例えば動物という自然科学の概念は当然、生物学の発展によって「中身」が変わっていく。細胞学や進化学などの発展を関連させて考えてみれば分かることだ。民主主義という社会科学の概念も同じ事だろう。つまり、学問というものの全体的発展によって、過去の意味を踏まえつつ、概念はどんどん新しい様相を呈していく。
してみればある概念を語る時、過去の一国の意味に固執するのも、逆にある概念が出現して以来「全時代を通じたその共通の中身」だけに拘るというのも、愚かなことと言って良い。この後者は例えば、動物を文字通り「生物で動くもの」程度に定義するのと同じ事だろう。原始的で、感覚的な定義というやつである。これでは、オジギソウという植物はちょっと触ると動くし、ひまわりは太陽目指して動くから、これらも動物ということになりかねない。時代を通じたある概念の共通の中身なんてこんな程度の不正確なものだろう。
使用概念がいい加減な思考、文章は、当然いい加減な内容になる。つまり、厳密なで体系的な概念を使ってこそ、厳密で豊富で役にも立つという思考が討論できる。そういう人間の思考の促進に役立たない概念使いはなるべく避けようではないか。
さて、民主主義である。選挙のことではない。それはほんの一部分だ。ましてや、ギリシャの選挙、例えばオストラキスモスという、暴君に対する「陶片追放」の選挙制度を現代の民主主義と同一視するなどは、論外の話だ。
現代において最も広く世界に影響を及ぼしている概念としての民主主義を語る場合、最低以下のような中身、「内包」を今後のために、共通理解にしておきたい。
現代民主主義に至るまでの対概念はこれくらいあるだろう。神の代理人による政治、貴族政治、君主政治、啓蒙君主政治、立憲君主政治などなど。そして、これらに対抗しつつ生き続けて現代に至った民主主義とは、最低こういう内包があるはずだ。なによりも「自由、平等、博愛」である。フランス革命のスローガンで、これらの背景に「人権」という考え方がある。一言で言えば、人間1人1人が同じように大切だということ。私が大切ならば、同じように貴方も、彼もみんな大切。同じように自由に幸せを求めていく存在として愛し合おうと。こういう思想ではないか。こういう思想から政治を考えた場合に民主主義政治が現れ、普通選挙が出てきたと、そういうことではないか。
さて、誤解がないように断っておくが、僕は今、こういう思想を皆が持てと言っているのではない。イスラム政治は、アッラーとの関係、女性のとらえ方など、明らかにちょっと違うだろう。最近日本だけでちょっと流行の「日本大好き思想」も、天皇も人権の主と僕のように見たらちょっと違うのではないか。「これは人間主義。人間主義ではもう不十分」とは、最近のエコロジストでも言いそうなことだ。そして、これらの方々がこういう思想を持っているということを僕としても否定などできるわけはない。だからこれらの人々と対話をする場合こういう民主主義とここが違う、ここは同じと確認しながら進みたいということになる。
なおまた、もう一つ断っておくことがある。「自由、平等、博愛」は実現したものでもないし、主張してきた人がこの点において言行一致してきたというのでもない。また、本気で叫んでいるか否かも、当然別の問題だ。ましてや、本気のつもりでも彼の行動上の実際は違うなど、ジョージ・ブッシュのように、そんな人種はいくらでもいる。これらは全て、近代民主主義思想の規定とは別の問題である。そこをごっちゃにしないこと、きとんとした討論のためには大切なことだと思う。
してみればある概念を語る時、過去の一国の意味に固執するのも、逆にある概念が出現して以来「全時代を通じたその共通の中身」だけに拘るというのも、愚かなことと言って良い。この後者は例えば、動物を文字通り「生物で動くもの」程度に定義するのと同じ事だろう。原始的で、感覚的な定義というやつである。これでは、オジギソウという植物はちょっと触ると動くし、ひまわりは太陽目指して動くから、これらも動物ということになりかねない。時代を通じたある概念の共通の中身なんてこんな程度の不正確なものだろう。
使用概念がいい加減な思考、文章は、当然いい加減な内容になる。つまり、厳密なで体系的な概念を使ってこそ、厳密で豊富で役にも立つという思考が討論できる。そういう人間の思考の促進に役立たない概念使いはなるべく避けようではないか。
さて、民主主義である。選挙のことではない。それはほんの一部分だ。ましてや、ギリシャの選挙、例えばオストラキスモスという、暴君に対する「陶片追放」の選挙制度を現代の民主主義と同一視するなどは、論外の話だ。
現代において最も広く世界に影響を及ぼしている概念としての民主主義を語る場合、最低以下のような中身、「内包」を今後のために、共通理解にしておきたい。
現代民主主義に至るまでの対概念はこれくらいあるだろう。神の代理人による政治、貴族政治、君主政治、啓蒙君主政治、立憲君主政治などなど。そして、これらに対抗しつつ生き続けて現代に至った民主主義とは、最低こういう内包があるはずだ。なによりも「自由、平等、博愛」である。フランス革命のスローガンで、これらの背景に「人権」という考え方がある。一言で言えば、人間1人1人が同じように大切だということ。私が大切ならば、同じように貴方も、彼もみんな大切。同じように自由に幸せを求めていく存在として愛し合おうと。こういう思想ではないか。こういう思想から政治を考えた場合に民主主義政治が現れ、普通選挙が出てきたと、そういうことではないか。
さて、誤解がないように断っておくが、僕は今、こういう思想を皆が持てと言っているのではない。イスラム政治は、アッラーとの関係、女性のとらえ方など、明らかにちょっと違うだろう。最近日本だけでちょっと流行の「日本大好き思想」も、天皇も人権の主と僕のように見たらちょっと違うのではないか。「これは人間主義。人間主義ではもう不十分」とは、最近のエコロジストでも言いそうなことだ。そして、これらの方々がこういう思想を持っているということを僕としても否定などできるわけはない。だからこれらの人々と対話をする場合こういう民主主義とここが違う、ここは同じと確認しながら進みたいということになる。
なおまた、もう一つ断っておくことがある。「自由、平等、博愛」は実現したものでもないし、主張してきた人がこの点において言行一致してきたというのでもない。また、本気で叫んでいるか否かも、当然別の問題だ。ましてや、本気のつもりでも彼の行動上の実際は違うなど、ジョージ・ブッシュのように、そんな人種はいくらでもいる。これらは全て、近代民主主義思想の規定とは別の問題である。そこをごっちゃにしないこと、きとんとした討論のためには大切なことだと思う。
民衆政治の具体的な手続きは集団の意思決定におけっる多数決ということになります。だから民衆政治は、集団構成員の多数派が賢明ならその決定も賢明であろうが、多数派が愚昧であればその決定も愚昧であろうということしか意味しません。検討されなければならないのは、どういう条件においてならば民衆の多数派が正義・勇気・思慮・節度を保ちえるか、ということになります。そこで、民衆政治ならぬ民主主義を標榜するデモクラットは、というより「デモクラティスト」は、ヒューマニズムに頼ろうとします。ヒューマニズムとは、「人間の理性は完成に向けて不断の進歩を遂げている」とみなす人間観のことです。
そうみなせば、確かに、多数派民衆の意見が進歩しており、少数派のそれは退歩している、それが歴史の趨勢であると考えることができます。現在の憲法もそういう価値・規範で出来上がっています。教育基本法もそうです。
絶対かつ崇高な精神の力が多少とも宿るのは、長き歴史の試練の中で鍛え上げられた国民の伝統精神の中にあると考えるのが、良識というものです。
そのことが確認されていたら、民主主義はもっと国民の主権主義は、中々な健全な政治思想だということになります。
しかし、敗戦以降の日本に生じたのは、自国の歴史への徹底した自信喪失の中での人民主権主義への屈服ということです。戦後左翼の「民の声は神の声」といった民衆主義とヒューマニズムが合体して、結構な生命力を発揮してきたともいえます。
ただし、戦後左翼が議会や集会、書物、新聞で主張してきたのは、現実における「民主化の完成」ということでした。社会主義の理想の次元に隠されたり、棚上げされたりしていました。何故か、社会主義と民主主義を社会階級の廃絶にまで押し進め、その無産階級社会による「計画による統制」を適用することに他ならなかったのです。
歴史的に見てもロシア革命を主導したのはロシア社会民主党であることからも察することができます。
19世の民主化における極端な形態、それが20世紀の社会主義というこでもあったのでしょう。
この社会主義という理想は過ったものでした。事実、ソ連にせよシナにせよ東欧にせよ社会主義は全面的に失敗に終わりました。
しかし、戦後左翼は、ある意味では上記の理想を放棄して、占領体制への順応であれ、経済主義的な文明への適応であれ、「アメリカ的なる現状」の維持という範囲を出るものではなかったと言ってよいのです。
所で左翼ですが、左翼の始りは、フランス革命に起因します。個人の自由と理性の進歩を称えつつ、旧体制の破壊をするように訴えるものです。
その意味で、現憲法と教育基本法という戦後日本を表現していると考えて良いのでしょう。
共産主義(社会主義)においてのスターリン的な抑圧や毛沢東的な野蛮が繰り広げられ、それが明らかになっても、戦後左翼がそこそこ健在でありえたのは、アメリカ製の日本国憲法やアメリカ流の教育基本法にしっかりと寄り添ってきたからでしょう。
「サヨク」の人々は、社会主義という剛直な理想は捨てました。しかし彼らはいわゆる市民主義者として、日本国家の歴史が示す価値や規範から逃れようとしています。
「シチズン」とは、「国家から保護を受ける代わりに、国家への忠誠を誓う人々」のことであるにもかかわらず、彼らは市民の名において国家の外へ出ようとしているのです。そういう人々の投票が日本の国政を左右するまでに至っているのです。彼らのかざす標語は「民主化の徹底」というものであり、それはアメリカへの親愛の情を示す個人主義派の左翼もこの民主化の徹底に賛同してしまうのです。戦後の日本麻薬は、この「民衆主義」であると言ってよいと思います。
私は、明治以来の教養を大事にする戦前に憧れます。立憲君主国家であろうが、私は、この日本の現在進行形は、藤原さんではないのですが、品格のない国家だと感じざるを得ません。こういう本がベストセラーになるのには、国民の多くの中に、何か現在のこの日本への懐疑が生まれているのでしょう。
例えば、僕が初めに述べている、概念と学問史との関係から言ったら、デモクラシーの語源がいくらギリシャにあるにせよ(そんなことは僕も当然書いたわけですから)、なぜ語源的なことを最初に述べる必要があるんですか。しかも「こんな素人なようなことは、言ってはいけませんが」と冒頭に前置きまで付けて。こういう「全体の中で必然性のないもったいぶった記述部分」を虚仮威しと言います。しかも、現代民主主義がフランス革命に始まるという僕が述べた命題も貴方は認めているのだ。あなたも実質はそこから始めているわけだし、そこから初めても当然、「民衆が主権を持つと、それが愚妹であれば決定も愚妹になる」などという貴方の命題を導き出すことはできるはず。貴方はフランス革命もその典型と語るんでしょうし。
何故貴方は論議の内容自身以上に、そこからはずれた知識に熱中するのでしょう、いつもそう考えてきたんですよ。だから、書いたもの、思考が散漫になり、回答、討論にならなくなってしまう。ひけらかすから散漫になるのか、散漫だからひけらかす文章になるのか?僕は両方だと考えてきましたけどね。ちょっと直して欲しいものです。文が野暮ったくなりますし。
さて、ともあれ、今回のは全体としては討論になっていると思いました。僕と違って随分余分な「主張」を書きすぎていますが、全体が比較的まとまっていて、立場がよく分かる文章だ。貴方が過去によく考えたことがあるから分かりやすい文章ということなんでしょうね。もっともこういうことをよく考えたというところがまさに貴方らしい。ともあれだから、発展的討論もできるというもの。僕だけでなく、他の人も。ただし、これだけの内容ならもっと短く書けはしますが。今日は一言ご質問。以下の下りをもう少し説明してください。
「絶対かつ崇高な精神の力が多少とも宿るのは、長き歴史の試練の中で鍛え上げられた国民の伝統精神の中にあると考えるのが、良識というものです。
そのことが確認されていたら、民主主義はもっと国民の主権主義は、中々な健全な政治思想だということになります。」
日本国民のこういう「絶対かつ崇高な精神の力」の宿りとは、どういうものでしょうか?やはり、規定しないと、会話、討論にはなりませんから。
ところで、それがどうして社会主義とか、左翼とかの話が貴方の大部分ということになっていくのでしょう。僕がプロレタリア民主主義とか、社会主義的ヒューマニズムとかを語ったならまだしも、社会主義などという言葉は一言も用いていませんし、ヒューマニズムについてもフランス革命の前提になっているはずのルネッサンスのヒューマニズムにすら言及していないのです。因みに貴方のヒューマニズムは、ドイツ的ヘーゲル的なそれというただ一種に限定されていましたが。
さて、これだけ余分なことを、僕と違って「主張」を込めていっぱい述べていながら、貴方の肝心の所がいつも説明されない。だからあーいう質問になりました。今度は応えて下さいよ。
人に応えて下さいと言って自分の主張を言わないというような卑怯なことは僕はしません。僕は冒頭の文で民主主義の思想の根幹をこう述べています。
「一言で言えば、人間1人1人が同じように大切だということ。私が大切ならば、同じように貴方も、彼もみんな大切。同じように自由に幸せを求めていく存在として愛し合おうと。こういう思想ではないか。こういう思想から政治を考えた場合に民主主義政治が現れ、普通選挙が出てきたと、そういうことではないか。」
日本でいえば武士道的なる精神もその一つに該当するものではないのかと思います。
その意味において、私は、明治維新とフランス革命を比較する論がありますが、私は、明治維新の方が極めて、賢明な選択であったし、今も私はあの大日本帝国憲法を読んでも違和感がありません。余程、新憲法に違和感を感じるのです。
ついでながらフランス革命が、もうご存知の様に、ヨーロッパ諸国に、大きな衝撃を与えました。
イギリスのエドマンド・バーグも批判をしていますが、
革命によるフランスの大混乱(内乱など)、皇帝ナポレオ
ンの登場など、フランス革命の余震は、ヨーロッパのみならず国内でも続行いたします。私の誤解かもわかりませんが、フランスがやっと落ち着くのは、ドゴールの登場を待つまでとも言われています。
ただ文科系さんの民主主義とヒューマニズムへのお考え方には、同調しかねるというか、民主主義への幻想めいたものを観じましたが・・・・。
私は、この16年位の構造改革路線なるもへの批判は、「改革で失うものは確定しているが、得るもは不確定である」というものです。まさにフランス革命は、当初、失ったものが殺戮も含めて莫大なもので、あったということです。さすがイギリスなどは、賢明な国であったと私は思いますが・・・。
今日は一言ご質問。以下の下りをもう少し説明してください。
「絶対かつ崇高な精神の力が多少とも宿るのは、長き歴史の試練の中で鍛え上げられた国民の伝統精神の中にあると考えるのが、良識というものです。
そのことが確認されていたら、民主主義はもっと国民の主権主義は、中々な健全な政治思想だということになります。」
日本国民のこういう「絶対かつ崇高な精神の力」の宿りの姿とは、どういうものでしょうか?やはり、表現、規定しないと、会話、討論にはなりませんから。
なお、選挙が何を生み出していくかとか、その都度の主権者がどういう欠陥を持ち俗悪であるかとかいうことと関係なく、以下のことは言えるはずです。
「人間1人1人が同じように大切だということ。私が大切ならば、同じように貴方も、彼もみんな大切。同じように自由に幸せを求めていく存在として愛し合おうと。こういう思想ではないか。こういう思想から政治を考えた場合に民主主義政治が現れ、普通選挙が出てきたと、そういうことではないか。」
どんな崇高な思想よりも、僕は上の考え方をまず取りますね。というよりも、上記の意味でのヒューマニズムを踏まえない思想は崇高なものとは言えないだろうとね。と、こういうようなヒューマニズムもあるはずですが、貴方はそれに賛成しますか?
武士道とは、日本古来の自然への畏怖という神道・佛教・儒教が交じり合ったものです。
一度、武士道なる本は沢山出ていますからお読み下さいね。あなた飛躍していませんか、民主主義イコール愛し合う関係ですか、普通選挙が始ってからこの国の愚昧さが加速したのではないのですか。貴方も私の自由と規律、個人と集団(公)、競争と格差の関係について何も述べていませんが・・。人権にいたっては、それを真から尊重している国の名前を教えて下さい。
人道主義ですか、人の道ですね。人の道はそれぞれの国よって異なるのです。そんなアホ言葉に私も一瞬ですが酔った記憶があります。でも世界は違います。
日本流の人道主義など、世界の中にあるのでしょうか。
ヒューマニズム、美し過ぎるのです。
美しいバラには、棘がありますから注意して下さいね。
私はさすがこの年齢になって、世界を見渡すと、人道主義なる国がどこの国にあるのだろうと疑ってしまいますが・・。おかしいですか?
普通選挙にこだわりますね。何回言ったら貴方は納得すのでしょうか、あの選挙があのヒットラーを生み出し、貴方の嫌いなブッシュを誕生させているのではないのでしょうか。しっかりして下さいね。私は賢人政治が一番良いと思っていますが・・・。では。
「私はさすがこの年齢になって、世界を見渡すと、人道主義なる国がどこの国にあるのだろうと疑ってしまいますが・・。おかしいですか?」
貴方がこのように言う時、僕が既にこの欄の冒頭の文章でこう書いているのは当然ご承知のはずですね。
「なおまた、もう一つ断っておくことがある。『自由、平等、博愛』は実現したものでもないし、主張してきた人がこの点において言行一致してきたというのでもない。また、本気で叫んでいるか否かも、当然別の問題だ。ましてや、本気のつもりでも彼の行動上の実際は違うなど、ジョージ・ブッシュのように、そんな人種はいくらでもいる。これらは全て、近代民主主義思想の規定とは別の問題である。そこをごっちゃにしないこと、きとんとした討論のためには大切なことだと思う。」
僕が既にこう書いているからこそ、貴方は前の文の最後に「おかしいですか?」と書いているのでしょうね。ちっともおかしくないですよ。「俺は『現実的なもの』を語っているが、お前は存在しない理念だけを青年のように語っているだけ」ってね。
この先は、ちょっと考えてまた後でやっていきましょう。この討論はみんなのためになるますよ。
文科系においても、自由の対立概念としてやはり規律(法・慣習)というのを否定は出来ないでしょう。
報道の自由といってもそこには、やはり規制がかかるわkです。その規制をする場合に、単に法律だけかと・・。
そうではないと思うのです。勿論、報道すべき内容と対象とすべき社会的な影響力を考えて、報道の自由を捉えるのでしょうね。死んだ橋本首相や目下の財務大臣も中国の女性と何かあったという週刊紙にも出ていました。
私はこういうのは、良いと思うのです。国益に係わる問題ですから・・。でも普通人のこういう事件などは、やはりいけないのでしょうね。でもその普通人とそうではない人の線引きが必要です。その線引きを決めるのが、その国の歴史的な慣習というものではないのかと言う意味です。
またという言葉ももう新聞には出ません。
根源的には、ここでも申しましたが、天皇家にすら繋がるのでしょうが、でももうこのパソコンで変換しても出てきません。ある意味で死語化しています。とりわけ、少なくとも関東以北の人達は、その言葉や意味すら知りません。
私もという言葉を使うことさえ、名古屋以西では控えます。そういうのが言わば報道の自由を規制するものです。それで私はいいのだと思うのです。
人道なるものも私もそれに魅惑されたことを、否定いたしませんでした。でも、仕事柄、例の児童労働問題やシナやアフリカでもあるであろう人身売買などを人権という思想だけで一刀両断できるのかと思うのです。
言い出した白人こそ奴隷売買をし、インデアンを殺戮し、シナの陶磁器が欲しいためにドイツの地方の侯爵というか権力者が自分の領有する農民をアメリカの独立戦争時に傭兵として売ってしまったという本を読んだ覚えがあります。私は、とても人身売買などや児童労働などに目をそむけたくなります。あなたの得意なルワンダなどでは、私はとても生きてはいけあません。でも恐らくそれが最貧国の現状なんでしょう。アフリカなどは、とてもアジアや欧米には、経済的に太刀打ちできないでしょう。石油や貴重な鉱物資源でもない限り・・。貴方のいう真からヒューマニズムを思うなら、日本人がどれだけの経済的な援助をするか、その覚悟がいると思うのです。私達は、ちょっと所得格差があればわいわい騒ぎ、失業率がああだこうだと騒いでいますが・・。でもと思うのです。秋田の子殺しなど嫌な事件が多いです。私はベトナムやフィリピンなどからの飲み屋さんへの出稼ぎ、ある意味で人身売買もあるのでしょう。でも彼女達は、身体を売ってまで、故国の家族を養っています。これも一刀両断で基本的人権とかヒューマニズムに反するのかというと、いや余程現在の日本の方が、家族愛や地域愛を失っていると考えるものではないのでしょうか。私は、やはりかってのヨーロッパスタンダード、今はアメリカンスタンダードにいう自由・博愛・平等・人権とう近代思想への私は疑いを持っているのです。それは白人国家の過去の歴史を見れば、充分理解さるべきものです。私は日本には日本の歴史から生み出した価値観がある、でも国際的には、そうではないというそういう使い分けが必要だと思っているのです。
私は福沢諭吉の脱亜入欧は、恐らくですが、当時のアジア情勢の酷さを嫌悪してというか、列強支配されているアジアの学ぶものはない、日本の歴史から生まれてきた倫理性や価値観などをベースにして、欧州に学べと言ったと思うのです。極めてある意味では、世界を知るリアリストだと思うのです。私は戦後ですか、文科系さんのさすがコスモポリタンや世界連邦、あるいは国連に期待するという考えはありません。やはり福沢諭吉ではないのですが、やはり独立自尊という精神と政策が必要だと思います。
今日でしたか、イギリスでパキスタンからのエアーに・・という記事が出ていました。私は、この21世紀は、混迷の世界だと思います。くどいですが、あのアメリカでの同時多発テロが今世紀の将来を占っていると思います。
民主主義問題からここまで来ましたが、私の提議した共産主義の20世紀問題と同様に、私は何かずっと昔の戦争や内乱の原因であった宗教や貴方のいう自由・平等・博愛というイデオロギーがこの世界の紛争の種になると思っています。そういう意味で当該地域の歴史的な価値観や未だ近代国家という概念のない国国やこのグローバル化した地域への日本の援助や、最後にはやはり、21世紀を洞察した日本に相応しい憲法改正問題を考えるべきだと私は思います。また憲法は不磨のものではありません。その時々の世界情勢や国内情勢によって修正出来るようにしておけばいいのです。人間の将来を見通す能力などはたかが知れたいますから・・。