『日中戦争 南京大残虐事件資料集 極東国際軍事裁判関係資料編』(洞富雄編1985年)抜萃
吉見義明さんが『東京裁判―性暴力関係資料』から割愛した南京事件性暴力関係は『極東国際軍事裁判速記録』(第1~10巻1968年発行)の中にあります。そしてその膨大な原資料の中から洞富雄さんが南京事件関係の原資料を抜萃して『日中戦争南京大残虐事件資料集』として1985年に発行しました。
その中から性被害に関する証言を抜萃しました。被害者側からの証言と加害者(日本人将兵)による証言の2回に分けて、投稿します。
(1)被害者の側からの証言
ウイルソン(米人外科医・金陵大学附属鼓楼医院)証人:17p~
日本の兵隊が12月13日に入城して…3人の日本の兵隊が銃剣を持って庭に立って居りました。我々は其の門を押し開いて中に入りました所が、2人の日本兵が2人の女を強姦せんとしつつあった所であります。
許伝音(紅卍字会副会長)証人:27p~
日本兵は婦人に対してはより悪い、さうして日本兵は婦人を強姦し、さうして又非常な女好きなのであります。日本兵がキャンプにやって来て女を連れて行き、さうして強姦する時には、必ず私の所に先づ最初にやって来たのであります。日本兵は3台のトラックを連ねてやって来、さうして総ての女を廊下に連れて行き、其処に於て全部強姦したのであります。連れて行かれた婦人は12、3歳から4、50歳の間であったのであります。或る場合には日本兵は浴場で中国婦人を強姦したのであります。其の家の中で我々は11人の者が殺され、3人の者が強姦されて居たのを発見しました。是等の強姦された婦人の中2人は14歳であり、1人は17歳でありました。強姦してから日本兵は是等の女子の膣の中に異物を差込み、此の若い娘さんは卓の上で強姦され、さうして其の卓の上にまだ血が流れているのを私は見ました。是等の日本兵は此の船を検策しようとしたのであります。さうして若い女を見た時に彼等は此の女を強姦したのであります。老人の見て居る所而も又夫の見ている前で、強姦してから是等の日本兵は其の家族の老人に対して大変おもしろいぢゃないかと申しました。実は此の老人に若い女を強姦することを勧めたのであります。若い女達は之を聞いて驚き、河の中に飛び込みました。斯くして一家全部溺死してしまったのであります。1942年私の知っている人の妻が強姦せられて死んだ事件があります。1943年日本兵が此の村に参りまして、鶏であるとか肉であるとか云ふものを探しに参ったのでありますが、其の際に非常に美しい女が居たので、それを強姦したのであります。
陳福宝(南京市民)証人:44p~
私は又1日本兵による今1つの強姦事件を見た。之は日本兵南京入城後の第3日、南京に於て白昼行はれたのである。1人の日本兵が這入って来て其の家には婦人の主人を入れて4人居たのであるが総ての之等の人々を部屋から追ひ出した。私は其の日本兵がそれから其の婦人と一緒に這入って行き部屋の戸を締めるのを見た。其の婦人は其の時妊娠して居た。日本兵は10分位で部屋を出た。私は其の時、婦人が部屋を出るのを見たが彼女は泣いて居た。
ベイツ(金陵大学歴史学教授・南京安全区国際委員会委員)証人:50p~
私の隣近所の3人の中からも、女子が伴れ去られ強姦されたのであります。私は現に強姦して居る兵隊の其の現場を見て、そして其の兵隊の5回に亙強姦の現場を通り合わせました。私は其の強姦して居る兵隊を強姦されて居る女達から引き退けたのであります。南京大学構内に居った3万人の避難民中、数百の強姦の事件が書いてあります。其の正確なる詳細が全部報告として日本軍将校に渡されたのであります。占領後1箇月して国際委員会委員長ラーベ氏及び其の同僚はドイツ官憲に対して、少なくとも2万人の強姦事件があったことを信じて居ると報告しました。それより少し前私はもっとずっと内輪に見積もりまして、又安全地帯の委員会の報告のみに依りまして、強姦事件は8千と見積もったのであります。殆ど毎日毎晩、日本軍兵隊の団体の多数は街を歩き廻り、…其の強姦すべき人間を求めて方々を歩き廻って居たのであります。2つの場合では、大学の構内で、斯う云ふ強姦事件に日本軍の将校までが参加したのであります。此の強姦は夜も又多くの場合昼もされたのでありまして、路傍でされた場合が多くありました。南京神学院の校内で私の友人が見て居る前で、1人の中国の婦人が、代わる代わる17名の人に依って強姦されたのであります。大学構内だけでも9歳の小さい子及び76歳のお婆さんが強姦されたと云ふことを附加へます。私は南京大学から多くの婦女子を9月16日、日本軍が拉致してしまった、さうして又翌日30人の婦女子をその前の晩に強姦したと云ふことを報告したのであります。12月18日の手紙には、其の前夜南京大学の中に於いて6件の強姦事件があったと云ふことを報告して居ります。さうして私はクリスマスには大学構内の1つの建物の中で強姦事件及び婦女子の拉致事件が10回も繰返されたと云ふことも報告致しました。
マギー(米人牧師・南京国際赤十字委員会委員長・南京安全区国際委員会委員)証人:92p~
私が最初の事件として遭遇致しました強姦事件のことを申しますと、或る日のことでありましたが、私が私の同僚のフォスター氏と同行して町を歩いて居ります時に、1人の婦人が駆付けてどうか助けて呉れと云って懇願したのであります。其の婦人の話に依りますると、夕方の6時頃に其の婦人は拉致されて、自動車に乗せられて3哩若しくは4哩の郊外に連れて行かれ、其処で日本兵の強姦されたと云ふことでありました。12月18日に私は私共の委員会の1人であったスパーリング氏と一緒に其の南京の住宅街の方に行かうとしたのであります。其の周囲に於きましては、総ての家に日本の兵隊が闖入して居る形勢でありました。私共が丁度入りました家に於きましては1人の婦人が泣いて居りましたが、彼女は強姦されたのであります。此の婦人の話に依りますと、其の家の3階にまだ日本兵が居ると云ふことでありましたから、私共は上がって3階まで行って見たのでありますが、其の時にそのドアは中から閉ぢられておりました。私共は其のドアを叩き、又、大きな声で怒鳴り付けました。間もなく中から日本の兵隊が出て来ましたが、其の中には中国の女が2人居りました。私は12月20日に或る1軒の家に呼ばれて行ったのでありますが、其処では約10歳から11歳位の中国の少女が強姦されたのであります。さうして私が其処に行ったが為に、3人若しくは4人の日本兵が更に強姦を続けることを防ぐことが出来たのであります。更に他の1軒に呼ばれたのでありますが、其処に居りまする中国人が私共に或る1つの部屋を指示致しまして、其処へ行って見ろと云ふことでありましたから、私共入って見ました所が、其処では現に1人の日本兵が強姦をやって居る現場であったのであります。私は其の日本人を部屋から引摺り出し、更に家の中から引摺り出して其の外の小さな道に追出したのであります。さう云ふ事件は多数に上ったのであります。私共が食事を致して居ります時に、2人の中国人が走って来まして、日本の兵隊が女の子を探しに来ていると云ふことを告げたのであります。私共は全力を尽くしたのでありますが、結局2人の中国人が其の被害者となったのであります。其の1人は30歳位の婦人、もう1人は若い少女でありましたが、其の30歳位の婦人の話に依りますと、1人の日本兵が入って来て、銃剣の平たい方の面で押さえ付けた其の少女を強姦したと云ふことでありました。ラベーさんが日本の将校と一緒に自分の家に帰りました時に、1人の日本兵が小屋の中で現に其処に居る中国の婦人を強姦して居るのを見たのであります。日本の将校は其れを見てどう云ふことをしたかと云ふと、唯其の強姦して居る兵隊にピンタを与えただけでありました。私共は私共の匿って居った婦人の団体を解放して、唯其の中で割合に年を喰った年長の婦人のみを家に返して、若い娘達は引続き保護するやうにしたのであります。案の条、又強姦が行はれたので、それ等の女は又、再び私共の懐に逃げ帰ったのであります。彼女等の私共に話します所に依りますると、其の寡婦は日本兵に依って連続強姦されたのであります。お母さんが帰って来ての話に依りますと、其のお母さんは或る家へ連れて行かれて強姦されたと云ふことであります。其のお母さんは先程申したやうに77歳の老母であります。其の寡婦が金陵大学に帰って来てからの話に依りますると、此の寡婦は度々強姦されたと云ふことでありまして、其の話に依りますと、少くとも17回から18回に亘って強姦されたと申して居りました。それから此の兵隊は、私が先程申しました一寸広場の横の所へ是等の人を連れて行きまして、さうして14歳から16歳位の女の子を裸にしようとしたのであります。それから是等の日本兵は此の少女達を強姦したのであります。先程申しました案内役に立った其の祖母は、其の部屋に行って、竹の棒を女の膣から引摺り出して持って来たのであります。1人の母親が小さな1歳の子供と共にベッドの下に隠れて居ったのであります。日本兵は其の女の人を強姦して、それから殺しました。それから只今申しました1歳の少女の膣の中に棒を突っ込んだのであります。其の中の1人の少女が強姦された机の上、それから他の少女が殺された床の上には到る処に血が散乱して居ったのであります。其の娘の父の私に申します所に依りますと、其の娘は既に5回に亘って強姦されて居りました。私共が行った時にはもう既に遅かったのであります。所が其の兄弟の妻が暴行を拒んだので殺されました。又もう1人の姉が、やはり暴行を拒んだので殺されました。彼女は気絶致しました。所が何処か分らない営舎に連れて行かれまして、2箇月間監禁されました。最初の月は毎日暴行を受けました。着物を剥がされて暴行を受けたのであります。其の後彼女は性病がひどくなりまして、兵隊はそれ以上暴行することを止めました。私が見ましたのは、1人の男が実際に強姦行為をして居ったのであります。もう1つの2人の男と云ふのは、女の子と寝台に横たはって居ったのでありますが、其の父親の云ふには私が其処に行きますより既に前に強姦して居ったと云ふことであります。
陳瑞芳(金陵女子文理学院舎監)口供書:115p~
日本兵達は兵達の捜索だと佯(いつわ)って校庭に入り、事実は私共の娘達を捜して居た。彼女と私と他の者達が昭和12年12月17日の夜間も勤務して居たにも拘はらず、兵達が校庭に入り、11名の娘達を運び去った。此等の娘達9名が日本将校により恐ろしくも強姦、汚辱せられ、後に校庭へ逃げ返って来た。1人の娘は校庭に連れもどされた。彼女は歩く事も出来ない程恐ろしく傷ついて腫れて、そして彼女は4名又は5名の兵により繰返し、強姦され汚辱された事を告げた。彼女は恐怖症に襲はれていた。最初の4週間と云ふものは毎晩兵隊達が私共の娘達を手に入れる為やって来た。ヴァウトリン女史は助力の限り娘達に兵隊達を近づけない様にした。
マックカラム(米人・金陵大学附属鼓楼医院)口供書:117p~
然し1週間は経過したが、それは此の世の地獄でありました。私は今迄に1度も斯の様な残忍を聞いた事も、読んだ事もありません。強姦-強姦-又強姦-私共は1夜に少なくとも1000件を算へ日中も多くの事件があるのです。女子は毎朝、毎日、毎晩連れ去られます。日中彼等は好ましい婦女を捜しに私共の安全地帯地区に在る建物内に入って来て、夜になると婦女を連れに帰って来ます。若し婦女が隠れて居らないと責任ある者は現場で殺されます。11、2歳の少女と50歳の婦人達は逃げられませんでした。抵抗すると生命に関します。抵抗した妊娠6箇月の婦人が顔面や身体に16箇所のナイフ創と、腹部に1箇所の突傷を受けて、私共の所に参りました。1937年12月30日夕食前12歳になる少女が黄色の自動車を駆って来た2名の日本兵に誘拐されました。1938年1月1日2人の男は日本兵2名が侵入して女子を求めて居ると申しました。時経て彼は2人の婦人を病院へ連れてきました。1婦人は強姦され、ひどく殴打された他の婦人は父の助力に依ってどうやら逃げることが出来ましたが、彼女が窓から跳んだ時に負傷しました。1938年1月3日午後には1日本兵が婦人を強姦しようとしました。彼女の夫は之を妨害して彼女を助けて抵抗した。今日他の1婦人が憐れな有様で而も恐しい物語を持って来ました。彼女は日本軍が衛生部隊の1隊へ連行した5名の女子の1人であった-即ち昼間は日本兵の衣類を洗濯し、夜は強姦するために。彼女らの中2名は無理に15名乃至20名の兵士を満足せしめられ、一番美人の婦人は毎夜40名もの日本兵を満足せしめられた。私共の処へ来た此の婦人は3名の日本兵に離れた場所へ呼び入れられて、其処で彼等は彼女の頭部を切り落さうと計画しました。プライス氏の庭に生後6ヶ月位の嬰児が居ります。赤子は日本兵が母親を強姦する間泣き叫びました。其兵は手を赤子の鼻や口に当てて窒息させました。日本兵の一団が囲内の裏壁をよぢ登って来て12人位の女子を強姦しました。
羅宋氏(南京市民・夫は教師)陳述書:132p~
1937年12月21日の頃…約20名程の其の日本兵達は女子を提供する様に要求し、其の中の8名の兵士は私を囲みまして、私を連れ去らうとしました。
胡篤信(南京市民)陳述書:135p~
私は2人の日本兵により1人の支那の婦人が家の中に引摺り込まれるのを見ました。その時その婦人は泣いて居り反抗しやうとして居りました。又私は2週間位後に1日本人が13歳位の少女を或る家に引摺り込むのを見ました。そしてその少女はそこで強姦されたとその後に聞きました。
王陳氏(南京市民)陳述書:136p~
1837年2月26日、私の夫は日本人に依り殺害されました。午後4時頃、4人の日本軍人が洋珠巷1号の私の家に来ました。彼等は将に私を強姦しようとし、その中の3人は、無理矢理私の衣服を剥ぎ、私の衣服の上部を脱がせかかった時に、私の夫が私を守りに来ました。そして彼は立ち処に蹴殺されました。私の子供達は2箇月と4歳でした。私の夫の殺害後、彼等は私を強姦せずに、私の家を去りました。
王潘氏(南京市民)陳述書:137p~
日本軍が1937年12月13日、南京市内に入って来た時に、私や父や姉は避難区域の上海路第100番の家屋に移って住んで居た。私は度々日本人が女子を尋ね探しに来るのを見た。或る時1人の婦人が何も無い庭で強姦された。これは夜の事で我々の凡ての者が彼女が強姦されて居る間泣くのを聞くことが出来た。日本人が去った時は彼女は見当らなかった。彼等は彼女を連れ去ったのであった。私は日本の貨物自動車が私達の家に住んで居る婦人を狩り立てに来るのを2度見た。連れられて行った女は皆帰らなかった。ただ例外として1人の女の子は強姦はされたが何うにか家に帰った。彼女の言ふことには、貨物自動車で連れて行かれた女は全部何回となく、代る代る日本人に強姦された。この戻った女の子が私に言ったことは、他の1人の女の子は強姦された後で日本人より膣の中に草を押込まれて、この取扱ひの為に死んだのを見たさうだ。1937年1月16日午後1時頃その小屋に伯母を尋ねた時に、3人の日本兵が来て、その小屋から1人の婦人を連れて行った。
呉張氏(南京市民)供述書:138p~
或る日の午後3時頃、3人の日本兵が其の家へやって来た。家に居た人々は、18歳位の1人の少女の外は皆家の上の方へ逃げた。此の少女は階段を昇前に日本兵に捉へられて、3人に次々と代る代る強姦された。此の若い娘は強姦されてから間もなく死んだ。
陳賈氏夫人(南京市民)の申立:139p
移動の途中、南京市の老王府と云ふ所へ参りました時、其処で佩剣の日本兵の1人、是れを私は将校であったと見たのでしたが、此日本兵が私の義理の妹を掴み、其時一緒に殺された彼女の夫と子供等の面前で暴行を加へ、其上殺害したのでありました。彼女の夫は妻を庇って格闘中殺されたのでした。又、2人の子供等は母が陵辱の苦みを受て居る其場で泣き叫んだので殺されたのでした。私は難民収容所へ参りました。其途中、女性や一般人男子の方々の多くの死体を見ました。是等の婦人は着物を捲くり上げられて居り、暴行されたものと見受けられたのでした。約20ばかりの死体を見ました。其大部分は婦人であります。
南京安全地区文書:140p~
此処に提出してありまする77件の中、75件は強姦であり、4件は殺害であり、15件は強盗であるのであります。
南京地方法院検察処敵人罪行調査報告:144p~
3姦淫に関するもの。一般青年婦女より6,70歳の高齢の老母に至るまで被害者甚だ多し。其方式は強姦あり、輪姦あり、拒姦致死あり、或は父をして其娘を、或は兄をして其妹を、舅をして其嫁を姦せしめて楽しみとなす者あり。或は乳房を割き、胸・脾を破り、歯を抜き、其惨状見るに忍びざるものあり。
アメリカ大使館報告:156p
之等在留米国人及其の他の国際委員会の委員達は、之迄此の報告書作成の時迄も、絶えず掠奪や婦人あさりに侵入したる日本兵達を外国人財産より追払い続け来り居れり。4人の日本陸軍憲兵、南京大学に侵入し、1支那人少女を拉し去りたることを報告しおれり。彼等の婦女子は強姦せられ、而も其或数は殺されたることを報告し居りたりと云ふ。
ドイツ人の秘密見聞記:170p
他の悲しい話題は多くの少女及婦人の虐待・暴行である。不必要な野蛮行為や損傷は幼い子供達に対してさへ珍しくはない。
紅卍字会386p
2強姦 日本兵は少女より老婆に至る殆どすべての女を強姦し、度々犠牲者が死ぬまで交代で繰り返し繰り返し強姦した。死んだ後でも屍体を銃剣で突いたり切ったりし、明らかに野獣的な日本軍自身を楽しませるために固い物体を膣中に突込んだ。最も怪しからぬことには、一家に対して、恐るべき質問の後、一旦家族関係が確認され、父と娘、母と息子、兄弟姉妹が性交を強ひられ、日本軍は傍に立って笑ひ、喝采した。かかる野蛮的行為は真に支那人の道義心破壊を目的としたものであった。
吉見義明さんが『東京裁判―性暴力関係資料』から割愛した南京事件性暴力関係は『極東国際軍事裁判速記録』(第1~10巻1968年発行)の中にあります。そしてその膨大な原資料の中から洞富雄さんが南京事件関係の原資料を抜萃して『日中戦争南京大残虐事件資料集』として1985年に発行しました。
その中から性被害に関する証言を抜萃しました。被害者側からの証言と加害者(日本人将兵)による証言の2回に分けて、投稿します。
(1)被害者の側からの証言
ウイルソン(米人外科医・金陵大学附属鼓楼医院)証人:17p~
日本の兵隊が12月13日に入城して…3人の日本の兵隊が銃剣を持って庭に立って居りました。我々は其の門を押し開いて中に入りました所が、2人の日本兵が2人の女を強姦せんとしつつあった所であります。
許伝音(紅卍字会副会長)証人:27p~
日本兵は婦人に対してはより悪い、さうして日本兵は婦人を強姦し、さうして又非常な女好きなのであります。日本兵がキャンプにやって来て女を連れて行き、さうして強姦する時には、必ず私の所に先づ最初にやって来たのであります。日本兵は3台のトラックを連ねてやって来、さうして総ての女を廊下に連れて行き、其処に於て全部強姦したのであります。連れて行かれた婦人は12、3歳から4、50歳の間であったのであります。或る場合には日本兵は浴場で中国婦人を強姦したのであります。其の家の中で我々は11人の者が殺され、3人の者が強姦されて居たのを発見しました。是等の強姦された婦人の中2人は14歳であり、1人は17歳でありました。強姦してから日本兵は是等の女子の膣の中に異物を差込み、此の若い娘さんは卓の上で強姦され、さうして其の卓の上にまだ血が流れているのを私は見ました。是等の日本兵は此の船を検策しようとしたのであります。さうして若い女を見た時に彼等は此の女を強姦したのであります。老人の見て居る所而も又夫の見ている前で、強姦してから是等の日本兵は其の家族の老人に対して大変おもしろいぢゃないかと申しました。実は此の老人に若い女を強姦することを勧めたのであります。若い女達は之を聞いて驚き、河の中に飛び込みました。斯くして一家全部溺死してしまったのであります。1942年私の知っている人の妻が強姦せられて死んだ事件があります。1943年日本兵が此の村に参りまして、鶏であるとか肉であるとか云ふものを探しに参ったのでありますが、其の際に非常に美しい女が居たので、それを強姦したのであります。
陳福宝(南京市民)証人:44p~
私は又1日本兵による今1つの強姦事件を見た。之は日本兵南京入城後の第3日、南京に於て白昼行はれたのである。1人の日本兵が這入って来て其の家には婦人の主人を入れて4人居たのであるが総ての之等の人々を部屋から追ひ出した。私は其の日本兵がそれから其の婦人と一緒に這入って行き部屋の戸を締めるのを見た。其の婦人は其の時妊娠して居た。日本兵は10分位で部屋を出た。私は其の時、婦人が部屋を出るのを見たが彼女は泣いて居た。
ベイツ(金陵大学歴史学教授・南京安全区国際委員会委員)証人:50p~
私の隣近所の3人の中からも、女子が伴れ去られ強姦されたのであります。私は現に強姦して居る兵隊の其の現場を見て、そして其の兵隊の5回に亙強姦の現場を通り合わせました。私は其の強姦して居る兵隊を強姦されて居る女達から引き退けたのであります。南京大学構内に居った3万人の避難民中、数百の強姦の事件が書いてあります。其の正確なる詳細が全部報告として日本軍将校に渡されたのであります。占領後1箇月して国際委員会委員長ラーベ氏及び其の同僚はドイツ官憲に対して、少なくとも2万人の強姦事件があったことを信じて居ると報告しました。それより少し前私はもっとずっと内輪に見積もりまして、又安全地帯の委員会の報告のみに依りまして、強姦事件は8千と見積もったのであります。殆ど毎日毎晩、日本軍兵隊の団体の多数は街を歩き廻り、…其の強姦すべき人間を求めて方々を歩き廻って居たのであります。2つの場合では、大学の構内で、斯う云ふ強姦事件に日本軍の将校までが参加したのであります。此の強姦は夜も又多くの場合昼もされたのでありまして、路傍でされた場合が多くありました。南京神学院の校内で私の友人が見て居る前で、1人の中国の婦人が、代わる代わる17名の人に依って強姦されたのであります。大学構内だけでも9歳の小さい子及び76歳のお婆さんが強姦されたと云ふことを附加へます。私は南京大学から多くの婦女子を9月16日、日本軍が拉致してしまった、さうして又翌日30人の婦女子をその前の晩に強姦したと云ふことを報告したのであります。12月18日の手紙には、其の前夜南京大学の中に於いて6件の強姦事件があったと云ふことを報告して居ります。さうして私はクリスマスには大学構内の1つの建物の中で強姦事件及び婦女子の拉致事件が10回も繰返されたと云ふことも報告致しました。
マギー(米人牧師・南京国際赤十字委員会委員長・南京安全区国際委員会委員)証人:92p~
私が最初の事件として遭遇致しました強姦事件のことを申しますと、或る日のことでありましたが、私が私の同僚のフォスター氏と同行して町を歩いて居ります時に、1人の婦人が駆付けてどうか助けて呉れと云って懇願したのであります。其の婦人の話に依りますると、夕方の6時頃に其の婦人は拉致されて、自動車に乗せられて3哩若しくは4哩の郊外に連れて行かれ、其処で日本兵の強姦されたと云ふことでありました。12月18日に私は私共の委員会の1人であったスパーリング氏と一緒に其の南京の住宅街の方に行かうとしたのであります。其の周囲に於きましては、総ての家に日本の兵隊が闖入して居る形勢でありました。私共が丁度入りました家に於きましては1人の婦人が泣いて居りましたが、彼女は強姦されたのであります。此の婦人の話に依りますと、其の家の3階にまだ日本兵が居ると云ふことでありましたから、私共は上がって3階まで行って見たのでありますが、其の時にそのドアは中から閉ぢられておりました。私共は其のドアを叩き、又、大きな声で怒鳴り付けました。間もなく中から日本の兵隊が出て来ましたが、其の中には中国の女が2人居りました。私は12月20日に或る1軒の家に呼ばれて行ったのでありますが、其処では約10歳から11歳位の中国の少女が強姦されたのであります。さうして私が其処に行ったが為に、3人若しくは4人の日本兵が更に強姦を続けることを防ぐことが出来たのであります。更に他の1軒に呼ばれたのでありますが、其処に居りまする中国人が私共に或る1つの部屋を指示致しまして、其処へ行って見ろと云ふことでありましたから、私共入って見ました所が、其処では現に1人の日本兵が強姦をやって居る現場であったのであります。私は其の日本人を部屋から引摺り出し、更に家の中から引摺り出して其の外の小さな道に追出したのであります。さう云ふ事件は多数に上ったのであります。私共が食事を致して居ります時に、2人の中国人が走って来まして、日本の兵隊が女の子を探しに来ていると云ふことを告げたのであります。私共は全力を尽くしたのでありますが、結局2人の中国人が其の被害者となったのであります。其の1人は30歳位の婦人、もう1人は若い少女でありましたが、其の30歳位の婦人の話に依りますと、1人の日本兵が入って来て、銃剣の平たい方の面で押さえ付けた其の少女を強姦したと云ふことでありました。ラベーさんが日本の将校と一緒に自分の家に帰りました時に、1人の日本兵が小屋の中で現に其処に居る中国の婦人を強姦して居るのを見たのであります。日本の将校は其れを見てどう云ふことをしたかと云ふと、唯其の強姦して居る兵隊にピンタを与えただけでありました。私共は私共の匿って居った婦人の団体を解放して、唯其の中で割合に年を喰った年長の婦人のみを家に返して、若い娘達は引続き保護するやうにしたのであります。案の条、又強姦が行はれたので、それ等の女は又、再び私共の懐に逃げ帰ったのであります。彼女等の私共に話します所に依りますると、其の寡婦は日本兵に依って連続強姦されたのであります。お母さんが帰って来ての話に依りますと、其のお母さんは或る家へ連れて行かれて強姦されたと云ふことであります。其のお母さんは先程申したやうに77歳の老母であります。其の寡婦が金陵大学に帰って来てからの話に依りますると、此の寡婦は度々強姦されたと云ふことでありまして、其の話に依りますと、少くとも17回から18回に亘って強姦されたと申して居りました。それから此の兵隊は、私が先程申しました一寸広場の横の所へ是等の人を連れて行きまして、さうして14歳から16歳位の女の子を裸にしようとしたのであります。それから是等の日本兵は此の少女達を強姦したのであります。先程申しました案内役に立った其の祖母は、其の部屋に行って、竹の棒を女の膣から引摺り出して持って来たのであります。1人の母親が小さな1歳の子供と共にベッドの下に隠れて居ったのであります。日本兵は其の女の人を強姦して、それから殺しました。それから只今申しました1歳の少女の膣の中に棒を突っ込んだのであります。其の中の1人の少女が強姦された机の上、それから他の少女が殺された床の上には到る処に血が散乱して居ったのであります。其の娘の父の私に申します所に依りますと、其の娘は既に5回に亘って強姦されて居りました。私共が行った時にはもう既に遅かったのであります。所が其の兄弟の妻が暴行を拒んだので殺されました。又もう1人の姉が、やはり暴行を拒んだので殺されました。彼女は気絶致しました。所が何処か分らない営舎に連れて行かれまして、2箇月間監禁されました。最初の月は毎日暴行を受けました。着物を剥がされて暴行を受けたのであります。其の後彼女は性病がひどくなりまして、兵隊はそれ以上暴行することを止めました。私が見ましたのは、1人の男が実際に強姦行為をして居ったのであります。もう1つの2人の男と云ふのは、女の子と寝台に横たはって居ったのでありますが、其の父親の云ふには私が其処に行きますより既に前に強姦して居ったと云ふことであります。
陳瑞芳(金陵女子文理学院舎監)口供書:115p~
日本兵達は兵達の捜索だと佯(いつわ)って校庭に入り、事実は私共の娘達を捜して居た。彼女と私と他の者達が昭和12年12月17日の夜間も勤務して居たにも拘はらず、兵達が校庭に入り、11名の娘達を運び去った。此等の娘達9名が日本将校により恐ろしくも強姦、汚辱せられ、後に校庭へ逃げ返って来た。1人の娘は校庭に連れもどされた。彼女は歩く事も出来ない程恐ろしく傷ついて腫れて、そして彼女は4名又は5名の兵により繰返し、強姦され汚辱された事を告げた。彼女は恐怖症に襲はれていた。最初の4週間と云ふものは毎晩兵隊達が私共の娘達を手に入れる為やって来た。ヴァウトリン女史は助力の限り娘達に兵隊達を近づけない様にした。
マックカラム(米人・金陵大学附属鼓楼医院)口供書:117p~
然し1週間は経過したが、それは此の世の地獄でありました。私は今迄に1度も斯の様な残忍を聞いた事も、読んだ事もありません。強姦-強姦-又強姦-私共は1夜に少なくとも1000件を算へ日中も多くの事件があるのです。女子は毎朝、毎日、毎晩連れ去られます。日中彼等は好ましい婦女を捜しに私共の安全地帯地区に在る建物内に入って来て、夜になると婦女を連れに帰って来ます。若し婦女が隠れて居らないと責任ある者は現場で殺されます。11、2歳の少女と50歳の婦人達は逃げられませんでした。抵抗すると生命に関します。抵抗した妊娠6箇月の婦人が顔面や身体に16箇所のナイフ創と、腹部に1箇所の突傷を受けて、私共の所に参りました。1937年12月30日夕食前12歳になる少女が黄色の自動車を駆って来た2名の日本兵に誘拐されました。1938年1月1日2人の男は日本兵2名が侵入して女子を求めて居ると申しました。時経て彼は2人の婦人を病院へ連れてきました。1婦人は強姦され、ひどく殴打された他の婦人は父の助力に依ってどうやら逃げることが出来ましたが、彼女が窓から跳んだ時に負傷しました。1938年1月3日午後には1日本兵が婦人を強姦しようとしました。彼女の夫は之を妨害して彼女を助けて抵抗した。今日他の1婦人が憐れな有様で而も恐しい物語を持って来ました。彼女は日本軍が衛生部隊の1隊へ連行した5名の女子の1人であった-即ち昼間は日本兵の衣類を洗濯し、夜は強姦するために。彼女らの中2名は無理に15名乃至20名の兵士を満足せしめられ、一番美人の婦人は毎夜40名もの日本兵を満足せしめられた。私共の処へ来た此の婦人は3名の日本兵に離れた場所へ呼び入れられて、其処で彼等は彼女の頭部を切り落さうと計画しました。プライス氏の庭に生後6ヶ月位の嬰児が居ります。赤子は日本兵が母親を強姦する間泣き叫びました。其兵は手を赤子の鼻や口に当てて窒息させました。日本兵の一団が囲内の裏壁をよぢ登って来て12人位の女子を強姦しました。
羅宋氏(南京市民・夫は教師)陳述書:132p~
1937年12月21日の頃…約20名程の其の日本兵達は女子を提供する様に要求し、其の中の8名の兵士は私を囲みまして、私を連れ去らうとしました。
胡篤信(南京市民)陳述書:135p~
私は2人の日本兵により1人の支那の婦人が家の中に引摺り込まれるのを見ました。その時その婦人は泣いて居り反抗しやうとして居りました。又私は2週間位後に1日本人が13歳位の少女を或る家に引摺り込むのを見ました。そしてその少女はそこで強姦されたとその後に聞きました。
王陳氏(南京市民)陳述書:136p~
1837年2月26日、私の夫は日本人に依り殺害されました。午後4時頃、4人の日本軍人が洋珠巷1号の私の家に来ました。彼等は将に私を強姦しようとし、その中の3人は、無理矢理私の衣服を剥ぎ、私の衣服の上部を脱がせかかった時に、私の夫が私を守りに来ました。そして彼は立ち処に蹴殺されました。私の子供達は2箇月と4歳でした。私の夫の殺害後、彼等は私を強姦せずに、私の家を去りました。
王潘氏(南京市民)陳述書:137p~
日本軍が1937年12月13日、南京市内に入って来た時に、私や父や姉は避難区域の上海路第100番の家屋に移って住んで居た。私は度々日本人が女子を尋ね探しに来るのを見た。或る時1人の婦人が何も無い庭で強姦された。これは夜の事で我々の凡ての者が彼女が強姦されて居る間泣くのを聞くことが出来た。日本人が去った時は彼女は見当らなかった。彼等は彼女を連れ去ったのであった。私は日本の貨物自動車が私達の家に住んで居る婦人を狩り立てに来るのを2度見た。連れられて行った女は皆帰らなかった。ただ例外として1人の女の子は強姦はされたが何うにか家に帰った。彼女の言ふことには、貨物自動車で連れて行かれた女は全部何回となく、代る代る日本人に強姦された。この戻った女の子が私に言ったことは、他の1人の女の子は強姦された後で日本人より膣の中に草を押込まれて、この取扱ひの為に死んだのを見たさうだ。1937年1月16日午後1時頃その小屋に伯母を尋ねた時に、3人の日本兵が来て、その小屋から1人の婦人を連れて行った。
呉張氏(南京市民)供述書:138p~
或る日の午後3時頃、3人の日本兵が其の家へやって来た。家に居た人々は、18歳位の1人の少女の外は皆家の上の方へ逃げた。此の少女は階段を昇前に日本兵に捉へられて、3人に次々と代る代る強姦された。此の若い娘は強姦されてから間もなく死んだ。
陳賈氏夫人(南京市民)の申立:139p
移動の途中、南京市の老王府と云ふ所へ参りました時、其処で佩剣の日本兵の1人、是れを私は将校であったと見たのでしたが、此日本兵が私の義理の妹を掴み、其時一緒に殺された彼女の夫と子供等の面前で暴行を加へ、其上殺害したのでありました。彼女の夫は妻を庇って格闘中殺されたのでした。又、2人の子供等は母が陵辱の苦みを受て居る其場で泣き叫んだので殺されたのでした。私は難民収容所へ参りました。其途中、女性や一般人男子の方々の多くの死体を見ました。是等の婦人は着物を捲くり上げられて居り、暴行されたものと見受けられたのでした。約20ばかりの死体を見ました。其大部分は婦人であります。
南京安全地区文書:140p~
此処に提出してありまする77件の中、75件は強姦であり、4件は殺害であり、15件は強盗であるのであります。
南京地方法院検察処敵人罪行調査報告:144p~
3姦淫に関するもの。一般青年婦女より6,70歳の高齢の老母に至るまで被害者甚だ多し。其方式は強姦あり、輪姦あり、拒姦致死あり、或は父をして其娘を、或は兄をして其妹を、舅をして其嫁を姦せしめて楽しみとなす者あり。或は乳房を割き、胸・脾を破り、歯を抜き、其惨状見るに忍びざるものあり。
アメリカ大使館報告:156p
之等在留米国人及其の他の国際委員会の委員達は、之迄此の報告書作成の時迄も、絶えず掠奪や婦人あさりに侵入したる日本兵達を外国人財産より追払い続け来り居れり。4人の日本陸軍憲兵、南京大学に侵入し、1支那人少女を拉し去りたることを報告しおれり。彼等の婦女子は強姦せられ、而も其或数は殺されたることを報告し居りたりと云ふ。
ドイツ人の秘密見聞記:170p
他の悲しい話題は多くの少女及婦人の虐待・暴行である。不必要な野蛮行為や損傷は幼い子供達に対してさへ珍しくはない。
紅卍字会386p
2強姦 日本兵は少女より老婆に至る殆どすべての女を強姦し、度々犠牲者が死ぬまで交代で繰り返し繰り返し強姦した。死んだ後でも屍体を銃剣で突いたり切ったりし、明らかに野獣的な日本軍自身を楽しませるために固い物体を膣中に突込んだ。最も怪しからぬことには、一家に対して、恐るべき質問の後、一旦家族関係が確認され、父と娘、母と息子、兄弟姉妹が性交を強ひられ、日本軍は傍に立って笑ひ、喝采した。かかる野蛮的行為は真に支那人の道義心破壊を目的としたものであった。