食事のあと、飲み残しのお茶を。
やおら、飯茶碗に注ぎ、丁寧にご飯の痕跡をかきとり。
それを、飲み干す、という仕草。
で、それを御膳に伏せて、さて、次のお昼には、それにご飯をよそい。
というね。
それが、デフォで。
なんだけど、それを見ていたおすえさん、母方の祖母ですが。
眉をしかめ、汚い、と。
なにせ、その頃、文藝春秋なんか読んでいた、田舎のインテリさんだったので。
世をあげての衛生ブーム、なんてのに与してもいたのか。
その子どもたちは、秋葉山のお祭りでは、香具師の、ま、テキ屋さんだね、わたがしなんかは、買わせてもらえず。
孫たる僕にも、お金は汚いから、と手を洗わせたりね。
いまでも、おじおば会では、そんなことも話題になるくらいなんだけど。
その、慶応生まれのおみなさんの所作が、最近見た、禅の食事の仕方だったんだよね。
お椀のひとつひとつを、あえて残したお新香で、拭い取り、そのあと、おふきんできれに磨き上げ。
携帯用の袋に入れる、というね。
わが菩提寺も、禅寺で、臨済宗とか曹洞宗とかは、そうですね。
江戸時代、お侍さんの多くが、禅の修行をしたんだろうね。
幕末の勝海舟や山岡鉄舟なんかもそうだよね。
おみなさんの所作は、その名残なのか。
なんてことを考えていると、昨夜の大河、松陰先生だけど、コレラが流行し。
コロリ、と言ってたか。
衛生というね、観念が、あったのか、なかったのか、わかりませんが。
この漢字自体、外来種の趣があり、しかも、中国からでなく、欧米からの翻訳語みたいな。
禅と衛生ってのを、おみなさんVSおすえさん、という姑と嫁との確執、ッて感じで捉えると。
小学校の低学年のころ、僕の前で、泣いていたおすえさんを思い出すんだよね。
汚くてわたしは食べられなかった、ということを、初孫の前で言いながら、だったんだね。
ところで、今、松本清張を読んでいて。
「火の路」という、女性史学家のお話なのか、奈良の飛鳥に、実は、ペルシャからの宗教が入っていたんじゃないのか。
ということを、推理小説仕立てで、という感じなのかな、上下二巻の上を半分超えたくらいなんだけどね。
去年、自転車で回った飛鳥、例えば、酒見石だったか、大きな石の上面を、穴をほったり溝を掘ったりしてあって。
って言っても、僕はそのとき、ワールドカップのコートジボアール戦をツイッターかなんかで眺めていたので。
現物を見てないんだけど、こんなことなら、見とけばよかったけど。
橘寺の二面石とか、亀石とか、意味不明の石が散在していて。
それらの石というのが、斉明天皇、女性ですが、の作ろうとして未完におわった、両槻宮(ふたつきのみや)という。
宗教施設に使おうと石工が削りだして、その事業が途中で頓挫したので、未完のまま、放置されていたんじゃないか。
それは、仏教を国家宗教にしようという勢力と、仏教よりさらに西からやってきた、ゾロアスター教とかを奉じる勢力との。
戦いがあったんじゃないか、と。
ま、そんな推理小説なんだけど、自分の足で、というか、自転車ですが、歩いたところが出てくると。
リアルなんだね。
さて、弥生3月も今日と明日を残すのみ。
巴川河畔でも、そろそろ、ウグイスの、第二回戦くらいのトレーニングが始まりそうです。