同名の表題エントリー拙稿に対して、ご当人さんから二つのコメントが付けられています。これへの批判も追加します。『 』は、彼の文章。
①『ヴァイツゼッカー(1985年)「罪の有無、老幼いずれかを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされているのであります」といった言葉を評価する人間もいるが、この発言は単なる一般論であり、演説内では「ヒトラーのポーランド進駐」という表現を使い、「ドイツの侵略」とは言っていない。』
前にも僕が述べたことが理解できないのでしょうか。改めて言うがこういうこと。
「軍部、特に東條一派など陸軍が原動力になって天皇を動かし、アジア・太平洋侵略戦争をやった」から特に重い罪があるということが一つ。また「これと同時に」、以下も別の問題として十分に言いうることである。「罪の有無、老幼いずれかを問わず、われわれ(日本人)全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされているのであります」
後者を解説さんが「一般論」などと語っているのがおかしいと思う。後者のこの文章に「罪の有無」という言葉が入っていることにご留意願いたいもの。東條らは罪が重い戦犯だが、一般人は戦犯としては罪はないという違いを表しているのでしょう。その上でこの文章は、一般人の責任をも語っているわけです。ドイツという国全体が他国に対して後々まで責任を負わされているということを。日本国が他国に認めた過ち、その責任というものは、後世の国民も負うという意味なのでしょう。そうでなければ、その国は信用ならぬということでもありましょうか。先代の借金は知らないなどという会社は信用ならぬということです。
②『 またユダヤ人の虐殺については、「この犯罪は少数の者の手によって行われました。世間の目から遮られていたのです」と、一般のドイツ人は知らなかったことだと述べているが、(中略)』
事実知らされていなかったのだし、知った人がいてもどうしようもなかったのは、小林多喜二が逮捕後あっという間に殺されてもどうしようもなかった日本と同じことでしょう。また、ワイツゼッカーの父のことは、ワイツゼッカーとは無関係です。封建時代の家父長の罪・お家断絶じゃあるまいし、家族のことなど持ってくるなと言いたいですね。
③『「5月8日は解放の日でした。ナチズムの暴力支配という人間蔑視の体制から、あの日はわれわれすべてを解放したのです」とし、またナチ体制が多くの国民を虐げたことを認めつつ、「苦しめられ、虐げられ、辱しめられた最後にもう一つありました。私たちドイツ国民です」とドイツ人をも被害者の側に置くなど、実際にはそれまでのドイツ政府の見解との差違はあまり見受けられない。』
これも①で述べた「区別」が理解できていない文章だと思います。何度でも言いますが、当時の権力者たち、戦犯の責任は重い。これに対して、国民の責任は遙かに軽いし、権力者たちから被害を受けた存在ということも十分に可能です。ただ、その責任が遙かに軽くとも、戦後の日独国民全員が「過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされているのであります」というわけでしょう。
戦犯の罪を軽くするような1億総懺悔論が誤りで、それでもあの戦争を起こした責任を「罪の有無、老幼いずれかを問わず」国民が後々まで負わねばならないと書いてある通りです。
①『ヴァイツゼッカー(1985年)「罪の有無、老幼いずれかを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされているのであります」といった言葉を評価する人間もいるが、この発言は単なる一般論であり、演説内では「ヒトラーのポーランド進駐」という表現を使い、「ドイツの侵略」とは言っていない。』
前にも僕が述べたことが理解できないのでしょうか。改めて言うがこういうこと。
「軍部、特に東條一派など陸軍が原動力になって天皇を動かし、アジア・太平洋侵略戦争をやった」から特に重い罪があるということが一つ。また「これと同時に」、以下も別の問題として十分に言いうることである。「罪の有無、老幼いずれかを問わず、われわれ(日本人)全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされているのであります」
後者を解説さんが「一般論」などと語っているのがおかしいと思う。後者のこの文章に「罪の有無」という言葉が入っていることにご留意願いたいもの。東條らは罪が重い戦犯だが、一般人は戦犯としては罪はないという違いを表しているのでしょう。その上でこの文章は、一般人の責任をも語っているわけです。ドイツという国全体が他国に対して後々まで責任を負わされているということを。日本国が他国に認めた過ち、その責任というものは、後世の国民も負うという意味なのでしょう。そうでなければ、その国は信用ならぬということでもありましょうか。先代の借金は知らないなどという会社は信用ならぬということです。
②『 またユダヤ人の虐殺については、「この犯罪は少数の者の手によって行われました。世間の目から遮られていたのです」と、一般のドイツ人は知らなかったことだと述べているが、(中略)』
事実知らされていなかったのだし、知った人がいてもどうしようもなかったのは、小林多喜二が逮捕後あっという間に殺されてもどうしようもなかった日本と同じことでしょう。また、ワイツゼッカーの父のことは、ワイツゼッカーとは無関係です。封建時代の家父長の罪・お家断絶じゃあるまいし、家族のことなど持ってくるなと言いたいですね。
③『「5月8日は解放の日でした。ナチズムの暴力支配という人間蔑視の体制から、あの日はわれわれすべてを解放したのです」とし、またナチ体制が多くの国民を虐げたことを認めつつ、「苦しめられ、虐げられ、辱しめられた最後にもう一つありました。私たちドイツ国民です」とドイツ人をも被害者の側に置くなど、実際にはそれまでのドイツ政府の見解との差違はあまり見受けられない。』
これも①で述べた「区別」が理解できていない文章だと思います。何度でも言いますが、当時の権力者たち、戦犯の責任は重い。これに対して、国民の責任は遙かに軽いし、権力者たちから被害を受けた存在ということも十分に可能です。ただ、その責任が遙かに軽くとも、戦後の日独国民全員が「過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされているのであります」というわけでしょう。
戦犯の罪を軽くするような1億総懺悔論が誤りで、それでもあの戦争を起こした責任を「罪の有無、老幼いずれかを問わず」国民が後々まで負わねばならないと書いてある通りです。
①重大戦犯ら戦争を主導した当時の権力者たち。
②これを支持した当時の大人たち。これは、罪の度合いにそれぞれの重さがある。
③①②が他国に成した国家的犯罪の責任というものを、我々後の人々が他国に対して引き継いでいくべき
ということ。
重ねて有り難うございました。
巨大な世界史的事件に対して、これと向かい合い、きちんと職責を果たそうと務めた国家元首の文章って極めて豊富な内容を持っていて、僕ら素人では読み込むのがなかなか難しいものと思います。
例えば、同じ罪、責任でも、こういう一般教養(を思い出すこと)が必要だろう。まず、犯罪(的責任)と賠償(損失を償う責任)、道義的責任。
自動車事故などでも、刑事、民事、道義と三つの関門があるはずだ。刑事は司法。民事は当人同士でだめなら民事裁判で。道義的責任があるからこそ、加害者は被害者を懸命にお見舞いしないとならない。加害者が気分を害すると、民事が揉めるものである。つまり、「こんな大金を賠償したのだから、文句なかろう」などは、ヤクザの言い分と言われよう。
このなかの道義の大切さで一言。日本人が、約束や時間を守るとか、凶悪犯罪が少なく安全だとか言われてきたのは道義が高い民族だからだろう。「法に引っかからなければ良い」という最低線からは、最も遠い民族だった。つまり、刑事や賠償の話だけをするのではなく、道義の話をするのが日本人らしいということだろう。ワイツゼッカー文章もそう読むべきなのだろう。だからこそ、中朝に対する最近の右の方々の論調は嘆かわしいと思う。
さらには、国家の責任は後世に引き継がれるということも知っているべきだろう。誰かさんのように「孫かひ孫の世代である今の子どもは何も知らんのだから」というわけにも行かないのである。「先代社長の借金だから、俺は知らんよ」などという会社は、すぐに潰れる理屈だ。つまり、国家として全く信用されなくなる。
ここを訪れることが多い右の方々に、こういった当たり前のことを、僕はどれだけ話さねばならなかったか。でもまー、そういう人々も堂々とものを語れるようになったという時代は、すばらしい。だけど、ものを知らぬ人が複雑な対象に言及すれば、すぐにばれて反論を喰らう理屈だ。ということも、少しは抑えて欲しい。
と、またしても思った次第である。
もっとも、こういう人々は初めからけんか腰なのだろう。けんか腰ということは「倒すしかない」と向かってきたこと、「相手を人とは思っていない」という扱いにも繋がるはずだ。ということは、会話も罵倒でしかないということだろう。「問答無用!」と思いつつ、コメントを書いてくるって、「黙れ!」というにも等しく、実に嘆かわしいこと、世の中である。
そう言えば、戦前がこうだった。「非国民」と相手に告げれば「問答無用」ということ、会話は不要なのである。というこの「全体主義」的態度は、人として最低のものだというのがこれまた、道義の基礎中の基礎のはずだ。
彼は過去には目を閉ざすことはせずとも、自分の中にある権力志向や支配欲には目を閉ざしている(文科系氏もだ)。あの演説を称賛した人は、人間の歴史や人間の心の奥深さ、集団や組織の怖さなどにつき、ちょっと思慮が足りないのではないかと思われる。
差違は、どちらかというと差異の方が正解?
一言は、これについて。
「自分の中にある権力志向や支配欲には」。
人間の内面のことを何か一言で表すのは至難のはず。権力欲、支配欲と、決まりきった内容があって、それが分かったような積もりになっているのは実に滑稽である。
哲学者ニーチェの著作全部の中でも、「権力(への意志)」といえば、最も重要な難物概念の一つと言うほどなのにね。
たとえば、こういうものとどう境界を付けるのか。他人に愛され、尊敬されたいと思う感情。そのために努力する青年。僕は、これが非常に強い人間であって、それが前者に近くなる事もあり得ると、若い頃から悩んできた。つまり、君にこんな事を断定される必要もないほどに、そうしてきた。
「目を閉ざしている(文科系氏もだ)」
そういう人間に対しては、これは実に安易な言葉になる。その内容をどれだけ考え抜き、どれほど理解して話しているのかどうか。例えば、次のこともそういう理解の一つだろう。
人間内面のことは裁けないし、第一とらえどころがないはずで、それが行動となってでているかどうかが全てのはずである。「俺は彼女を本当に愛しているか?」って、まず簡単には答えは出ない。彼女への行為をずーっと数えあげていけば、次第に分かってくるのと同じ事だ。
権力や支配が、不正行為とか他人の蹂躙行為にはっきりと繋がった時に大問題になるのであって、志向や欲などは裁けるわけがないものだ。僕は、そういう行為という意味では最小限度の人間として暮らしてきた積もりである。
この名無し君。実に難しく、重い言葉を、実に軽く分かったような口を利いたもんだと思うよ。例えば、次のことをどう理解するの?
禁煙と書いてある場所でタバコを取り出しても罪にはならない。口にくわえてさえ、両手でマッチを擦ったって、そうだ。火を付けて煙を吸い、吐き出した時に、初めて「ご用」となる。つまり、心の中の「つもり」は道義的「罪」にはなりえても、裁判では問えないのね。社会的に真に問題になるのが行動だとよく分かる例のつもりである。内心では、他人に害を与えることはできないだけでなく、その君の言う「支配欲」という内心」が存在するか否かすら分からないからである。
天皇こそ、対米戦争、したがって真珠湾奇襲攻撃を、最終的に決断した統治者である。そして、降伏受け入れを延ばして、沖縄を犠牲にし、広島・長崎を招いた。その天皇自身が、戦犯を逃れるためにどれだけの行動を取ったか。この結果こそ、東條の絞首刑(主として対米戦争の側面)や、近衛文麿(主として、対中国戦争の側面)戦犯容疑召還当日服毒死やなのである。まー、張本人を除くための身代わり死と言える。
権力欲か支配欲かは知らぬが、ヴァイツゼッカーの言葉と、昭和天皇はもちろん東條らの言動自身を振り返るアベの言動などとは、比べものにならぬと思うが、どうかな。
ヴァイツゼッカーにこんないい加減な難癖を付ける隠れた動機が不純に思えるからこそ、これを書きたかった。ナチスへの反省と比べて、日本右翼や安倍政権は天皇、東条政権などへの反省が薄すぎるという批判がよくなされてきた。これが気にくわない輩がこのようにドイツの反省とヴァイツゼッカーの言葉とを汚したくて仕方ないのだろう。そして、どこかのいーかげんな学者が言いだしたことなのだろう。
『自分の中にある権力志向や支配欲には目を閉ざしている』
誰にでも使えるようないーかげんな批判言葉だと思う。