アジアと小松

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小松基地問題研究会

『東京裁判 性暴力関係資料』(吉見義明監修)31,32,33

2015年07月11日 | 日本軍性暴力関係原資料
『東京裁判 性暴力関係資料』(吉見義明監修)<資料31>E1813 Doc#P5522
 証拠書類第5522号
 クリスチャン・ヒインドリック・ウエンズヴィーンは正式に宣誓したる後、次の如き証言をなす。
 私の姓名を略さずに云うとクリスチャン・ヒインドリック・ウエンズヴィーンと言ひます。

 戦前私は義勇軍の一員でありました。私はマカッサルで捕虜となり、同地の収容所に1カ年半居りました。私はゴルマンス大佐と一所に居るのを見られたので、逮捕されたのです。私は1943年6月8日に日本のゲシュタポウ・ハウスに入れられて、其処に1943年の9月30日迄居りました。私は長さ2米半、幅2米の監房に入れられ、此の監房には8名が一所に入れられて居りました。吾々は日中は起きて居なければなりませんでしたし、又一切話しをする事も許されませんでした。然し夜の8時頃になると、番人が善い人だと、翌朝の7時迄横になる事を許して呉れました。朝の7時に朝食を採りました。食物は非常に粗末な物で、量も不十分でした。吾々は最初の3日間は全然食物を与へられませんでした。其後吾々は1日に2回一握りの米飯をもらっただけです。他の人達も皆私と一所に監房に入れられて居ました。

 私は14日間は1日中、又夜も棒で叩かれました。日本人は私に情報を提供させたかったのでした。で、私が黙って居ると、殴るのを続けたのでした。私の足を吊り下げ、身体をグルグルねぢり、それからグルグル廻る様に放しました。打擲される時には、私は両手を頭の上に載せて立って居ました。最初の2日間は1回に付5分か10分間足を縛って吊り下げられました。此の事を引受けた日本人の名はオクと云ふのでした。此の日本人と私の前には誰も此の様な事をする時には居りませんでした。此の日本人は吾々の取扱ひが善くないと云ふ様な事を吾々が云ったりした時にも亦殴りました。オクは又煙草点火器で脇の下を焼き、又拳骨で顔を殴ったりしました。此の男は私に翻訳もしてくれない書類に強制的に署名させ、又白紙に拇印を捺させられました。その白紙には何が書いてあったのか私は知りません。

 此の捕虜収容所に居る間にパリヌサ夫人という女を始めとして多数の人が打擲されるのを私は見ました。此の日本人が私を呼びましたので、建物に入った時、此の婦人が後手に縛られて居るのを見ました。此の日本人はこれから何うするか、吾々一同は見ている様にと云ひました。此の男は此の婦人の着物を捲り、陰部に棒を差し込みました。此れは皆が居る前で行はれたのでした。婦人は又平手で叩かれ、縛を解かれた時には倒れて終ひました。それから私の妻が其の婦人を監房に連れて行きました。私の妻も同じ収容所に居たのでした。此の事を行った日本人はシミヅと云ふのでありました。

 私はモイベに棒で私の妻が打たれるのを見ましたので、モイベから其の棒を取り、吾々は女を打つ様な事はしないと云ってやりました。マークス大人も亦叩かれましたが、此をやった日本人は誰だか知りません。然し私は或特務曹長であったと思ひます。顔を見れば分かりました。インドネシヤ人であるマウドゥーといふ者も亦捕虜を叩きました。此は日本人に衛兵の地位に昇進させられた男で、入用であるより遥かに少ない食物きり呉れませんでした。此の収容所の他の日本人の看守にミザカ、山崎及中島と云ふのが居りました。此の中島と云ふのは特に悪い奴で、此奴は理由もないのに手や棒で捕虜を何時も叩いたものです。1人の日本人曹長は吾々に対して非常に善く、又婦人に対して親切で、捕虜の者を誰も打つ様な事をしませんでした。此の収容所では病人に医薬は与へられませんでした。

 其れから私は日本の陸軍の刑務所に移され、1944年の10月5日迄其処に居りました。此処は非常に悪い所で、余りに多く入れ過ぎて居りました。私が其処に居た時には100名以上の捕虜が居り、其の中10名が赤痢と脚気で死亡しました。病人には2,3日間は食物が与へられませんでした。其れですから彼等の死因には赤痢や脚気と同様に飢餓もあります。

 特に悪い1人の衛兵は渡辺と云ふのでした。彼は吾々を腰を掛けた儘縛り付け、若し少しでも動くと叩きました。多数の捕虜が此の様な目に会ひました。彼等は棒で叩かれたり、又時には剣の平たい部分で叩かれたりしました。

 1944年10月5日、私は民政部に在るインドネシア人の刑務所に行き、其処に1945年6月24日迄居ました。其処の衛兵に私は戦争が終わっても、君等を覚えて居るのだから、私を打つなと云ってやりましたが、其の結果彼等は私を少し怖れました。インドネシア人の1人のアブドュル・ハミットと云ふ者は吾々をよく嘲笑したものです。此の収容所の食物はさう悪くはありませんでした。2ヶ月の間は米を支給され、其後は玉蜀黍を与へられました。多数の捕虜が赤痢に罹りました。スミと云ふ1人の日本人は善良な者で、私に炊事を受持たせました。其れから後は各人の健康は増進しました。多数の人達に腫物が出来ましたが、薬は極く少ししかありませんでした。

其後私はマカレに行きました。そして1945年8月13日迄其処に居ました。私は1つの部屋に閉じ込められて居りました。朝吾々は便所に行く事を許されましたが、水はありませんでした。吾々は1日に2食もらひましたが、量は不充分でした。吾々は米と玉蜀黍だけ受取ったのでした。マラリヤに罹って居る者も薬をもらへませんでした。吾々は1つの部屋に13人入れられて居り、婦人も2名マカレに連れて来られました。ヤベと云ふ者が此の収容所を受持った人です。私がマカッサルのトケイ・タイ刑務所に入れられて居た時は、吾々は3,4日間便所に行く事を許されなかった事が時々あります。許されても僅かに2分間でした。監房内には小さな缶が備へ付けてあり、其を便所に行った時に空けるのです。吾々は石鹸を使ふ事或は身体を洗う事も全く許されませんでした。

 1943年12月に私はマカッサルに在った日本軍の司令部に連れて行かれ、其処で日本軍の少将に尋問されたり、棒で叩かれたり、ぶん殴られたりしました。叩かれる時には、手錠が掛けられました。又或る折には水の入った缶を身体の前に捧げて持って居なければなりませんでした。そうして日本人は又私の足に棒をねじ込んだのでした。私は1日3回飯をもらひましたが、其の量は以前に1日2回もらったより少量で、全く不充分なものでした。
     ――――――――――――
 余は上記の証拠の真実にして且正確なる事を証す。
 1945年10月25日マサッカルにて余の面前にてしたため誓言したるものなり。
     署名(判読し難し)
        コミッショナイ

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第7 フランス領インドシナにおける性暴力(資料32~40)
<資料32> E2116 DocP2772E-1

口供書 抜粋
 モンネ・ヂャンヌ、金庫局員モンネ・デュール及藩氏恥の息
 河内(注:ハノイ)の住所 スール・アントアンヌ八番

「諒山(ランソン)に於て3月9日戦闘中私は家の地下室に私の父、母、ピカール氏、ゴーチェー氏を隠し、それへ後程一工兵軍曹の妻―この女は自宅で日本兵の為め強姦されて来た人ですが―が加はり、翌日朝二名の若いオーフェル兄弟が加はりました。」        ………………

「私達、その時13歳の私の妹と私とは同じ部屋の中、ボーイ部屋に寝て居りました。
 翌日3月14日夕方22時頃静目大佐参謀の2士官である1少佐と1大佐―後に彼等がそれであることを知りました―が私達の部屋へ這入つて来ました。
 1人が私をつかまへて居る間に他の1人が私のピヂヤマのノズボンを取り去りました。そして暴行しました。それから代り合ひ第2回のを受けねばならなかったのです。私は処女でしたから大層苦しみ、気絶致しました。私はこの事から私の妹へ行はれたことを言ひ得ませぬ。」……

(口述人署名)
(調査官ノ証明及署名)
(口述人ノ署名証明、証明書の署名及官印)

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<資料33>E2119 DocP2772E-1
 口供書(抜萃)
 タピュチュアライ・ツタニ
 ピエラ(タイチ島)にて1915年4月6日生
 父(不明)、母ツタ・タピュチュアライ
 住所 河内(注:ハノイ)ペリエ路16

諒山にて3月9日夕方……………………。
 10時30分頃(3月10日)4人の日本人が私が夜を過ごしました武器庫へ戻れと言ひました。私は抵抗を試みましたが、彼等は私を殴り、武器庫へ押しやりました。そこへ1人の兵卒が来て、彼の銃剣で私を嚇し、他の1人が私を殴り、私を地面へ倒しました。私は1人が私を銃剣で嚇す3人の注視の下にて、彼等の1人に強姦されました。その前彼等は私の着物を私からひったくったのであります。

         
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