勉強家で、筋が通ったことを語られるという意味で敬愛しているあんころもちさんから、こういうご質問を受けた。左翼とはなんぞや、と。僕が自分の政治思想の形容にこの言葉を使うからであって、お答えしないわけにはいかないと思い立ち、ちょっといろいろ読み、あれこれと考えてみた。意外に奥が深く、重要問題も含んでいると分かったから、書くべきことの細かい目次など作りながら。以下は、答えというにはお恥ずかしく、周辺問題を多少整理した程度のものだが、お読み願えれば嬉しい。
なお、左翼という言葉を改めて調べてみたからと言って、今後この言葉をここで使うかどうかは別の問題だと気づいた。時代とともに理解しにくくなった言葉を使うのは、控えた方が良いのかも知れない。
1 左翼を巡る、語源、広義、狭義
どの辞書にも上の三つはほぼ書いてある。
語源は、フランス革命の議長席から見て左側に急進派のジャコバン党が席を占めていたこと。
そこから出た狭義が、急進的な社会主義、共産主義というものから、同じく急進的な無政府主義や自由主義さえも入るようだ。そして広義として「進歩主義」一般が上げられているものもあった。
なお、語源がフランス革命時代のものである以上、マルクス主義(的歴史観)との対比から導き出される定義よりももっと広く構えて解明に臨んだ方が良いのだろう。現に今は、この語が社会民主主義にも適用されていることは明らかだし。社会民主主義とはまた、このように定義されるようだ。議会を通じて漸進的に社会改良を、富の再配分を通じた平等を図ろうとするもの、と。新自由主義の暴力が横行する社会、世界では、「富の再配分を通じた平等」の意味はこの上なく大きくなっている。
2 政治理念・目標と、その実現手段の問題
1から、左翼という言葉には、二つの側面があることが分かる。一つは、「急」という側面、今ひとつが「進歩」という側面。そして、人が政治理念とか目標を持つ以上、それを「原理」的につまり長期的・多面的に語ろうと、短期的・局面的に語ろうと、その人にとっての政治の前進と後退が存在するのは明らかだろう。その場合、原理的確信が強いと急進的になりやすく、改良主義という言葉はまたいつしか「政治の前後進をも見えなくする」などと、二つの難関、問題点が存在するから、ことが難しくなる。
そこで問題は、こういうことだろう。多くの諸個人に政治の前進後退観がある以上、多数人民にとっての「歴史の進歩」はあるのであって、問題はその「進歩」の中身、その明確化ではないか。過去の社会主義が民主主義を掲げながら人々を手段のように使い、無数に圧殺した(又、現にそうしてもいる)歴史を持つだけに、「進歩」の中身が難しくなっている時代なのだろう。ただ、「人間歴史の進歩」なんて、いつでもどこでも難しかったはずだ。
意識を持っているから未来を目指すが、未来は常に未体験ゾーンであって、試行錯誤が人の常なのだ。だからと言って、「人類史の進歩」なんてナンセンスということにはならないと思う。それは、「個人が明日を目指して努力するのはナンセンス」ということにはならないのと、単なる比喩や類推ではなく、同じことではないか。明日を目指して勉学に励んでいる青少年に「そんなの進歩主義だ」とは、誰も言わないはずだが、何故社会に向けてはこんな言葉が存在するのだろうか。原子力村の学者のように、実質支配者側に立つ学者たちの「諦めに導く目くらまし」という意味でのイデオロギーの一つだと言いたい。国家社会での出世を目指す学者などは、左翼的な言葉をこの地上からかき消すことをその使命の一つともしているのだ。特に左翼的なものの考え方、考える方法に関わるような概念の抹消に努めているのではないか。
3 世界金融資本の「無政府的暴力」に抗して
マルクス主義の、資本による人間圧殺分析の核心部分は、今でも正しいと僕は考えている。慢性的不景気、恐慌状態は恒常的に存在しても、目に見えた恐慌という国家の危機にはならないような「危機管理」がちょっと進んだだけのことなのだ、とも。現に、冷戦終結前後から野放しになってきた新自由主義経済が、一方で先進国に1割もの慢性的失業者を生み出しつつ、他方で莫大なマネーゲームに明け暮れ、その損失までを国家に穴埋めさせる時代になっているというのがその根拠だ。このように暴力的かつ無政府的なように理不尽なことを続けることができているのは、これらの根本的原因が国内だけに存在するのではなくって、世界的解決によるしかないことにあるのではないかとも観ている。
ちなみに、この世界的解決という未体験ゾーンにも、人類は既に似た体験、実践を持っている。第一次世界大戦の総力戦悲劇を反省して以降、戦争違法化の流れ、国際法が急速に進んだことだ。有色人種も女性も同じように大切な命だという考え方が、かけ声だけではなく法的、実質的に広がってきたことと平行しながら。民主主義的国際経済も、同じような歴史必然的な流れだと思う。ただ、こういう流れは今は見えにくい。歴史には常に後退の時期もあるのであって、今はそういう時期だからだろう。後退の時期には、前進は見えにくいということだ。後退時期の現実に規定された短期的視野ではなく、数十年もの長い視野が必要だからではないだろうか。それはほとんど、学者の領域に近くなるということだ。学者の領域の視野は、各専門学者の労作自身を読むことによってしか得られないだろう。
なお、左翼という言葉を改めて調べてみたからと言って、今後この言葉をここで使うかどうかは別の問題だと気づいた。時代とともに理解しにくくなった言葉を使うのは、控えた方が良いのかも知れない。
1 左翼を巡る、語源、広義、狭義
どの辞書にも上の三つはほぼ書いてある。
語源は、フランス革命の議長席から見て左側に急進派のジャコバン党が席を占めていたこと。
そこから出た狭義が、急進的な社会主義、共産主義というものから、同じく急進的な無政府主義や自由主義さえも入るようだ。そして広義として「進歩主義」一般が上げられているものもあった。
なお、語源がフランス革命時代のものである以上、マルクス主義(的歴史観)との対比から導き出される定義よりももっと広く構えて解明に臨んだ方が良いのだろう。現に今は、この語が社会民主主義にも適用されていることは明らかだし。社会民主主義とはまた、このように定義されるようだ。議会を通じて漸進的に社会改良を、富の再配分を通じた平等を図ろうとするもの、と。新自由主義の暴力が横行する社会、世界では、「富の再配分を通じた平等」の意味はこの上なく大きくなっている。
2 政治理念・目標と、その実現手段の問題
1から、左翼という言葉には、二つの側面があることが分かる。一つは、「急」という側面、今ひとつが「進歩」という側面。そして、人が政治理念とか目標を持つ以上、それを「原理」的につまり長期的・多面的に語ろうと、短期的・局面的に語ろうと、その人にとっての政治の前進と後退が存在するのは明らかだろう。その場合、原理的確信が強いと急進的になりやすく、改良主義という言葉はまたいつしか「政治の前後進をも見えなくする」などと、二つの難関、問題点が存在するから、ことが難しくなる。
そこで問題は、こういうことだろう。多くの諸個人に政治の前進後退観がある以上、多数人民にとっての「歴史の進歩」はあるのであって、問題はその「進歩」の中身、その明確化ではないか。過去の社会主義が民主主義を掲げながら人々を手段のように使い、無数に圧殺した(又、現にそうしてもいる)歴史を持つだけに、「進歩」の中身が難しくなっている時代なのだろう。ただ、「人間歴史の進歩」なんて、いつでもどこでも難しかったはずだ。
意識を持っているから未来を目指すが、未来は常に未体験ゾーンであって、試行錯誤が人の常なのだ。だからと言って、「人類史の進歩」なんてナンセンスということにはならないと思う。それは、「個人が明日を目指して努力するのはナンセンス」ということにはならないのと、単なる比喩や類推ではなく、同じことではないか。明日を目指して勉学に励んでいる青少年に「そんなの進歩主義だ」とは、誰も言わないはずだが、何故社会に向けてはこんな言葉が存在するのだろうか。原子力村の学者のように、実質支配者側に立つ学者たちの「諦めに導く目くらまし」という意味でのイデオロギーの一つだと言いたい。国家社会での出世を目指す学者などは、左翼的な言葉をこの地上からかき消すことをその使命の一つともしているのだ。特に左翼的なものの考え方、考える方法に関わるような概念の抹消に努めているのではないか。
3 世界金融資本の「無政府的暴力」に抗して
マルクス主義の、資本による人間圧殺分析の核心部分は、今でも正しいと僕は考えている。慢性的不景気、恐慌状態は恒常的に存在しても、目に見えた恐慌という国家の危機にはならないような「危機管理」がちょっと進んだだけのことなのだ、とも。現に、冷戦終結前後から野放しになってきた新自由主義経済が、一方で先進国に1割もの慢性的失業者を生み出しつつ、他方で莫大なマネーゲームに明け暮れ、その損失までを国家に穴埋めさせる時代になっているというのがその根拠だ。このように暴力的かつ無政府的なように理不尽なことを続けることができているのは、これらの根本的原因が国内だけに存在するのではなくって、世界的解決によるしかないことにあるのではないかとも観ている。
ちなみに、この世界的解決という未体験ゾーンにも、人類は既に似た体験、実践を持っている。第一次世界大戦の総力戦悲劇を反省して以降、戦争違法化の流れ、国際法が急速に進んだことだ。有色人種も女性も同じように大切な命だという考え方が、かけ声だけではなく法的、実質的に広がってきたことと平行しながら。民主主義的国際経済も、同じような歴史必然的な流れだと思う。ただ、こういう流れは今は見えにくい。歴史には常に後退の時期もあるのであって、今はそういう時期だからだろう。後退の時期には、前進は見えにくいということだ。後退時期の現実に規定された短期的視野ではなく、数十年もの長い視野が必要だからではないだろうか。それはほとんど、学者の領域に近くなるということだ。学者の領域の視野は、各専門学者の労作自身を読むことによってしか得られないだろう。
ああ、なるほど。“第一次世界大戦”に“大きな評価”を与えておられるわけですね(そこが私と文科系氏の違いです)。
〈第一次世界大戦の総力戦悲劇を反省して以降、戦争違法下の流れ、国際法が急速に進んだことだ。有色人種も女性も同じように大切な命だという考え方が、かけ声だけではなく法的、実質的に広がってきた〉――欧州の人々が、近代兵器を用いた総力戦での死者の多さに畏れおののいたのは確かなことでしょう。しかし、そのほんの少し前までは「帝国主義は正義(=欧州文明・キリスト教の勝利)」「戦争・侵略もかなりの部分まで合法」だったわけです。そのルールを変えれば、既に植民地を持っている国にとって有利ですよね?
日本の時系列でいうと――世界的にも同じようなものでしょうが――室町江戸と比べれば、明治大正のほうが女性の地位向上・権利拡大は遥かに進捗したでしょうし、インドにおけるガンジーの動きも、アメリカにおける黒人解放運動も急速に進んだのはどう考えても“第二次世界大戦のあと”ですよね?
なぜなら教義(狭義)と司令塔の上に成り立つ左翼・右翼両者は、それ故に自滅し、それに取って代わったのは「保守」と「改革」。
言うなれば、〈新語の採録に慎重で、規範的な日本語をリードする保守的〉な『岩波国語辞典』か、
それとも〈日常生活における使用を重点としての改革的〉な『新明解』か。
しかし、今やロシアでの「保守」は共産党を指し、欧州ではそれを一つにした「欧州保守改革同盟」が生まれ、訳が判らなくなりました。
そこで今、小生が求めているもの、
それはシングルイッシューによる分散型・サテライト型の運動で、
そこから生まれてくるのは、「原発をどうするか」の一点で、結びつき、向き合う運動!
。
電力で最も大切なのは「安定供給」ですが、メガソーラーなどはほとんどそれに寄与しません(寄与しないどころか大きなマイナスがあります)。
こういうことは具体的な事例を考えればよいのですが、たとえば夏の盛り、メガソーラーがガンガン発電を行なっていたとして、急に雨雲が出てきて、一時間後にはにわか雨で発電できない――いかにもありそうな話です。さて、そのとき家にいた私たちはおそらくエアコンやテレビ・パソコンを稼働させているのでしょう。
我々は、雨が降ってきたら即座にエアコンを切らなければ(電力不足で)停電という事態に陥るかもしれません――しかし、たとえば自宅から10キロ先のメガソーラーの上空で雨が降っていたとして、即座にエアコンを切ることのできる人間が果たしてどれくらいいるでしょうか――ちょっとため息が出てしまいます――現在のマスメディアがクズなのは、こうした内容の文章を送ったとしても、ほぼ百%、取り上げられないということです。そして、問題が実際に発生してから大騒ぎするわけです…………。
僕が上で触れたことは、過去二百年ほどの世界史の大きな方向のようなもの。それを抜きにしては、「前進後退」が語れないからです。又、その「前後」観点は当然、歴史目的論的なものではありません。つまり「歴史にはこういった目的がある」という類のものではなくって、「人間たちがこう望んで多少とも実現してきたし、今もこう望んでいるらしい」と。
また、その実現の仕方、それに今どう手を付けるかなども別の問題と思います。さらにまた、大きな流れを語ることが官僚主義になると語っているに等しい話もどなたかが出されていましたが、それも無関係なことと思います。
かえって世界を見る目を曇らせてしまうのかも。
室町・江戸と明治・昭和戦前では
女性の権利は、後退していると思いますよ。
明治をどう評価するのか?という問題に
関わることですが・・・
坂の上さんのような評価、そして
共産党のような昔の評価から
離れて見ないと・・・
あらゆる発電装置がそれなりのメリットとデメリットをもっています。ただし、ひとたび事故が起こった場合、広域にわたって人を住めなくさせたり、大気や水源地を汚染し、農業や漁業を不可能にするデメリット、さらには長年にわたって人々の健康を阻害するデメリット、そして、子々孫々にわたってその有害極まりない廃棄物を蓄積し続けるデメリットを持った発電装置は原発以外にはありません。
ソーラーシステムももちろん万全ではありませんが、たいていの装置は蓄電システムを併設しています。ですからおっしゃるように雨が降ったリ、夜になったら駄目ということではありません。それに、現実問題として、ソーラーシステムはそれのみで運用されることは少なく、通常の電力供給と併用されています。それでも、その普及は原発依存からの脱却に大きな力となります。
野田内閣のように何が何でも原発再稼働ではなく、まずすべての原発をなくす、その上でそれに対応したシステムを考えるというのが正道だと思います。
私の出発点は、原発という「科学技術的」に考えても、まったく野蛮極まりないシステムを、存続させてはならないということです。
そのスパンを一挙に500年とか300年とかに広げれば、地域性も増しますし、尺度も全く変わってくるかも知れない。今との共通尺度など見えぬかも知れないのです。そういうものに関わって、そこから或る一つの歴史側面を取り上げてスパンをどんどん広げ、こっちが上、あるいは下というような話は現象的なものにしかならないはずです。つまり、まずほとんどは類推とか比喩とかの思考世界でしょう。例えば、日本の母系制社会と江戸時代の女性との社会的地位を比べても意味がないと思います。
こういう話を持ち出し始めたら、逆に論理的にこんなことが言えますよね。
「全ての人類重要事項について、前進後退尺度があるものだ」
そんなことあるわけはないでしょうし、僕はそんなことを語っているわけではまったくありません。
又、世界人類史そのものの尺度なんて、あったとしてもおそろしく抽象的な、ごくごく限定されたものにしかならないはずです。