、貧しい庶民の「流行歌」だけれど、いつわりのない哀歓と「祈り」がこもっていると感じる。