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アジアと小松

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小松基地問題研究会

20180407庄田望著『白蓮華』(2017年)について

2018年04月08日 | 読書
庄田望著『白蓮華』(2017年)について

 昨年、新聞に『白蓮華』の紹介記事が載りました。石川県内で最初に献体した竹川リンを切り口に、加賀藩から明治にかけての被差別身分の実態がテーマです。「藤内」医者長太郎(架空の人物)と竹川リン、村医者松江安見がキーパーソンです。著者は同和教育という立場からこのテーマに接近しています。いくつか感想を書きます。(注:「藤内」とは加賀藩独自の被差別身分でした)

 著者は被差別(民)の社会的役割を強調して、民と一般民の平等性を描いているのですが、一般民も民も労働することによってその生活の糧を得ているのであり、民が社会的役割を果たしているか、いないかが問題なのではなく、理不尽な身分差別を受けていたということが問題だと思います。しかも、「藤内」医者を主人公にすることによって、一般民による民にたいする差別的対応がソフトに描かれているようです。

 島田清次郎は加賀藩の時代から明治にかけての被差別を非常に暗いタッチで、おどろおどろしく描いていますが、その表現が差別を再生産する側面があるとしても、一般民から見た被差別の暗く、厳しい実態に光をあてていると思いましたが、庄田さんが描く被差別には、島田清次郎ほどの暗さも厳しさも表現されておらず、一般民の理解が進み、受け入れられていったかのように描かれています。

 著者が母親を治療した「藤内」医者を調査したが、ついにその足跡を明らかにすることができなかったと述べていることからも、一般民に受け入れられず、記録(記憶)されることもなく、むしろ排除され、その地に暮らすことができず、移転を余儀なくされたことを暗示しているのではないでしょうか。

 この物語は江戸末期から竹川リンがなくなる1984年までを扱っていますが、四民平等の論拠として、1872年に発行された『学問のすすめ』(福沢諭吉著)がくりかえしでてきます。その冒頭に「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」と書いていますが、「いへり」とは「いわれている」という意味であり、福沢自身の信念から出た言葉ではないことを確認しておく必要があると思います。

 同著には、「凡そ世の中に無知文盲の民ほど憐れむべくまた悪むべきものはあらず。智恵なきの極は恥を知らざるに至り、己が無智をもって貧究に陥り飢寒に迫るときは、己が身を罪せずして妄に傍の富める人を怨み、甚だしきは徒党を結び強訴一揆などとて乱妨に及ぶことあり。(…中略…)かかる愚民を支配するには、迚も道理をもって諭すべき方便なければ、ただ威をもって畏すのみ。西洋の諺に愚民の上に苛(から)き政府ありとはこの事なり。こは政府の苛きにあらず、愚民の自ら招く災いなり。愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり。」と、非常に差別的感性が満ちているではありませんか。

 また、1984年には日清戦争が始まり、福沢諭吉は「時事新報」(1894.7.29)の社説で、「日清の戦争は文野(文明と野蛮)の戦争なり」と書き、日清戦争を「文明の義戦」と主張して、膨張主義や侵略思想を正当化しています。意地悪く言ってしまえば、2017年に発行された『白蓮華』は徳川幕藩体制から明治時代への転換期を「開明的」として強調することによって、「明治150年」美化キャンペーンの一翼を担うことになるのではないでしょうか? 非常に残念です。

 些細なことですが、全編を通じて「南無阿弥陀仏」の称名が繰り返され、真宗王国石川の実態とはいえ、現世でのあきらめと死後への期待を説く真宗(宗教)の果たした役割についても、もう少し距離をおいた書き方がなかったのだろうかと思いました。

 とはいえ、幕末から明治初期にかけての石川県内の被差別(民)のおかれた社会的状況とその変化の兆しを、歴史資料を読むように、わたしたちに伝えて下さった庄田さんに感謝します。また、表紙写真が前後和雄さんの撮影であると付記されており、懐かしい人にも再会出来ました。

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