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アジアと小松

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小松基地問題研究会

インドネシアにおける「女狩り」について

2016年09月26日 | 日本軍性暴力関係原資料
インドネシアにおける「女狩り」について

 『菓子と兵隊』(石川県立図書館蔵)と「北陸中日新聞」に掲載された投書「知事厳しい顔 戦時中を連想」を読んだ。

 『菓子と兵隊』で、Aさんの経歴を見ると、1924(T13)年、石川県内灘村に生まれた。金沢に転居し、1938(S13)年に金沢市内の尋常高等小学校を卒業し、菓子店に就職した。

 1941(S16)年、18歳の時に国民徴用令で名古屋陸軍造兵廠に送られ、熱田製造所第4工場で曲射砲の荒削りの作業に従事した。陸軍造兵廠技能者養成所に入所し、1943(S18)年7月に海軍に志願し合格した(19歳)。1944(S19)年5月に海軍電測学校普通科練習生となり、12月に卒業し、ジャワ第3補充部行きを命令された。

 1945(S20)年1月(20歳)、呉軍港を出発し、3月にシンガポールに到着し、4月スラバヤ郊外の「シ○6」海軍見張り所に配属された。6月から第4号駆潜艇に乗船し、8月13日にセレベス島へ向かう途中で触雷沈没し、大けがを負ったが、地元住民に助けられ、ダモイ海軍病院に入院した。

 8月15日、敗戦を迎えジャワ山中のブジョン海軍病院に移り、1946(S21)年4月、レンバン島経由で、宇品に帰還した(22歳)。

「女狩り」について
 Aさんは2016年6月9日付「北陸中日新聞」に「知事厳しい顔 戦時中を連想」を投書している。『菓子と兵隊』にはもう少し詳しく書かれている。

<以下引用(276P~)>
 二十年の四月に私たち八名の兵隊は、シ〇六より派遣されて、マドラ島へ新しい見張所を造る下見のため出向した。日本の佐渡が島の半分ぐらいの山中で、昼の一時間の休憩時間を利用して、四国のY兵長と二人して、のみすぼらしい人家へ入ってみた。

 ジャワは治安の非常に良い所であり、日本軍に好意を持っている国情であったから、我々はそのとき、武装していなかったのである。二人の入って来たのを見て、彼ら四、五人の男女が必至になって、なにか急に、たきざのような物を奥まった所へ積み上げているのである。最初は彼等のオドオドして恐れていることの意味が不明だったが、その理由がすぐ判明した。

 たきざの下に、かすかに若い女の子がいることに気付いたからである。占領している軍人と占領されている住民の立場が異なると、こんなにむずかしいものだと、はじめて気付いた。若い女の子を欲して来たのだと感違いしたらしい。他人の家へ勝手に入ってと反省しつつ、私と兵長は下手なインドネシャ語と手ぶりで、そんなことでないことを説明して、彼等の好物のタバコを皆、渡して頭を何度も下げて飛び出て来たのであった。

中曽根の自慢話
 インドネシアでも、日本軍による現地住民にたいする強かん事件は「女狩り」と呼ばれ、住民から非常に恐れられていた。インドネシアの海軍設営部隊の主計長であった中曽根康弘の手記『終りなき海軍』にも、「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある」と書かれている。

 すなわち、インドネシアでは、現地住民にたいする「女狩り」(強かん)が常態化しており、家の中に入ってきた日本軍(Aさんたち)を見て、住民が若い女性を隠しており、その様子を見て、Aさんはピンときたのである。自分達は「女狩りに来た」と思われていると。それほど「女狩り」(強かん)が日常化していたことを物語っている。

Aさんの言いたいことは
 『菓子と兵隊』では、自分が参加した戦争をそれほど否定的には書いていないが、ところどころに無謀な戦争にたいするうめき声が伝わってくる。いくつかピックアップしておこう。

(249P) 「敵があれほど打たれつつも、次から次へと送るこの大部隊を見るとき、米国の根強い反攻は、決して軽視出来ぬと思う。ちょうど、大東亜会議の翌日、代表者はこの発表をなんと読み、どう考えるのだろうか」(1943年11月6日の「日記」)

(307P) 「戦争中、私をはじめ多くの日本人が、皆さんに大変お苦しみを与え、本当に申し訳ありませんでした」(1993年訪中時の中国人家庭での挨拶)

(308P) 「日本人のどこかに我々が彼ら(中国人)より上であるかのような錯覚を持っている人々がいるのではないだろうか」と、排外主義を戒めている記載がある。

(330P) 憲兵について、1943年に靖国神社を参拝したときのことを書いている。「日本陸軍とくに憲兵は世界の人々に恐れられたこわい存在であったかもしれない。人を引っ張っておいて、『よしわかったご苦労がんばれよ』とも言えないものだろうか! 人の心を理解しようと努めない、おぞましい集団であった」

(332P) 最後に、「軍隊とやくざ」の項をそのまま引用しておこう。
 安部譲二さんの「塀の中…」という本が、次々と売れている。彼は文才もあり、マスコミにたいへん人気者になっている。毎日のようにテレビや新聞に、やくざの事件が出ない日がないといっても過言ではない。

 私は赤丸湯へ時々行くが、この近くに、こうした方々が多いらしく、湯つぼの中に、身体にはった実に立派な図を見ることがある。ある日せまい浴槽の中で、五人の内、私以外の四人全部がこの方々で、頭は丸坊主、男の急所以外は全身、美人、龍、桜のすぼらしい絵姿だったが、あまり近すぎて目のやり場に困って早々と引き上げて来たことがある。

 私が昔勤務した軍隊と今のやくざの世界が、あまりにも共通点の多いのに驚いている。
一、今ほとんどの人々が、この種の人たちがいなければ、日本の町が平穏で住み良くなると思っているし、昔世界の特に「アジア」の多くの人々は、日本の軍隊がいなかったら、平和で安住できると思っただろう。そうしてこの両者は、どんなにたたかれても、一時的に強弱があっても、絶対になくならない物体である。

二、この両組織は、縄張り意識が強く、いつでも戦える準備をし、そのための武器をかくすことが好きである。上から下への命令が実に見事に徹底されていて、親兄弟よりも「きずな」が強いのである。たとえ相手が攻めてこなくとも、その恐れがあるというだけでも、先手必勝を考えて実行する種族である。万一刑務所へ出入りしたり、戦死したりすると、親族の悲しみも考えずに盛大にむかえ、一、二階級上げて箔をつける。

三、面白いことにこの両方は上の方々は立派な外車や服装をし、陸軍の場合、佐官は赤旗、将官は黄旗の軍用車で食事も給料もいいのであるが、下は貧しい服装をし、無給に近く食事もそまつで、朝早くから働き通しである。それでも不公平とも、おかしいとも思わない動物である。そして他をなぐることも平気で、口より先に手や物がとんで来る。必ず上が下を一方通行になぐるのである。上の命令で下が命を捨てることも平気なのである。上が下のために命を捨てることはまずない。

四、身体や軍服に入れずみを入れることがたいへん好きな人種である。その好む絵柄までそっくりである、海軍の場合は、「八重桜」や「いかり」が必ずつけられる。
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