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小松基地問題研究会

20180831 田中秀雄著『スマラン慰安所事件の真実 BC級戦犯岡田慶治の獄中手記』について

2018年08月31日 | 日本軍性暴力関係原資料
田中秀雄著『スマラン慰安所事件の真実 BC級戦犯岡田慶治の獄中手記』について

スマラン事件裁判記録の公開
 2014年、スマラン事件裁判記録がインターネット上(「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワークのブログhttp://kokoronokaihuku.blog.fc2.com/)に投稿されるまでは、スマラン事件が日本軍による組織的な強制連行・性奴隷事件であることを否定する記事が横行していた。

 たとえば、「命令違反や個人犯罪」(秦郁彦)、「兵士の個人犯罪」(阿比留瑠比)、「一部の軍人が犯した犯罪行為…、日本軍が加担した`証拠`ではない」(藤岡信勝)、「軍による組織だった強制連行の証拠はない」(百田尚樹)、「軍の方針に反していた」(櫻井よしこ)、「個人レベルの戦争犯罪」(八木秀次)、「一部将兵の軍律違反」(石川水穂)、「末端の兵士が起こした軍紀違反事件」(池田信夫)など、スマラン事件を兵士個人の犯罪とし、誰も彼も軍が組織的にかかわってはいないと主張している。

 しかし、スマラン事件裁判記録が投稿された後は、真実の重さに圧倒されたのか諸氏は沈黙しているようだが、2018年4月、表記の著書(『獄中手記』と略す)が発行された。

『岡田慶治の獄中手記』について
 『獄中手記』の目次は(1)大東亜解放の聖戦へ(仏印、マレー、ビルマ)「青壮日記10」、(2)運命のジャワへ(ジャワ、スマトラ)「青壮日記11」、(3)ボルネオの苦闘(ボルネオの巻)「青壮日記12」、(4)バタビア報復裁判に戦う(復員、再起、戦犯行)「青壮日記13」、(5)「解説 フェミニスト岡田慶治」、(6)岡田慶治の遺書、となっている。

 各章のタイトルは著者・田中が付けており、第1章は「大東亜解放の聖戦へ」としている。田中にとっては、アジア太平洋地域への侵略戦争は「アジア解放の聖戦」であり、岡田慶治は「アジア解放の英傑」のようだ。しかしスマラン事件裁判記録(須磨明筆耕資料―注)は英傑岡田を全否定しており、何としてもこの評価をくつがえしたいというのが、本書の出版動機である。
(注:国立公文書館所蔵の「法務省/平成11年度/4B-23-4915」及び「法務省/平成11年度/4B-23-4956」)

 それは、「解説」で岡田をフェミニストと表現していることにも表れている。フェミニスト(feminist)とは、女性の権利拡張や、男女平等を主張する人(女性解放論者)を意味するが、暴力(軍)を背景にして、女性を性奴隷にする施設(慰安所)を開設した軍人・岡田慶治らをフェミニストと表現する田中秀雄の知性を根底から疑わねばならない。

 また、『獄中手記』は全体で268ページあるが、その大部分は岡田慶治の獄中手記「青壮日記」の復刻で占められ、田中による反論はわずか17ページ分しかなく、スマラン事件批判の事実上の敗北を刻印しているようだ。以下、具体的に著者田中の主張を検証しよう。

慰安所設置~閉鎖のいきさつ
 最初に、裁判記録によってスマラン事件のアウトラインを整理しておこう。1944年1月、南方軍第16軍幹部候補生隊隊長の能崎清次少将(当時)が、池田省一大佐と大久保朝雄大佐から「抑留夫人を慰安所に使いたい」との要望を受けて、新しい慰安所開設を話し合ったことから始まる。この時、能崎少将はジャカルタの第16軍司令部の認可を条件に、部下の岡田慶治少佐に、軍司令部との認可交渉に当たらせた。

 この時、第16軍司令部からは、「自由意志の者だけを雇うこと」を注意され、岡田少佐は女性を集める手配と4軒の慰安所開設の準備を実行した。2月末、4カ所の抑留所から35人のオランダ人女性を集めて、日本語の承諾書にサインさせ、各慰安所に分散連行し、3月上旬から軍支配下の軍人・軍属のための性奴隷とした。

 自分の娘を連れ去られたオランダ人女性が、陸軍省俘虜部から抑留所視察に来た小田島董大佐に訴え、同大佐の勧告により第16軍司令部は、1944年4月末に4カ所の慰安所を閉鎖したが、関係者は処罰されていない。

 裁判記録で明らかになったことは、第1に、軍と警察(憲兵)が慰安所設置に直接関与していることである。スマラン駐屯地司令官の能崎少将と岡田少佐が中心的な役割を果たしている。第2に、軍と警察による暴力的な連行、欺罔による募集である。第3に、慰安所は鉄条網などで囲まれ、出入り口には警備がおり、外出には兵が付いてきた。「慰安所で働くか死ぬか」と脅し、家族を人質にして脅迫している。第4に、必死に抵抗する女性を監禁し、暴力をふるい、強姦を繰り返したのである。

 そして、最も重要なことはインドネシアを占領した日本軍が「女狩り」と称して、現地女性への強姦事件が多発しており、その対策として「慰安所」制度を運用していたことである。日本軍占領下の3年半の間に性暴力の犠牲となったインドネシア女性の数は1万6884人(1995年兵補協会調査―1996.2.14朝日新聞)にのぼっている。亡くなったり、事情があって名乗り出ることが出来なかった女性はその数倍はいたと推測出来る。

 岡田慶治の「青壮日記」でも、その経過を確認しておこう。岡田慶治は1946年3月帰国(復員)後、1947年3月戦犯容疑で巣鴨に収監され、同年8月神戸港からジャカルタチピナン刑務所に送られた。「青壮日記」は1948年11月処刑までの間に執筆された。

 岡田によれば、1944年1月に隊長会議があり、そこで能崎隊長はオランダ人女性の慰安所開設計画を知り、スマランの部隊でも便乗したいという方針が出された。岡田はオランダ人女性がインドネシア人巡査を犯したなど性的スキャンダルの噂を列記して、「慰安婦」にされた女性が娼婦や乱れた女というイメージをあらかじめ形成している(106p)。

 1月末ごろ、第16軍司令部(ジャカルタ)に派遣された岡田慶治が申請手続きをおこなった(180p)。2月25日、36人のオランダ人女性をカナリーランに集め(注:「募集」方法については書かれていない)、マレー語と日本語(注:オランダ語ではない)の承諾書にサインさせ(111p)、岡田が4カ所の慰安所に配分した。そのうち8人の女性が将校倶楽部に配分された(112p)。2月29日、8人の将校の食事会に8人の「慰安婦」を侍らせ、その後各室に分かれ、岡田は道子(L・F)を指名し、道子は進んで受け入れた(117p)。その後も岡田は「時々泊まっていた」。翌日3月1日開業したが、4月下旬閉鎖した。

 戦犯容疑が「慰安所」開設であることを知らされた岡田慶治は「慰安所―あれか、何だ大したことないじゃないか」(226p)、「慰安所に欧州婦人を使ったのがいかんのかなぁ。しかしあれほど可愛がってやった…」(228p)と記し、オランダ人女性の性奴隷化を深刻には受けとめていない。

 自殺した大久保朝雄の遺書(1947.1.17付)を読み、岡田は<皆、何という腰抜けだろう(236p)>、L・Fの供述書を読んで、<(L・Fが)嘘八百を並べている(236p)。…飼い犬(L・F)に手を噛まれた(240p)>などと、自らの罪を棚に上げ、最終意見陳述では、<本事件はもともと、合法的且つ親切心から出たものである(241P)>と、軍権力を使って、抑留所のオランダ人女性を連行し、「慰安婦(性奴隷)」を強制した罪の重大さには、最後まで気付いていない。

岡田慶治とL・Fさん(道子)
 開業前日の2月29日、岡田ら8人の将校は特権を使って、「慰安婦(性奴隷)」として将校倶楽部に連行された8人の女性に性暴力を振るった。岡田の「青壮日記」とL・Fさん(道子)の供述書から、その日の様子を確認しておこう。

<被害者L・Fさんの証言>
 <その晩将校は8名いた。…9時頃岡田は各将校に1名づつ我々を指定した。彼自身には私を選んだ。岡田はマレー語で、寝室へ行けと云ったので、私は行くと、彼は後について来た。約3分間位彼と話をした後、彼は私にベッドに寝ろと云ったので、私は之を拒むと、彼は私の両肩を掴み、私をベッドに押し倒した。私も劇しく抵抗したが、彼が私を寝台の上に投げ出すのを防げなかった。同じ慰安所で働いていた仲間で、憲兵に同じやうなことをやられた人の話では、斯かる際に抵抗するのは虐待されるだけで無駄だと云ふ話を聞いていたので、私は抵抗はいい加減でやめて、岡田に性交を許した。然も、その性交中私は彼の顔面に喰付いてやったら、彼は平手で私の顔を殴った。…斯くして私は岡田に依り暴力を以て陵辱せられたのであった。…岡田は略々定期的に1週間に1、2度私の所に通ってきた。>

<岡田慶治の『青壮日記』>
 <(食事後)皆別れ別れに部屋に帰った。…何人も浮き浮きとした足取りであった。…ピンポン以来、岡田は道子(L・F)を可愛いと思っていた。…2人は近くの道子(L・F)の部屋に入った。…服を脱いでシュミーズ一枚になった。彼女が岡田に裸になれと言う。岡田も立上がってズボンやシャツを脱いだ。越中褌を不思議そうに見ていたが、とうとう紐を解いて彼の手を取って寝台に上がった。(以下、ポルノ小説のような記述が続くので省略)>

 何という落差だろう。「婦女子を強制売春に連行した罪」「売春強制罪」「強姦罪」で訴追されている岡田慶治が獄中で執筆した「手記」である。強姦を、あたかも合意(恋愛)上の性的関係であるかのように描くことによって、責任を回避しようとしている。

 しかも、同時期(1943.11.25)に書かれた遺書「私の良き妻久子へ」には、「私の魂はお前の傍に帰って常にお前達の幸福を守るでせう。否むしろお前達の心の中に入っていくでせう」と締めくくっている。

 L・Fさんの証言と「青壮日記」の落差はもちろん、「遺言状」と「青壮日記」の落差も私には理解できない。妻には貞淑を求め、自らには性的奔放を容認している。戦前の男女間にはこのようないびつな関係が支配し、軍として女性を連行し、慰安所に監禁し、強姦をほしいままにしていたのだ。いずれの女性にとっても、耐えがたい時代だったのだ。そして現在も引き続きこの価値観を継承しようという勢力(橋下徹など)が存在する。「慰安婦」問題が過去の問題ではなく、優れて現在の問題であることを示している。

「(解説)フェミニスト岡田慶治」(田中秀雄)について

 田中は<将校倶楽部においても、女性側の気持ちを尊重し、女性がその気になれば性行為も可能であるとされていた(251p)>と書いているが、他方では、<女性たちにも問題がある。どういう仕事かわかっていても、実際その場になるといやだとなる者も少なくなかった(259p)>とも書いている。「女性の尊重」は設置時の建て前であり、その場で「いやだ」と言って、拒否する女性を「問題がある」と非難しているのである。

 田中は<本書を読めば、徐々に道子(L・Fさん)が岡田を好きになる過程もほの見えてくる。他の女性たちも日本軍人たちと楽しく過ごしていた(251p)>と書いているが、<斯かる際に抵抗するのは虐待されるだけで無駄だと云ふ話を聞いていた>女性たちにとって、銃とサーベルで武装した将校に抵抗する手立てがあっただろうか。ストックホルム症候群を発症していたか、やむなく、自らを偽り「疑似恋愛」につきあうしかなかったのではないか。

 田中は<将校倶楽部の女性たちは結局美味しいものを食べられ、…満足していたのだろう(259p)>と、抑留所の飢餓状態(日本軍の占領政策に責任あり)よりもましだから、性奴隷を甘受せよという非人間的な結論に導くのである。

 田中は<岡田がそう(岡田は自分が全責任を負うから心配無用)言ったとは手記から信じられないし、強制的に「婦女を選出すべく命」じたというのも嘘である。女性たちが泣いているのを知れば、岡田は直ちに必要な措置を講じるはずだ。女性たちが岡田を嫌っていたというのも、手記を読めば信じられない(254p)>と書いている。田中は自らを「日本近代史研究家」と称しているが、自己弁護のための「青壮日記」を基準にして、L・Fさんら被害女性たちをウソつきと断じ、都合の悪い証言を否定しているだけである。

 田中は<日本軍は手違いを放置したのではない。手違いがあって、それを矯正したのである(259p)>とも書いている。「手違い」とは何か? 将校倶楽部などの慰安所を設置したことならば、それは「手違い」ではなく、中曽根康弘も書いているように、日本軍の行く先々で起きる現地住民にたいする強姦対策として「慰安所」を設置したのである。
 第16軍司令部が慰安所を「閉鎖」したのは、交戦国オランダとの関係上まずいと判断したからであり、決して自主的、自律的な「閉鎖」ではなかった。なぜならスマラン慰安所設置に許可を与えたのは第16軍司令部だからである。

 田中は、須磨筆耕資料の松浦攻次郎の供述調書(1962年)から、<岡田少佐の命令を受けて要員の選考にあたったのは石田英一大尉で、岡田少佐からは厳重に希望者に限る旨の注意を受けて引き取りに行っている。(省略)選考に際して希望者を確かめず、また趣旨を徹底させなかったことは石田大尉の重大な過失であった(255p)>という証言を引用して、岡田には責任はなく、石田にあると主張している。

 ところで、田中は松浦証言の非常に重要な部分を省略している。そこには、<多くは良家の子女で、レストランでも働く位で、出てきた者>と書かれており、欺罔して、軍隊「慰安婦」を強制したという事実を伏せている。本当に悪質な、恣意的な資料操作である。

 田中は大久保朝雄の遺書から、<責任は司令部にあり、岡田にのみ責任を負わせるのは不当である(257p)>という好都合な部分を引用して、岡田の罪を軽くしようとしているが、その直前には、<岡田少佐の言動強情に過ぎたると云ふも之亦能崎少将の意向により、又岡田少佐の性格上も亦反影し、迅速に目的を達する如く行はれたる>と、岡田が司令部(能崎少将)の慰安所設置方針を強引に進めたことが伺われる。

 ここで、田中は岡田の量刑(死刑)の不当性を主張をしているようだが、田中の執筆目的は量刑への異議ではなく、スマラン慰安所事件そのものの否定にある。

 田中はスマラン倶楽部に配属されたGMvdH嬢の証言中、<集められたホテルには「札付きの女ばかりがいた」。…8名の女性の実名を上げている(259p)>という部分を恣意的に引用しているが、GMvdH嬢は<私と同じ運命にあった婦人達は次の通りである>と、海軍士官夫人、教師の娘、教師の娘、蘭印軍下士官の娘、教師の娘、絵具工場主の娘、ボルスミ軍士官の娘、裁断師洋装店主、母は映画館所有、警官の娘など20人の実名を上げている。このように田中は前後関係を無視して、あたかも「慰安婦」にされた女性が「プロの女性」たちばかりだったかのようなイメージ操作をおこなっている。たとえ、貧窮から希望したとしても、慰安所に監禁して性奴隷にした日本軍の責任は免れない。

 しかし、少し長いがGMvdH嬢の証言(1944.10.22)を再現すれば、そこには欺罔による連行があり、恐怖に震える女性がおり、暴力による強姦があり、監禁があり、抵抗があり、逃亡未遂があり、自殺未遂がある。

 <私はアンバラワの第四キャンプに抑留されていた。44年2月25日我々年齢18歳-26歳迄の婦人は急に事務所へ呼び出された。年齢に依る呼び出しが不思議であったが、…行って見ると名前、家族等のことを聞かれて、帰された。…翌日、此の名簿にある者は出発準備をせよと云った。我々は何が何だかさっぱり判らぬ中に兎に角鞄を纏めた。既にバスは待ってをり、之に乗って第一キャンプへ廻り、此処でも又一群の娘達を乗せ、ハルマヘラキャンプへ向った。日本人はスマランへ行くと云ったきり、それ以上は何も説明をしなかった。>

 <やがてホテル・スプレンデッドへ着いたが、此処で始めて我々は若干の不安を感じ始めた。何となれば、そこには既に札つきの女ばかりが居たからであった。…翌朝そのメナド人は我々に皆別の一室に入って住むやうに言ったが、われわれは漸く運命が判って来たので之を断った。即ち前の晩我々の中の一名が屋内を見廻り検査室や予防具のあるのを発見した。即ち我々は今や慰安所に入られたことが判ったのである。>

 <然し、拒んでも甲斐なく我々は殴られたり、突かれたりして、皆各部屋に入れられて終った。私は神経が昂ぶりヒステリー症状を呈し、膝がガタガタふるへて、歩行が出来なかった。然し、之も何の容赦もされず、遂に私の番が来て、出来るだけ抵抗したが、終に力つきて、強姦されて終った。>

 <ある時2名の娘が逃亡を企てたが、数時間後には憲兵に連れて帰された。我々はこのホテルで、日中一杯と夜の一部を働かせ続けられた。…ある一人の娘はキニーネを多量に飲んで、自殺を図った。然し、彼女は聾(ママ)になっただけで済んだ。又M・K夫人は半分気狂(ママ)になってアンバラワキャンプへ帰された。>

 田中は<岡田は力で以て女性を征服しなければならないほど、女性に不自由していなかった(251p)>と書いているが、現代に生きる田中にとっても女性は性欲のはけ口でしかないのだろうか。L・Fさんによれば、<岡田は略々定期的に1週間に1、2日度私の処に通って>おり、岡田は戦地にあって、軍幹部の地位を利用して、買春にいそしんでいたのである。

 田中は<この(大久保朝雄)の遺書を土台に、岡田全責任論が作り上げられた(257p)>と書いているが、大久保の遺書は1947年1月付であり、スマラン性奴隷事件の調査は1945年秋にはすでに始まっている。

 被害者GMvdHさんは1945年10月22日、JAO'Hさんは1946年1月10日、JB夫人は5月16日に証言している。また4月3日には、ムンチランキャンプの看護婦・NTEさんが<サーベルで婦人達(抑留者)を追払ひ、その後巡査達が婦人と娘達を連れて行って了った>と証言している。9月9日には、俘虜収容所本部付大尉・小林巌は小田島薫大佐の巡視と慰安所閉鎖のいきさつについて証言している。

 大久保の遺書がジャカルタに届く(1947年1月以降)までにはスマラン性奴隷事件の全容がほぼ明らかになっており、田中の「大久保の遺書を土台に岡田責任論」には現実性はない。大久保の遺書は被害者や関係者の証言を補強し、スマラン事件の全体像を明らかにしているのである。田中の論は木を見て森を見ざるの観がある。
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