逢いたかった兄貴。すごく悔しい。
80翁が喧嘩とめたら...十日間の閉居罰って酷すぎるぜ。
その同じ3月に心肺停止って何なのよ。獄死でなくて獄殺じゃん?
ああ。丸岡修さんも、むごい獄殺だった(号泣)。
救援連絡センター発行「救援」紙の、8面より。
「怒りていう、逃亡には非ず」
追悼 泉水博さん
岐阜刑務所に服役中だった泉水博さんが亡くなってしまった。泉水さんは83歳の生涯の半分以上を刑務所で送り、外に出たい気持ちをずっと持ちながら結局は獄死という形になってしまった。私は今、十数年来の友人、支援者として言葉に表せない悲しみの中にいる。
2020年の2月に泉水さんは懲罰を受けた。囚人同士の喧嘩を泉水さんが止めたことが、規律違反になるというのが理由だ。朝、居室から出たとき、泉水さんの目の前で囚人同士が争う気配があり、思わず体が動き、もみ合っているうちの一人を背後から抑え一緒に廊下に倒れこんだ、という。
刑務所内のルールとして、喧嘩の加勢はもちろん仲裁に入るのもいけない、という。泉水さんもそれはもちろん承知していたが、「思わず体が動いて止めに入ってしまった。だってまわりに刑務官がいなかったもんだから・・・」と最後の面会(3月16日)に言っていた。
この出来事は本当に泉水さんらしい行いだと私は思う。泉水さんの最初の刑事事件も自分を守るためでなく巻き込まれたという。無期刑で千葉刑務所に服役中に同囚に医療を受けさせるため刑務官を人質にとって訴えようとした。
その後、日本赤軍によるダッカ事件の指名に応じたのも、「自分が行けば、人質になった乗客は釈放されるだろう」という考えだった。
泉水博さんの生涯は終始、人のために行動し、貧乏くじは黙って自分が引くというものだった。
しかし今回の懲罰への泉水さんの怒りは大きかった。人として正しい行為をしたとは言え、いちおうルール違反であることは泉水さんも認識していたので、「まあ訓告ぐらいで済むかな」と思っていたら、十日間の閉居罰を食らってしまったのだ。
普段、私との面会時には温厚な泉水さんが怒りをあれだけストレートに表すのは十数年来のつきあいでも記憶がない。泉水さんの心身を刑務所の管理体制がどれほどすり減らしていたか、怒りと共に記憶したい。
2006年のことであろうか、初めて会った泉水さんの印象は、小柄な体をキビキビと動かし、歯切れの良い一昔前の東京弁を話す折り目正しい人、というものだった。私は泉水さんのいたずらっ子のような笑顔や時に見せる含羞が好きだった。
面会はやがて定期的なものとなり、毎月一回は岐阜刑務所に行くのが私の習慣になった。泉水さんの窮状を訴える水田ふうさんをはじめ多くの応援団と共に私は泉水さんとの友情をはぐくんで来た。
2010年の秋、岐阜刑務所は突然面会の不許可を連発しはじめた。これは泉水さんを特別にねらったものではなく、全体の面会者が増えすぎたことなど管理上の理由であったが、新しい施設収容法の趣旨を大きく逸脱した刑務所運営であった。
泉水さんと共に獄外の仲間が共同原告になり、面会権を求める国賠訴訟を起こし、一審の岐阜地裁で部分的勝利、二審の名古屋高裁では一部をのぞきほぼ全面勝利に近い判決を得ることができた。
一方、泉水さんは最初の刑事事件(1960年の事件。なんと60年前!)で無期懲役刑を執行され続けている状態であった。さらにフィリピンで拘束された際、偽造旅券行使による旅券法違反で二年の有期刑も言い渡されていた。これまでも「救援」誌面に何度も投稿したように、刑の執行順序を変更し有期刑を務めないことにはいつまでたっても仮釈放の対象にならないという絶望的な状況であった。
このための裁判もこの数年戦ってきたが、昨年一審に続き二審の名古屋高裁でも敗訴し、最高裁に上告中の中、突然迎えた死である。
泉水さんと共に歩んできた十数年間、成果もあったが、成し遂げられなかったことの方が多い。何より、あれほど出所したかった泉水さんの願いをかなえられなかったことは残念という言葉では到底表せない。
泉水さんとの付き合いで学ばされたことは本当に多い。たとえ周囲と摩擦を生じようとも自分が信じる倫理に従って行動すること。事を起こすについて損得を考えないこと。取った行動の責任は自分が負うこと。昨今あまり見られなくなった人間の生き方、規範を示してくれた。泉水さんの人生の最後尾を伴走できて私は幸せだった。ありがとうございます、泉水さん。
最後に、泉水さんが亡くなった状況がどのようなものであったか刑務所は私たちに明らかにしていない。刑務所の壁は依然として厚いままだ。こんな行刑が許されていいはずがない。泉水さんもどれだけ無念な思いで旅立っただろうか。
(舟橋 寛延)