分類・歴
苦難の末に建った御代の大仏さま
熊野山光西寺 : いわき市鹿島町御代
俗称「御代(みよ)の大仏」とか、雨ざらしのことから「ぬれぶつさま」という呼称でも親しまれているが、正式には「銅造阿弥陀如来坐像」といい、昭和43年12月27日に市指定有形文化財になっている。
像の高さが3,45メートルだが仏身だけだと2,80メートルで、蓮華座の直径が2,99メートルである。
《御代の大仏》
宝暦2年(1752)、当時の和尚だった禅法は、江戸へ出て人々から浄財を集め、13年後の明和2年(1765)、江戸神田の鋳物師、木村将監たちによって製作が始められ、2年後の明和4年(1769)に完成した。
しかし、禅法和尚は完成前に上州高崎で毒殺されたという説があるから、着手から完成までの工程を実際には見ていなかったことになる。
また、像が完成した後の運搬にも相当苦労したようで、江戸から小名浜までは海路で運ばれたが、小名浜の沖まで来たところで難破の憂き目に遭ってしまう。
浜へ打上げられた大仏を御代まで運び込まれて安置されたその年が安永5年(1776)だった。
《光西寺の正門》
鎌倉長谷寺の大仏を彷彿とさせる御代の大仏は、幾多の苦難を経て静寂な光西寺の境内に、石積の基壇の上に慈悲深く人々を見守っている。
苦難の末に建った御代の大仏さま
熊野山光西寺 : いわき市鹿島町御代
俗称「御代(みよ)の大仏」とか、雨ざらしのことから「ぬれぶつさま」という呼称でも親しまれているが、正式には「銅造阿弥陀如来坐像」といい、昭和43年12月27日に市指定有形文化財になっている。
像の高さが3,45メートルだが仏身だけだと2,80メートルで、蓮華座の直径が2,99メートルである。
《御代の大仏》
宝暦2年(1752)、当時の和尚だった禅法は、江戸へ出て人々から浄財を集め、13年後の明和2年(1765)、江戸神田の鋳物師、木村将監たちによって製作が始められ、2年後の明和4年(1769)に完成した。
しかし、禅法和尚は完成前に上州高崎で毒殺されたという説があるから、着手から完成までの工程を実際には見ていなかったことになる。
また、像が完成した後の運搬にも相当苦労したようで、江戸から小名浜までは海路で運ばれたが、小名浜の沖まで来たところで難破の憂き目に遭ってしまう。
浜へ打上げられた大仏を御代まで運び込まれて安置されたその年が安永5年(1776)だった。
《光西寺の正門》
鎌倉長谷寺の大仏を彷彿とさせる御代の大仏は、幾多の苦難を経て静寂な光西寺の境内に、石積の基壇の上に慈悲深く人々を見守っている。