このところ、事務所のベランダに、巴川方向からやってくる。
わがトーテムと命名して以来、そんな感じだ。
またしても、感じる力、使ってる?というタネをわが心に。
落としていったわけだ。
もう少し経ち、骨ストレッチをしながら巴川を眺めていると、下流から。
白鷺や名の知らない鳥が、水面まじかを滑空していく。
思わず、骨を動かしながら、かっこいいね!と、芝居の、大向こうからの掛け声みたいに。
心の中で、ひそかに、つぶやき。
なんて人知れずのシーンが、待ってもいてね。
そんな朝の景色。
これらの一連の、それこそ、one pieceとしての宝物、みたいな毎朝、ってわけだ。
こちらの事務所に引っ越してからだから、5年くらいになるか。
今朝は、机の上に、人型と車型、とでも呼べばいいのか、置いてくれてあって。
夏越の祓、一年のちょうど半分の頃、小芝神社で、挙行されるんだけど。
その時に、お焚き上げされる、人の形をした紙に、名前を書き、カラダの痛いところ。
不調を訴えているところ、などなどをそれで触れて、というわけだ。
そう、まさに、手当。
言葉としては残っているけれど、その意味は、形式的に、マンネリ化してしまった習わし。
なんだけど、カラスのメディスンからしたら、まさに、感じる力、使ってる?ということで。
実のところ、現代においても、重大な仕草、振る舞いなのかも知れず。
幼い頃の、痛いの痛いの、飛んでけー!ってやつね。
現代風の言葉で言えば、この、効果効能は、ある、と。
この間、わが身、わがカラダで、実証実験してみたからね。
その時には、人型は使わず、自分の手を患部に当て、そこへエネルギーを充填。
腰の痛みは、ひいたよ。
古来の習俗のうち、未開人の迷妄、迷信、などなどとの分別は、必要かも、だけど。
簡単に、未開の民の、なんて、上から目線の言葉で斬って捨てることは、そろそろ、やめにしても。
いいんだろうな。
そもそも、未開、開いてない、ってなによ、くらいの話だ。
文明的に開かれている、なんて言いながら、心の中は、閉じっぱなしでしょ、というね。
ところで、このところの車内ミュージックは、「ツァラストラかく語りき」、リヒハルト・シュトラウスの。
ニーチェの書いたものへのオマージュ、くらいのウタイで、作曲したのかな。
昔、どこかのロックバンドも演奏してなかったかな、レッドツェッペリンだったか、いや、違うか。
社会や学校や世間から強制される、さまざまな決め事、約束事、やって当たり前的なことから、飛び出せ!
若造、みたいなね、それこそが、新生の人類なんだ、その先頭にいるのが、俺だ、とニーチェは。
喚く、その挙句、狂人となって朽ち果てた、ということになっているんだけど。
そんな宣言文が、くだんの書物で、それを、音の連なりとして絡め取ったのが、上記楽曲、ってわけだ。
たぶん。
今朝は、格別に気持ちが良くて、明日からの、高千穂への旅を言祝ぐかのような空気だ。