アジアと小松

アジアの人々との友好関係を築くために、日本の戦争責任と小松基地の問題について発信します。
小松基地問題研究会

20230821 関東大震災前後の島田清次郎と舟木芳江

2023年08月21日 | 島田清次郎と石川の作家
関東大震災前後の島田清次郎と舟木芳江

瀬出井さんの遺品
 2003年に瀬出井学さんが亡くなって、もう20年が過ぎた。共に、東京へ、広島へ、車を飛ばした。瀬出井さんは、朝鮮女子勤労挺身隊不二越強制連行訴訟の支援スタッフとして、その最後の命を燃やし尽くした。そして、遺産(生命保険)のなかから、△△△万円の現金を訴訟支援連絡会(弁護団)のために残して逝ってしまった。お葬式は遺族と友人たちだけで、こぢんまりと執りおこない、棺のなかに眠る瀬出井さんを見る、誰の目も涙に濡れていた。後日、某党派のKとTは私(訴訟支援連絡会の会計)をホテル「テルメ金沢」に呼び出し、「瀬出井基金」をむしり取ろうとしたが、私は拒絶した。

 瀬出井さんが暮らしていたアパートの整理に行くと、どの部屋にも本がぎっしり詰まった本棚が占領していた。友人と共に、整理の手伝いをおこない、帰りに10冊ほどの貴重な本をいただいて戻った。それは今も、私のそばにある。
 そのなかには、『写真報告 関東大震災 朝鮮人虐殺』(裵昭著1988年)、『ドキュメント関東大震災』(現代史の会編1983年)がある。今年は関東大震災100年のことでもあり、本棚から引っ張り出し、久しぶりに、ページをめくると、最初に飛び込んできたのは。舟木芳江の「火で死なうか、水を選ばうか」(『婦人公論』1923年12月号)であった。

 

舟木芳江と島清
 そうだ、舟木芳江とは、1923年4月8日、島田清次郎との間で、恋愛沙汰が起こり、島清は逮捕(4/10)され、作家生命を失うきっかけとなった、「あの事件」の当事者である。
 芳江は書いている「その時(注:震災発生時)私は(注:中洲病院に)入院中でした。四月中旬退院してから一度病院へ御診察を受けにまゐりましただけで、宅から一歩も外に出ず、一日おきに副院長様の御診察をうけて、大方は床に就いて治療して居りましたのに、熱はどうしたことか下がりません。四ヶ月近い日がたちますのに、…。それで八月上旬再び入院することになりました」。

 ①「同時代の記録」(http://psychodoc.eek.jp/shimasei/others.html)、②1923年佐野秋紅著『島田君と舟木令嬢』(https://dl.ndl.go.jp/pid/908959)、③1924年2月11日付の舟木芳江にあてた島清自身の手紙などを参考にすると、『地上』などを読んだ芳江が島清にファンレターを送り、それがきっかけで島清が芳江に強烈なモーションをかけた。『地上』、『帝王者』、『早春』に書かれた女性観と島清そのものとのギャップに、芳江の腰が引け、その過程で、島清を社会的に葬る絶好のチャンスとして、警察が介入し、マスコミの餌食になったという事件である。

その後の芳江
 舟木芳江はその事件に強い衝撃を受け、中洲病院の院長によると、「彼女は医学上の錯乱状態にあった」という。病名は不明だが、中洲病院に入院(4月)し、退院しても快癒せず、8月上旬に再入院して、9月1日の震災に遭遇したのである。一方島清は1924年7月に逮捕され、巣鴨署に連行され、そのまま精神病院(巣鴨庚申塚保養院)へと送られ、1930年4月29日、不本意な31年の生涯を閉じることになった。

島清の女性観
 「帝王者」(1921年)のなかでは、音羽子は「兄さん、あなた方の男と女との間に関する考へ方は大へん間違ってゐると思ひますのよ。私は考へます。男と女はあくまで対等でなくてはならず、あくまでお互に自由で独立者で、何れが何れにより従属的であってはならないと考へます。私と清瀬との間を、今の世の男女関係や、今の世の恋愛関係や、今の世の夫婦関係と同じい標準で見ないで下さいな」と語り、『早春』(1920年)では、「無理に淫売しなくてはならぬやうにする遊野郎や、ガリガリ亡者を何故罰せないのか。罰金も拘留も当然うくべきものは女性ではなく『悪い需用者』である」、「楼主達は…いいかげん、生きた人間の血をしぼる稼業を止したらどうですか」と、島清は激しく追及している。『地上』第三部でも、「吾等に一人の淫売婦なからしめよ」と叫び、遊廓に売られてくる女性たちの悲惨に肉迫している。
 確かに島清の実生活と作品中の主張との乖離が甚だしい。

(資料)舟木芳江あて島田清次郎の手紙



大正十三(1924)年二月十一日 嶋田清次郎
舟木芳江様
 冠省、小生は今此手紙を御身に差し上げ得る心の明るさをうれしく思ひます。昨春逗子で御別れして以来は、一度も御目にかゝらざるのみか、最も親密である可き相思の君と、お互に真の相手ならざる他の■■と戦ふごとき、心ならず■■■をつゞ■して■、返す??■遺憾に存じます。
 去る九月一日の震災■は御一同無事との報を得、安堵いたしをりなりしに、晩秋の後御尊父御逝去の御聞知(ごぶんち)し、早速御弔みにもと存じましたが、遠慮をしをりたる次第。
 生前一度は御目にかゝりたしと念じゐたるに、――。重信君は、遠く独逸に在り、いさゝか寂寥の情他人事とも思はれずに、昨年■■の時分、重雄兄よりのパンフレットを、とある旅舎で受取りましたが、――今は震災後でもあり、何んとなく、心からみなさんが、冷静に心の明るさをとりかへしてゐられるだらうと思ひますので、一、二点誤解と思はれる節しを記憶をたどって、御身にまづ申上げ、御身並びにご一家の再考を乞ひたいと思ひます。
 何よりの事の起りは八日の日【注1】御身が私を怒らしたでせう? ――あの事にあると思はれます。あなたでなくてはならない、とかたく思ひこんで、種々準備(?)をしてゐ、ずゐ分待たされた揚句の八日に、あなたは来て、何とかいふ学生とすでに恋仲であるとか、又は、その日わづかに一面識を得たに過ぎざる小生にとっては全くの他人に過ぎざる小が平【注2】の息女を指して「この方がいゝだらう」などゝ言はれて怒らざる男があるかどうか。小生は真実世界がひっくりかへる程怒ったのです。(略)この非常な、自己の最深最大の真情を侮辱せられた憤怒から発したその後の一切の行動であったことをよく、あの当時の事を考へ合はせてのみこんで下さい。

【注1】ここで言う「八日の日」とは1923年4月8日で、2日後の4月10日に警察に捕まった。
【注2】小川平吉のこと。1901年近衛篤麿に従って上海の東亜同文書院創立に参画。1903年衆議院総選挙に出馬当選。日露主戦論の急先鋒となり、1905年日比谷焼打事件の主謀者として投獄され無罪。政友会に入り同会幹事長を経て、1920年原敬内閣の国勢院総裁。















コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 20230816 「仰天不愧」 (北陸... | トップ | 20230823 福島トリチウム汚... »
最新の画像もっと見る

島田清次郎と石川の作家」カテゴリの最新記事