自由民権運動とナショナリズム
義母の大叔父に横川省三という人物がいる。省三は1865年4月に生まれ、盛岡の求我社で自由民権運動に共鳴し、1884(M17)年7月に上京し、有一館に入門したが、加波山事件の関係者をかくまい、1年8ヶ月間投獄された。
省三は出獄後も自由民権派の三大事件建白運動(外交策の転換・言論集会の自由・地租軽減を要求)に参加し、政府に危険人物とみなされ、1887(M20)年12月、保安条例により尾崎行雄、星亨、林有造、中江兆民らとともに皇居三里以内から追放された。
1889(M22)年の大日本帝国憲法制定、翌年の第1回総選挙の実施で、省三は次の目標を失ったのだろうか、『東京朝日新聞』の記者となり、郡司成忠大尉の千島探検に同行し、「短艇遠征記」などの記事を書いた。1901年内田康哉公使に従って中国に渡り、1904年日露の国交が断絶すると特別任務班に志願し、沖禎介らと東清鉄道フラルギー駅付近の鉄橋爆破を企図したが、ロシア軍に発見されて捕らえられ、ハルビン郊外で沖と共に銃殺された。
意外にも、私の身近なところに、明治初期に自由と民権のために明治政府(天皇)と戦っていた人がいたとは! 俄然、自由民権運動・加波山事件に関心がわき起こった。特に、自由民権の志士横川省三がなぜ、日露戦争の尖兵となって死んだのか、考察の必要があるだろう。
<自由民権運動>
自由民権運動は1874(M7)年の民撰議院設立建白書の提出を契機に始まった。薩長藩閥政府に対して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げ、1890(M23)年の帝国議会開設頃まで続いた。
自由民権運動の第1段階は1874(M7)年の民選議員の建白から1877(M10)年の西南戦争ごろまで、第2段階は西南戦争から1884,1885(M17,8)年ごろの最盛期、第3段階は条約改正に反対する明治20年前後の運動である。
第1段階は、江藤新平が建白書の直後に佐賀の乱(1874)を起こし、死刑となっているように、この時期の自由民権運動は政府に反感を持つ士族らに基礎を置き、士族民権と呼ばれる。武力を用いる士族反乱の動きは1877(M10)年の西南戦争まで続くが、士族民権は武力闘争と紙一重であった。
民権運動の盛り上がりに対し、政府は1875(M8)年には讒謗律、新聞紙条例の公布、1880(M13)年には集会条例など言論弾圧の法令で対抗した。政府内で国会の早期開設を唱えていた大隈重信は罷免され(1881)、一方、政府は当面の政府批判をかわすため、10年後の国会開設を約束した(「国会開設の勅諭」)。
1880(M13)年の愛国社第4回大会で国会期成同盟が結成され、国会開設の請願・建白が政府に多数提出された。地租改正を掲げることで、運動は不平士族のみならず、農村にも浸透していった。特に各地の農村の指導者層には地租の重圧は負担であり、運動は全国的なものとなった。このような情勢の中で、東北盛岡の省三は求我社で学び、上京したのだろう。
大井憲太郎や内藤魯一など自由党急進派は蜂起をめざし、困窮した農民たちも自由党に対し不満をつのらせていた。こうした背景のもとに1881(M14)年には秋田事件、1882(M15)年には福島事件、1883(M16)年には高田事件、1884(M17)年には群馬事件、加波山事件、秩父事件、飯田事件、名古屋事件、1886(M19)年には静岡事件等と全国各地で「激化事件」が頻発した(1885年1月15日に爆発物取締罰則を施行した)。
その後1886年に星亨らによる民権運動が再び盛り上がり、中江兆民や徳富蘇峰らの思想的な活躍も見られた。翌1887(M20)年には井上馨による欧化主義に対し、外交策の転換・言論集会の自由・地租軽減を要求した三大事件建白運動が起り、民権運動は激しさを増した。これに対し政府は保安条例の制定(1887)や改進党大隈の外相入閣によって、運動は沈静化し、1889(M22)年の大日本帝国憲法制定を迎えた。翌1890(M23)年に第1回総選挙が行われ、帝国議会が開かれた。
<加波山事件>
加波山事件とは、1884年9月に発生した栃木県令三島通庸等の暗殺未遂事件である。自由民権運動の中で、急進的な考えを抱いた若き民権家たちで、福島事件に関わった河野広体等のグループが中心で、これに茨城の富松正安や栃木県の民権家が加わっている。
栃木県庁落成時に、民権運動を厳しく弾圧した三島通庸県令や集まった大臣達を爆殺する計画であったが、鯉沼九八郎が爆弾を製造中に誤爆し、計画が明らかになった。茨城県の加波山山頂付近に立てこもり、「圧制政府転覆」「自由の魁」等の旗を掲げ、決起を呼びかけるビラを配布した。又警察署や豪商の襲撃も行なっている。
後日の再集結を約して解散するが、自由党幹部である内藤魯一や田中正造、小久保喜七をはじめとして300名に及ぶ民権家が逮捕された。起訴されたのは加波山に立てこもった16人に加え、内藤、鯉沼ら若干名で、7名に死刑判決が下され、3名が無期懲役となった。
<自由民権運動とナショナリズム>
本格的な征韓論としては、明治維新の5年後の1873年、西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らが国内の権力関係を調整し、国内危機を解決するために朝鮮半島の領有を主張した。大久保利通、木戸孝允らは内治優先を主張して征韓論に反対した。
1875年雲揚号が江華島を砲撃し、砲台を占領し、30門あまりの大砲を持ち去った。翌年、江華島条約を結ばせ、釜山、仁川、元山の開港と治外法権、関税免除などを認めさせ、朝鮮侵略の一歩を踏み出した。
1880年代の自由民権運動家杉田鶉山は「明治政府の専制権力の打倒とアジア地域における専制権力からの人民の解放」と主張していたが、その後「日本の近代化のためには中国・朝鮮を侵略し、西欧流の近代化」と主張するようになった。大井憲太郎も「韓国独立党への支援」から「西欧諸列強の侵略への対抗手段として、大陸を領有することが日本の進むべき道だ」という主張に変わった。
内村鑑三は「(日清戦争は)新文明が旧文明を乗り越える行為」、福沢諭吉は「日清戦争は文明の義戦」などと日清戦争を支持し、戦後には、もともと「平民主義」を唱えていた徳富蘇峰でさえも「中国の衝突に勝利しない限り、日本の将来における発展はあり得ない」と『大日本膨張論』(1894)を展開した。
陸羯南は「アジアの平和は日本を主軸に据えた形でしか成立しない」と主張し、中国への侵略を正当化した。高山樗牛は『日本主義論』の中で、「西欧の侵略に対抗するため、他の国に優越する強大国家、覇権国家」の建設を主張した。
このように、自由民権運動の敗北の過程で、明治時代を代表する知識人の多くは侵略思想(大東亜共栄圏思想)に転向し、日清戦争を欧米諸列強から日本を防衛する戦争として、積極的に支持し、雪崩を打つように日露戦争、韓国併合へと突き進んだのである。
<横川省三から何を学ぶのか>
自由民権の志士横川省三はなぜ日帝の最尖兵になったのか。
田村安興高知大学教授は、自由民権運動は初期の民権論から後に国権論へ転向していったと説明されてきが、板垣らは征韓論を主張し、政党名も「愛国公党」であった。また植木枝盛・中江兆民なども、皇国思想や天皇親政を公的に批判したことが一度もない。自由民権運動は民主主義的な運動というよりも、むしろ近代日本にナショナリズムを定着させる下からの愛国主義運動だったとの見方を提出し、征韓論争から壬午・甲申事変にいたるまで、対外的には民権派がよりタカ派的であって、彼らこそが急進的ナショナリズムの担い手であったと論じている。
自由民権運動は、その内部に「征韓論」を抱え込んだ急進的ナショナリズムの運動だったが故に、日清・日露戦争に突入する明治政府と対決できず、逆に最尖兵へと転落していったのである。省三の身の振り方に如実に表れているではないか。
釣魚台(尖閣諸島)や独島(竹島)に対する対応を見れば、共産党も社民党も保守政党と区別もつかないナショナリズムの政党である。1970年代に差別排外主義とたたかう路線を確立したはずの革共同(中央派)でさえも「7・7路線」をおろし、革命の核心を喪失したナショナリズムの党へと変質した。
原発再稼働や特定秘密保護法に反対する市民運動の高揚に対して、安倍自民党は戦争の危機をあおり、ナショナリズムを対置し、体制擁護・侵略戦争の担い手へと変質させようとしている。革命党こそがその変質から運動を守るために、最先頭で差別排外主義、侵略戦争とたたかわねばならない。
義母の大叔父に横川省三という人物がいる。省三は1865年4月に生まれ、盛岡の求我社で自由民権運動に共鳴し、1884(M17)年7月に上京し、有一館に入門したが、加波山事件の関係者をかくまい、1年8ヶ月間投獄された。
省三は出獄後も自由民権派の三大事件建白運動(外交策の転換・言論集会の自由・地租軽減を要求)に参加し、政府に危険人物とみなされ、1887(M20)年12月、保安条例により尾崎行雄、星亨、林有造、中江兆民らとともに皇居三里以内から追放された。
1889(M22)年の大日本帝国憲法制定、翌年の第1回総選挙の実施で、省三は次の目標を失ったのだろうか、『東京朝日新聞』の記者となり、郡司成忠大尉の千島探検に同行し、「短艇遠征記」などの記事を書いた。1901年内田康哉公使に従って中国に渡り、1904年日露の国交が断絶すると特別任務班に志願し、沖禎介らと東清鉄道フラルギー駅付近の鉄橋爆破を企図したが、ロシア軍に発見されて捕らえられ、ハルビン郊外で沖と共に銃殺された。
意外にも、私の身近なところに、明治初期に自由と民権のために明治政府(天皇)と戦っていた人がいたとは! 俄然、自由民権運動・加波山事件に関心がわき起こった。特に、自由民権の志士横川省三がなぜ、日露戦争の尖兵となって死んだのか、考察の必要があるだろう。
<自由民権運動>
自由民権運動は1874(M7)年の民撰議院設立建白書の提出を契機に始まった。薩長藩閥政府に対して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げ、1890(M23)年の帝国議会開設頃まで続いた。
自由民権運動の第1段階は1874(M7)年の民選議員の建白から1877(M10)年の西南戦争ごろまで、第2段階は西南戦争から1884,1885(M17,8)年ごろの最盛期、第3段階は条約改正に反対する明治20年前後の運動である。
第1段階は、江藤新平が建白書の直後に佐賀の乱(1874)を起こし、死刑となっているように、この時期の自由民権運動は政府に反感を持つ士族らに基礎を置き、士族民権と呼ばれる。武力を用いる士族反乱の動きは1877(M10)年の西南戦争まで続くが、士族民権は武力闘争と紙一重であった。
民権運動の盛り上がりに対し、政府は1875(M8)年には讒謗律、新聞紙条例の公布、1880(M13)年には集会条例など言論弾圧の法令で対抗した。政府内で国会の早期開設を唱えていた大隈重信は罷免され(1881)、一方、政府は当面の政府批判をかわすため、10年後の国会開設を約束した(「国会開設の勅諭」)。
1880(M13)年の愛国社第4回大会で国会期成同盟が結成され、国会開設の請願・建白が政府に多数提出された。地租改正を掲げることで、運動は不平士族のみならず、農村にも浸透していった。特に各地の農村の指導者層には地租の重圧は負担であり、運動は全国的なものとなった。このような情勢の中で、東北盛岡の省三は求我社で学び、上京したのだろう。
大井憲太郎や内藤魯一など自由党急進派は蜂起をめざし、困窮した農民たちも自由党に対し不満をつのらせていた。こうした背景のもとに1881(M14)年には秋田事件、1882(M15)年には福島事件、1883(M16)年には高田事件、1884(M17)年には群馬事件、加波山事件、秩父事件、飯田事件、名古屋事件、1886(M19)年には静岡事件等と全国各地で「激化事件」が頻発した(1885年1月15日に爆発物取締罰則を施行した)。
その後1886年に星亨らによる民権運動が再び盛り上がり、中江兆民や徳富蘇峰らの思想的な活躍も見られた。翌1887(M20)年には井上馨による欧化主義に対し、外交策の転換・言論集会の自由・地租軽減を要求した三大事件建白運動が起り、民権運動は激しさを増した。これに対し政府は保安条例の制定(1887)や改進党大隈の外相入閣によって、運動は沈静化し、1889(M22)年の大日本帝国憲法制定を迎えた。翌1890(M23)年に第1回総選挙が行われ、帝国議会が開かれた。
<加波山事件>
加波山事件とは、1884年9月に発生した栃木県令三島通庸等の暗殺未遂事件である。自由民権運動の中で、急進的な考えを抱いた若き民権家たちで、福島事件に関わった河野広体等のグループが中心で、これに茨城の富松正安や栃木県の民権家が加わっている。
栃木県庁落成時に、民権運動を厳しく弾圧した三島通庸県令や集まった大臣達を爆殺する計画であったが、鯉沼九八郎が爆弾を製造中に誤爆し、計画が明らかになった。茨城県の加波山山頂付近に立てこもり、「圧制政府転覆」「自由の魁」等の旗を掲げ、決起を呼びかけるビラを配布した。又警察署や豪商の襲撃も行なっている。
後日の再集結を約して解散するが、自由党幹部である内藤魯一や田中正造、小久保喜七をはじめとして300名に及ぶ民権家が逮捕された。起訴されたのは加波山に立てこもった16人に加え、内藤、鯉沼ら若干名で、7名に死刑判決が下され、3名が無期懲役となった。
<自由民権運動とナショナリズム>
本格的な征韓論としては、明治維新の5年後の1873年、西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らが国内の権力関係を調整し、国内危機を解決するために朝鮮半島の領有を主張した。大久保利通、木戸孝允らは内治優先を主張して征韓論に反対した。
1875年雲揚号が江華島を砲撃し、砲台を占領し、30門あまりの大砲を持ち去った。翌年、江華島条約を結ばせ、釜山、仁川、元山の開港と治外法権、関税免除などを認めさせ、朝鮮侵略の一歩を踏み出した。
1880年代の自由民権運動家杉田鶉山は「明治政府の専制権力の打倒とアジア地域における専制権力からの人民の解放」と主張していたが、その後「日本の近代化のためには中国・朝鮮を侵略し、西欧流の近代化」と主張するようになった。大井憲太郎も「韓国独立党への支援」から「西欧諸列強の侵略への対抗手段として、大陸を領有することが日本の進むべき道だ」という主張に変わった。
内村鑑三は「(日清戦争は)新文明が旧文明を乗り越える行為」、福沢諭吉は「日清戦争は文明の義戦」などと日清戦争を支持し、戦後には、もともと「平民主義」を唱えていた徳富蘇峰でさえも「中国の衝突に勝利しない限り、日本の将来における発展はあり得ない」と『大日本膨張論』(1894)を展開した。
陸羯南は「アジアの平和は日本を主軸に据えた形でしか成立しない」と主張し、中国への侵略を正当化した。高山樗牛は『日本主義論』の中で、「西欧の侵略に対抗するため、他の国に優越する強大国家、覇権国家」の建設を主張した。
このように、自由民権運動の敗北の過程で、明治時代を代表する知識人の多くは侵略思想(大東亜共栄圏思想)に転向し、日清戦争を欧米諸列強から日本を防衛する戦争として、積極的に支持し、雪崩を打つように日露戦争、韓国併合へと突き進んだのである。
<横川省三から何を学ぶのか>
自由民権の志士横川省三はなぜ日帝の最尖兵になったのか。
田村安興高知大学教授は、自由民権運動は初期の民権論から後に国権論へ転向していったと説明されてきが、板垣らは征韓論を主張し、政党名も「愛国公党」であった。また植木枝盛・中江兆民なども、皇国思想や天皇親政を公的に批判したことが一度もない。自由民権運動は民主主義的な運動というよりも、むしろ近代日本にナショナリズムを定着させる下からの愛国主義運動だったとの見方を提出し、征韓論争から壬午・甲申事変にいたるまで、対外的には民権派がよりタカ派的であって、彼らこそが急進的ナショナリズムの担い手であったと論じている。
自由民権運動は、その内部に「征韓論」を抱え込んだ急進的ナショナリズムの運動だったが故に、日清・日露戦争に突入する明治政府と対決できず、逆に最尖兵へと転落していったのである。省三の身の振り方に如実に表れているではないか。
釣魚台(尖閣諸島)や独島(竹島)に対する対応を見れば、共産党も社民党も保守政党と区別もつかないナショナリズムの政党である。1970年代に差別排外主義とたたかう路線を確立したはずの革共同(中央派)でさえも「7・7路線」をおろし、革命の核心を喪失したナショナリズムの党へと変質した。
原発再稼働や特定秘密保護法に反対する市民運動の高揚に対して、安倍自民党は戦争の危機をあおり、ナショナリズムを対置し、体制擁護・侵略戦争の担い手へと変質させようとしている。革命党こそがその変質から運動を守るために、最先頭で差別排外主義、侵略戦争とたたかわねばならない。