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いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
それに周辺の話題。
時折、プライベートも少々。

いわき鹿島の昔ばなし30

2013-05-15 07:35:57 | Weblog
                               分類・歴
   嫁さま探し

 明治22年4月1日に町村制が実施され、それまでの戸長制を廃止して町村長を置くことになった。
 この時、遭い隣り合う12の村落が一団して 『鹿島村』 が誕生した。
 また、磐城・磐前・菊多の3郡を合併して石城郡(いわきぐん)としたのは明治29年4月1日からだった。

        
              《昭和30年頃の結婚式

 石城郡鹿島村(現・いわき市鹿島町※一部〈常磐〉が付く町名あり)は、平藩、湯長谷藩、幕領の支配下から集められて構成されていたので、それぞれの部落にはその部落としての特徴や風習があった。
 例えば、結婚の相手(嫁)探しにしても部落によって候補者範囲が異なっていたようで、大別すると次のようになる。

 ①同じ部落(大字)内から  ②鹿島村内から  ③浜の方から  ④山の方から
  註釈 : 浜の方とは小名浜・江名・豊間・四ツ倉などで、山の方とは三和・赤井・平窪・遠野・高久・好 間などをいう。
 ◇松久須根=主として部落内から選ばれ結ばれた。
 ◇三沢=山の方からだが特に遠野方面から。
 ◇走熊=平窪、高久の方からが多い。
 ◇下蔵持=比較的に鹿島地域からが多いが、浜の方からの人もいる。
 ◇船戸=鹿島地域からも居るが平地域からも多い。
 ◇久保=この部落は圧倒的に山の方の人たちが多い。

◆これらの傾向は、一度ある地区(海・山)方面から嫁をもらうと、その地域と情報交換が出来
 るようになり結婚適齢期の娘がいると薦めたり、薦められたりして結局長い間には、その部落
 によって特定の地域から嫁が集まってきたという訳だ。
  

             
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いわき鹿島の昔ばなし29

2013-05-14 07:14:34 | Weblog
                                            分類・歴
       久保の奴行列
                        郷倉があった場所 : いわき市鹿島町久保字於振

 昔、久保地区では奴行列が行われていたという古文書が、昭和54年6月に取り壊された郷倉(ごうくら)から出ている。
 「郷倉」とは江戸時代、年貢米の保管や凶作に備える貯穀のため、郷内に設置された共同穀倉のことで郷倉(=写真)は、鹿島保育所前に二俣になった道があるが、そのゴミ集積所辺りに建っていた。

            
                       《久保に存在した郷倉》

 倉内にあった長持の中に保管されていた中型ダンボール4個分の中から見つかったものだが、解体に当たって長持も大型で置き場所がないとの理由で、残念なことに焼却されてしまった。
 長持に被せてあったものには5つの「下り藤」の紋所が付いていたが、これは湯長谷藩主、内藤家を表わしているもの。 註釈 : 同じ内藤家でも平藩主は「上り藤」。

 古文書は「明治12年、久保村 行列帳 目録記入 消防組」と表紙書きされた1冊で、内容は奴行列に関わる役名と氏名、人数が列記されており、行列帳と日付が同じ「諸入用調帳」によると他村からのご祝儀も受けている。
 上荒川村(平)や上神白村(小名浜)の人たちの名もあるから、当時の久保村の奴行列は近郷近在では名が通っていたものと推察できる。

 久保に長持や被い(おおい)などが、どのような事情で拝領したのかは記録にはないが明治維新後、湯長谷藩では藩の所有物を領内の村へ下付したものとみられる。
 

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いわき鹿島の昔ばなし28

2013-05-13 06:48:53 | Weblog
                                            分類・歴
      村是になった 「一圓融合」
                            場所 : いわき市鹿島町下蔵持字戸ノ内87-2

 一圓融合の碑が常磐・江名線(湯本~江名線の県道48号)にある。
 昭和9(1934)年2月、村長に就任した志賀直哉が荒廃した村政を立て直し、豊かで平和な郷土をつくるという発想から村民に意識を促すために広めた言葉だ。
 昭和初期は全国的に大不況に見舞われ、特に農村漁村の影響はひどく鹿島村もその例外ではなく、不況と共に村内の世相も激しく揺れ動いていた時代だった。

             
                  《熊野神社上り口にある一圓融合の碑》

 一圓融合の4文字を簡潔に説明することは難しいので、その一部に触れると「人徳を以って万象の徳を開闢(かいびゃく)するが故に、報徳生活は人道の原則であり一圓融合によって万象が生々発展し……」などと述べられている。
 志賀直哉(村長当時)は、鹿島村内12大字(御代・船戸・飯田・久保・下蔵持・上蔵持・米田・三沢・走熊・下矢田・上矢田・松久須根)全体の不況脱出と融合を願って旧、鹿島小学校校舎玄関前に12本の棕櫚(シュロ)の木を円形に植えた。
 その中央に二宮金次郎少年期の銅像を配した。これは児童たちが金次郎にあやかるようにとの念願を込めての建立だった。

 延喜式神名帳登載の磐城七座の一つである、鹿島神社(常磐上矢田町)には、当時の鹿島村振興委員会が奉納した「一圓融合」の文字が刻まれた木碑があるが、使用された木の素材は歴史ある七本松(走熊にあったもの)が倒木した内の1本を輪切りにして作られている。


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いわき鹿島の昔ばなし27

2013-05-12 06:44:33 | Weblog
                                           分類・歴
       十九夜講と安産祈願
                         天徳山正福院 蔵福寺 : いわき市鹿島町走熊字坪下

 十九夜講は、毎月十九日の夜に輪番制で決まった家に女性たちが集まり、安産や子供の無事成長をを祈願した。祭壇に、観音様が子供を抱いた姿の掛軸を飾り、団子やお菓子、果物などを供え全員で線香をあげてお題目を唱和する。伝統的な行事で、人々は親しみを込めて「十九夜さま」と呼び各ごとに行われていた。
 
            
                  《走熊の蔵福寺境内にある如意輪観音像》

 走熊を例にとると、全員が車座になって座り、直径約1,8メートルに1,000個の数珠玉が通された紐輪を右回りにたぐり寄せ「ナンマイダンボ、ナンマイダンボ」と皆で調子を合わせながら願いを込め、大きな数珠玉が手元に触れた時には深く頭を下げる数珠繰りが行われた。
 ナンマイダンボとは南無阿弥陀仏と同意語。

 この風習は、主に千葉県北部、茨城県、栃木県にもあるが、福島県南部でも行われるようになったのは、江戸時代に磐城平藩の殿様が働きずくめの女性を休養させるための方策として、「十九夜講」によって女性たちに外出許可を出したと云われている。

 また『神谷村誌』によると、これより先に「慶長の頃、夏井武兵衛という武士が平中神谷字瀬戸に移り住み……云々」という、中神谷の十九夜講の伝承が記載されているから起源の確証は得られない。
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いわき鹿島の昔ばなし26

2013-05-11 06:57:05 | Weblog
                                            分類・歴
     幻に終わった常磐炭礦の走熊立坑
                    場所 : いわき市中央台鹿島1丁目 (旧・鹿島町走熊字鶴巻地区)

 鹿島小学校から、かしま幼稚園を通って、中央台へ抜ける手前の坂を上り始めるところに常磐炭礦の入気立坑ができる筈だった。
 昭和41年のことだから、今のようにニュータウンはなく周囲は山と田圃だけだった。写真の中央にある電柱の辺りが、当時ボーリング(掘削)が行われていた場所で、この坂を上り詰めた所に中央台南小学校とローソンがある。

             
              《この地に、いわき最東端の立坑ができる寸前だった》

 常磐炭礦東部礦(常磐水野谷地区にあったが鹿島礦と呼んでいた)は坑道が太平洋側にどんどん伸びていき、坑内の先端と立坑までの距離が遠くなってきたために安全面や作業の効率性を考慮して、作業員入出坑口を松久須根に設け、これを鹿島上矢田立坑とした。
 この立坑は地下600メートルほど下がった場所に人車坑道があって、作業員の乗降は2段式ケージをつるべ式に上下させる各々27名を乗せて運ぶ構造になっているものだった。
 600メートル下がる所要時間は約3分掛かったと言われている。

                   《中央台から走熊方面をみた風景》 

  昭和39年6月に常磐炭礦は更に、鹿島地区から海側に向けての掘進計画を立てて、昭和41年10月には走熊鶴巻地区に入気立坑の建設に着手し、ボーリング工事が始まった。
 昭和43年に完成したが、既に石炭に替わる石油の輸入が活発化してきて、鹿島礦も採掘中止の憂き目に遭い 「走熊立坑」 の実現は成らず、幻の立坑になった。
 上の写真で見ると、貯水池の土手下辺りが入気立坑が出来る予定地だった所で、遠くに赤い屋根が見えるのは「かしま幼稚園」。 

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いわき鹿島の昔ばなし25

2013-05-10 07:45:52 | Weblog
                                分類・歴
       クサッポの湯治場

 明治時代の後半から大正時代にかけて、鹿島の松久須根(現・常磐松久須根町)にクサッポの湯治場があった。クサッポとは、腫れ物や、でき物のような吹き出物のことで、昔はクサッポができる人は意外に多かった。
         
         《湯治場の湯槽》 イメージで本文と直接の関係はない

 生活環境や栄養面、そして衛生上の問題などが関連していたのだろうと思うが、ここの湯は硫黄分の多い鉱泉なので良く効く湯治場として入湯客が絶えなかった。
 松久須根の滝ノ作入口を流れる松久須根川に沿った山側に、茅葺き屋根の湯治場があって深井戸が川の近くだったので、そこから水を汲んで風呂まで運んだそうだ。

 現在ではクサッポで苦しむこと事態が珍しいが、当時としてはこの湯が近在近郷の人たちから親しまれ、利用されていたという話だ。
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いわき鹿島の昔ばなし24

2013-05-09 06:29:39 | Weblog

                            分類・歴
     お葬式の仕来たり
 昔は村の地域組織の末端に「隣組」というものがあって、隣近所の何軒かが1単位として何事に於いても協力し合っていた。
 組内に冠婚葬祭があると、強固なチームプレイとなって表れた。
 例えば組内に不幸が起きると自宅から墓場まで出す訳だから、組の衆がその家に集まり一切の役割分担を決めて「知らせ」役になった人は、2人1組になって遠くの家々までお悔やみがあるのを知らせに歩いた。
今のように「葬式」とは言わずに、何処そこの家で 「じゃんぽん」 ができたと、クチコミで早々に伝達されていった。     
         
         《土葬なので棺を担いで親戚縁者が行列して墓へ行った》

 隣家の2~3軒を中宿(ちゅうやど)として借り、弔問客を振舞うが客がどの宿へ行くかの割り振りは青年団。婦人会の人たちも加わり、料理の手伝いや細かな仕事を手伝った。
 振る舞いの料理は女性たちの手作りで、煮物・ごま塩のおにぎり・茶(醤油)ぶかし・季節の野菜漬け・きんぴらごぼう・タクワン・吸い物(おツユ)などに加わり、魚類は普段行商に来ている魚屋に任せた。
 弔問客は焼香を済ませると、中宿(※「ちゅうや」とも言う)で休憩し故人を見送ることになるが、ここで酒や食べ物を振舞われているうちに酔いが回ってしまう人が結構いた。
「これも仏様の供養になるから」と言われて誰も咎める人はいなかった。

 今でも地域の組織の中に区長、組(班)長制があるから、その組(班)内の人たちという意味では変わりはないが、どこの家も葬祭ホールを利用するようになった現代では、隣近所の役割負担は大幅に軽減されている。
 

 

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いわき鹿島の昔ばなし23

2013-05-08 06:47:16 | Weblog
                               分類・歴
  番刈 (ばんかり) という土地名が付いた理由
                     場所 : いわき市鹿島町下矢田字曲田

 いまでも 「番刈」 と呼ばれている場所がある。本当は「曲田」という字名があるので、地図を広げても住所名を探しても分らないが、鹿島の人には親しみ易い呼び方として伝わっている。
 昔は長閑なところで矢田川の、その場所には水車小屋があった。いつも水車が回っていて、村人が近くを通ると水車の音が「ばんかり、ばんかり」と言っているように聞こえた。

         
              水車小屋があった矢田川の現在の風景

 その水車小屋がある付近に1軒の雑貨屋が建ったが、○○さんの店とは言わないで、いつの間にか誰言うとなく 「ばんかり屋」 と呼ぶようになった。
 写真(下)は、旧鹿島街道の下矢田地域で左側の空地に、ばんかり屋があった。
 隠れて見えないが、ばんかり屋の直ぐ裏側が丁度、水車小屋があったとされる矢田川が流れている。

         
               かつて「ばんかり屋」があった跡地

 鹿島街道に下矢田というバス停があるが、旧道をバスが走っていた頃は、その付近に番刈というバス停まであった。
 

                       
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いわき鹿島の昔ばなし22

2013-05-07 06:29:32 | Weblog
                                           分類・歴
      戊辰戦役の砲台跡地
                               所在地 : いわき市常磐上矢田町

 鹿島街道にある鹿島神社の階段を上ると直ぐ右側に、幅が1メートルほどの細い道がある。
 そこの入口に華木公園と刻まれた白い御影石が建っている。
 先は、見るからに公園があるような雰囲気ではなく枝葉を掻き分けながら奥へ進んで行くと、何の変哲もない長方形の僅かな空間に出る。

           
                         《華木公園の入口》

 真下に旧鹿島街道と新道が並行して伸びているのが見えるが、実はこの華木公園というのは慶応4年(1868)の戊辰戦争の時に砲台を据えて官軍を迎え撃った場所で、昭和2年10月に建立した戊辰戦役鉋台古跡の石碑がある。
           
                   《公園の中央に古跡碑だけがある公園》

 七本松、上矢田、そして平城に最も近く要塞ともいうべき拠点、軍次山(くうじやま)もしかり、要所に砲台を据えて官軍の侵攻を防ごうと戦ったが敗北した。
 戦略的には平藩、仙台藩などの同盟軍(東軍)が、地の利からいっても有利かと思われるが官軍の攻略術と勢いが、いかに優っていたかが窺われる。
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いわき鹿島の昔ばなし21

2013-05-06 07:48:15 | Weblog
                                            分類・歴
     払い下げになった磐城平城の門

 昔、磐城平城にあったという立派な門が、鹿島の民家にある=写真の上と真ん中2枚。
 磐城平城は慶応4年(1868)の戊辰戦争で、その殆んどが焼滅してしまったが明治4年(1871)に廃藩置県の際に城跡の全てが民間に払い下げられたので、門はその頃に運び出されたものと考えられる。
 一概に門といっても、外張門・内張門・六間門・掻槌門・城坂門・不明門・鷲門など多数あるからどの門であったとは特定できない。

             
                         佐原邸の門(御代)
 佐原家は明治初期頃までは養蚕業と質屋を併業しており、明治9年からは酒造業を営むようになった。
 昭和40年頃まで、この蔵から銘酒「御代の鶴」や「みちのく」が製造販売されていて人気があった。
 また、この家からは鹿島村(当時)の初代村長を務めた佐原久次郎や、明治32年9月に若干32歳で福島県議会議員に当選した佐原久道(※久次郎の長男)が出ている。

             
                         八代邸の門(御代)
 八代家も土地の旧家で、家は「御代の大仏」がある光西寺の側にあるが、私道を入っていくようになるので見学というだけで安易に立ち入るのは、ご迷惑が掛かる。

    【門に関してもう一題
 平藩の殿様が、今(平成25年)から約185~200年前(文化、文政の時代)に当時、下矢田村の園部家に一泊したことがあった。
 その際、事前に殿様が泊まる部屋の続き間に槍を立てておける高さの部屋を用意すること、殿様専用の厠(かわや※トイレ)を1間四方の広さに造り、中と廊下には畳を敷くことなど細かな準備を求められた。
             
             
                         園部邸の門(下矢田)
 その求めの中に、殿様専用の通用門を建てることというものもあって職人を入れて完成させた。
 園部家では昭和に入ってから何度か家屋の取り壊しや改修が行われたが、旧状保存に努め殿様が通った門も原形を保って建て替えられ今尚、威容を誇っている。


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いわき鹿島の昔ばなし20

2013-05-05 07:25:45 | Weblog
                                           分類・歴
      鳥(酉)小屋という行事

 鳥小屋は、の子供(男)たちが山から篠竹を刈ってきたり、各家々からは薪や炭を貰い集めて空地や田圃の中に小屋を建て、ぼんでんに幣を付けて高い竿を立てると出来上がり。
 小屋の中に神棚をしつらえて正月様をまつり、子供たちはその中で一晩を過ごす。鑪(いろり)を作って、ここで夜、参詣に来た人たちに田楽や焼餅などを馳走する。

     
       《昭和初期の頃の鳥小屋風景》            《鹿島で復活した鳥小屋》
 「とり小屋」の「とり」という字は「鳥」とか「酉」と書かれるが、大須賀●(=竹かんむりに均)軒(おおすがいんけん)の『磐城誌料歳時民俗記』=明治25年(1892)によると、男女の子供たちが主体になって大人も加わり飲食、談笑して男子は手に小さい梵天(ぼんでん)を振り立て、女子は羽子板にヨツデ(四手)を持ち添え「放(ほう)いほういの鳥をば、頭折(かしらお)って、しぼ(塩)つけて、さんどがしま(佐渡島)へほうい」と繰り返し呼ぶ。これは今年も農作物(米など)が鳥の被害に遭わないように、追っ払う厄除けだというようなことが記載されている。
 ……と云うことは、語源は「鳥追い小屋」からきているように思われる。

            
          《地域の団体や地元の人たちが一体になって出来上がった鳥小屋》
 地域の伝統や芸能が時代と共に消滅していくのは淋しい限りだが、正月の伝統行事だった「鳥小屋」は鹿島地区地域振興協議会と地域住民などの協力によって平成22年に55年ぶりの復活を果たした。
            
            《各家庭から持ち寄った正月飾りと共に鳥小屋は燃される》
 一夜が明けて8日を迎えると、早朝からの人たちが正月飾りを持ち寄ってきて、鳥小屋に火が点けられると一斉に投げ入れて、お焚き上げを行う。
 その時に、竹の先に餅を刺して焼いたものを食べると1年中、無病息災でいられるという伝えがある。


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いわき鹿島の昔ばなし19

2013-05-04 07:56:45 | Weblog
                                              分類・歴
   六地蔵が石塔になって残った
                            現在の住所 : いわき市常磐松久須根町大夫内

 六地蔵の石塔は、鹿島街道の常磐上矢田町(鹿島神社前の信号)から、五安の溜池へ向う途中の常磐バイパス高架下付近の道路端にある。 
           
                    《新道に建てられた六地蔵の石塔》
 六体の地蔵さまは昔から松久須根(まつぐすね)駒込め地内の、山がせり出した場所の硬質岩に彫られていた。
 これをの人たちは六地蔵と呼んでいたが、昭和46年に道路の拡張工事が行われて取り壊されてしまい、像高が約60センチほどあった六地蔵は造形を完全に失ってしまった。
             
             
                《工事現場から出た丸型の石が台石に使われた》
 しかし、内の人々の拠出金によって同年6月吉日に現在の地に六地蔵の石塔を建てた。石塔の周りに5,6個の硬質岩石が置かれてあるが、これは六地蔵の磨崖仏が取り壊されてしまった名残だ。
 残念ながら地蔵そのものは一体も見ることはできないが、石塔の台石に使用した丸型の巨石は工事中に同地から出たものを活かしている。

 地元の人や、通りすがりの人がお参りをしていくのだろう、鮮やかな季節の花が手向けてあった。

             
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いわき鹿島の昔ばなし18

2013-05-03 06:22:39 | Weblog
                                             分類・歴
     鹿島の大火事

 昭和4年2月25日(旧正月の16日)は北風が強く吹く寒い日だったが、この日は鹿島村走熊のH宅で家の建て替え工事のために大工や石屋が作業をしていた。
 10時の一服時間に残材やカンナ屑を燃やしながら暖を取り、そのあと仕事に取り掛かっても火種を消すことなく、木っ端が出る度に燃し続けていた。

             
                《燃え広がる山火事⇒本文と直接関係はない》
 時折、烈風が吹く中の午前11時半頃に、石屋が馬屋を見ると茅葺き屋根の中段から火の手が上がっているのを発見。大声で人を呼んだ。
 仕事をしている人は勿論のこと、近隣の人々も慌てて駆けつけバケツで散水したが火勢は増すばかり。
 その火は見る間に延焼して近くの八坂神社や福正院蔵福寺の他、山を伝って観音様を祀る高寺山までを焼き焦がし、その火は隣の上蔵持にまで延びて、更には江名・豊間へと止まるところを知らなかった。
             
                     《現在の走熊地域の一部風景》
 特定は避けるが、火の手が上がった場所は写真(上)の範囲内からであったことは事実。
 その結果は住家48戸、非住家38棟、山林300町歩を焼失した。
 原因は失火で、損害額は40万円にも上った。当時の米価が60kgで6円20銭前後だったから現在の金額に換算すると、約8億円の損害が出た。
 鹿島の人たちは、これを「走熊の大火事」と呼ぶが『福島県災害誌』では「石城郡鹿島村の大火」として記録してある。


 
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いわき鹿島の昔ばなし17

2013-05-02 07:33:10 | Weblog
                                            分類・歴
      三沢館跡から遺物を発掘
                           〈現在の地名〉 いわき市常磐三沢町 日吉下・館下

 昔から三沢館(みさわだて)と呼ばれてきた所があったが、常磐バイパスがこの付近を通るようになって磐城国道事務所の委託を受けて、財団法人いわき市教育文化事業団が遺跡の調査を行った結果、幾つかの住穴や土穴、土杭などが見つかった。
 これを学術的な呼称としては「日吉下遺跡」という。
 南から北に延びる丘陵先端部に位置して主峰の標高は48メートル、麓から主峰までの比高差は約37メートルで、丘陵北側の眼下に三沢川が東流している。

          
                         《日吉神社》
 場所的には常磐バイパス(国道6号線)と、県道(48号線)湯本~江名港線が交差する地点の至近距離にあり、山林と日吉神社の境内地に位置していた。
 検出遺物には国産および舶載陶磁器、土器、白銅製端花双鳥五花鏡、泥塔などがある。
          
          
                《高台にある境内から常磐バイパスが見える》
 平安時代に三沢の地になぜ、戦争に備える館が必要であったのか、実際に合戦があったかどうかは不明だが、恐らく平時は辺りの集落で農耕作業などをしていた人々が、いざ合戦となるとこの館に籠って、攻め来る敵と戦ったのであろう。
 遺物から三沢館の機能した主要時期は15世紀代と考えられ、館主は伝承では四家氏といわれる。

 
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いわき鹿島の昔ばなし16

2013-05-01 06:21:55 | Weblog
                                            分類・歴
    苦難の末に建った御代の大仏さま
                                熊野山光西寺 : いわき市鹿島町御代

 俗称「御代(みよ)の大仏」とか、雨ざらしのことから「ぬれぶつさま」という呼称でも親しまれているが、正式には「銅造阿弥陀如来坐像」といい、昭和43年12月27日に市指定有形文化財になっている。
 像の高さが3,45メートルだが仏身だけだと2,80メートルで、蓮華座の直径が2,99メートルである。


            
                          《御代の大仏》
 宝暦2年(1752)、当時の和尚だった禅法は、江戸へ出て人々から浄財を集め、13年後の明和2年(1765)、江戸神田の鋳物師、木村将監たちによって製作が始められ、2年後の明和4年(1769)に完成した。
 しかし、禅法和尚は完成前に上州高崎で毒殺されたという説があるから、着手から完成までの工程を実際には見ていなかったことになる。
 
 また、像が完成した後の運搬にも相当苦労したようで、江戸から小名浜までは海路で運ばれたが、小名浜の沖まで来たところで難破の憂き目に遭ってしまう。
 浜へ打上げられた大仏を御代まで運び込まれて安置されたその年が安永5年(1776)だった。


            
                         《光西寺の正門》
 鎌倉長谷寺の大仏を彷彿とさせる御代の大仏は、幾多の苦難を経て静寂な光西寺の境内に、石積の基壇の上に慈悲深く人々を見守っている。
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