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小説 当世子どもスイミングと闘う(2)   文科系

2024年03月10日 08時03分55秒 | 文芸作品
 十二月末のある日曜日三時頃だったか、僕はいつものようにスポーツジムや温水プールも併設する近くの市営公園の周囲を走っている。一周一キロちょっとの公園で、僕の通常のランニングコースなのだ。五年ほど前までは体質的に不要だったウオームアップが今は二〇分以上も必要になっているのに加えて、こんなに寒い日は血管が開かずなかなか調子が上がらない。〈前脚の地面ツツキが甘いから、脚を無理無理前に出して、その膝が曲がりすぎてる。これじゃ、悪循環じゃないか!〉。あるいは〈頭も、顎も前に出ている。身体の姿勢がおかしいと、脚のツツキも甘くなるのだから、腰から頭まで、ちゃんと伸ばせよな!〉。色々工夫してきた新走法もまだまだ身についていなくて、気がつけば出てはならない悪癖がいっぱい出て来るのである。〈腰から頭までちゃんと伸ばして、骨盤の下に持ってきた前脚を伸ばして素早く地面をつついたその反発弾力で走る〉などなどそんなことを復習しつつ二周目が終わりかけた身体をしゃんとし直したその瞬間のことだった。
「ぢーっ、頑張れーっ」。
 すぐに分かった、ハーちゃんの声だ。斜め左二〇mほど前方、子ども遊園地の端っこ、歩道沿いの柵に沿って背伸びした女の子達が見える。同級生らしい女の子二人ほどもその傍らに居て、ハーちゃんを真似て、一緒に両腕を振っている。近づいていき、顎を出してあえぎながら言って見せた。「まだ六周も残ってるのに、こんなに疲れてる。年だねー」。三人がどっと来たのも、針が落ちても笑い合う年頃。「私、○○ちゃんの家に遊びに来てるの。もっと遊んでくからねー!」、と叫んでいる声を尻目に走り続ける。
八周目を終わって、この大きな市営公園の一角にある児童遊園地から、一緒に家に帰ることになった。ハーちゃん家族は、僕ら老夫婦と今は同居しているのである。
「ぢーちゃんはどうしてまだ、そんなに走れるの? 聞かれたから再来年八〇になると答えたら、みんな驚いてた。あの友だちのおじーちゃんたち、膝が痛くて階段も苦労してるって」
「そりゃ、ハーちゃんの水泳と同じで、ずっと科学的トレーニングを重ねてきたからだよ。どこか弱った筋肉が見つけられたら、そこを強くする。水泳と同じでフォームに悪い点、力が損してる点があったら、そこを直す。ただ、いくら直しても短距離走はもうダメだ。ハーちゃんにも勝てないよ。自転車なら、君とずっと一緒にやってきたサイクリングでもう分かってるはず、僕のが強い事確実だけどね」
「あれは、ぢーちゃんの自転車がいーからだ。私にももうすぐ、あーいうの買ってくれるんでしょ。そしたら勝負しよ!」 
「あー、とても楽しみだ。今までは五〇キロまでだったけど、今度は百キロって言ってたよね。いいの? 大丈夫? 自転車の長距離は、技術や筋肉も問題だけど、それ以上に血液循環機能の問題、酸素を吸収する力の問題で、これは水泳も同じだって前に教えたでしょ。これを鍛えられるのは中学三年生ほどまでで、こちらは長年かかるんだよね」
「あーいう自転車に乗れたら、頑張れるよ。それに、この頃、体操で中距離やっても、縄跳びやっても、息がハーハーしなくなってきたし。短距離は学年男子も含めて一番だけど、中距離は二番ね。縄跳びも学年大会の全種目で最後まで残ってたの、ぢーちゃんも授業参観を観に来たから、知ってるよね」
僕のスポーツ好きが乗り移ったようなこの子とのこんな会話は、言うならば、幸せすぎる。今では、こういう会話の前提となる水泳、サイクリングなどのためにも走り続けてやるぞという僕になっている。


 ハーちゃんは新型コロナウイルスによるジム休業の前、二〇二〇年一月のテストで旧一級、新四級の百メートル個人メドレー形テストに合格した。そしてこのテスト直後のその夕方、ジムのお向かいのイーオンのベンチに二人して座り込み、今後の中長期計画を相談しあった。合格祝いのサーティンワン・アイスクリームを二人してなめながら。二人ともレギュラーサイズ・ダブルの大判振る舞いで、盛り上がっていた。行きつ戻りつの話をまとめて言えば、こんなものになったと言える。
 今の狙いは、これから三つ先の一級、百メートル個人メドレータイムにあるということ。そのために、二~三級は、ハーちゃんが苦手な方から背泳と平泳ぎとをその順番で選ぶこと。それぞれ合格タイムがはっきりしているのだから、それぞれのテスト前にはどうしてもこれを突破しておくこと。もちろん、この全てを一発で通過していく。そして相談の最後は、ハーちゃんの泳ぎそれぞれの科学的分析。特に、当面の背泳ぎについては念入りにやった。頭はなるべく上げずお臍をもっと上げるような姿勢にして、腕は耳沿いに肩から今よりもさらに大きく前方に振り出して、脚は膝から下をもっと蹴上げる、などなど・・・と。
 この夕の僕は間違いなく興奮していた。
〈こんないーかげんな教室、俺の方が絶対に上手く教えて見せる。二人でやってきた長距離サイクル・ツーリングも併せた循環機能発達を水泳と平行して図った上で、速い子のフォームとの違いにちょっと注意力を働かせる事ができれば、水泳素人でもこれぐらいの達成感を与えられて、子どもを大事にできるんだって、ここからはもっともっと示してやろうじゃないか! 一級まで、全部一発合格、駆け足で抜け出て、子ども本来の力を見せてやろう!〉

その時からしばらくして、新型コロナウイルスによるジム休業。それはとても残念だったが、明けた二〇年七月末の三級テスト背泳タイム、九月の二級テスト平泳ぎと、ハーちゃんは学年女子一番のタイムで通過して行った。学年別ベスト五の名前とタイムが張り出されるから分かるのである。週三回通う育成クラスや特別クラスで特訓を重ねた子も含めた順位だからちょっと凄いのだと、僕は勝手に解釈している。ただし、この教室全体で四年女子がどれほどいるかを僕は全く知らないのだけれど。

 そして、文字通りそれらの締めである一級、百メートル個人メドレー・タイムテスト。これが実に、僕らとしては全く意外な形で向こうからやって来た。九月に二級を通った後、ハーちゃんは誘われていた週三回通う育成クラスにとうとう入っていくことにしたが、このクラスの進級テストは二か月に一度の一般クラスとは違って、毎月末行われる仕組なのである。うかつにも僕はこのことを知らなくて、十月末の練習日がいきなりテストの日になってしまった。その日もいつものように僕は全面総ガラスの三階観覧席から観ていたのだが、ハーちゃんに何かバタフライのタイム試験のようなことが行われた後しばらくして、また彼女が一人で泳ぎだした。何か本格的に泳いでいること丸わかりで、加えるに、プール脇で歩きながらコーチがタイムを取っている。
「えっ、テスト? まさか来月の予行練習だろう。テストは隔月のはずだから」
と観ている間に、バタフライ、背泳、平泳ぎ、クロール各二五メートルが終わった。
 更衣室から出てきた彼女が、僕めがけてすっ飛んできながら叫んだ。
「一級卒業、私、『グランドスイマー』だ」
 彼女が差し出した通知表を引ったくって目を通す。一分五四秒六七と書いてあり、その隣に大きく青い合格マーク。すぐ脇を急いで確認していくと、四年生女子の規定タイムは二分三秒〇、その下を見ていくと中学生女子のそれも一分五八秒〇とあった。また、その日同時にあった二五メートルバタフライの月間タイム測定でも学年一位のタイムを出していると後に分かって、これによって背泳、平泳ぎ、バタフライと最近計測した種目全てでハーちゃんは四年生女子首位になったのである。
 これらを知った時の僕の気持ちはどんなだったか! 〈ハーちゃんと俺が一緒に、この大きなクラブ全体に勝利した。なんせ、週三回泳ぐ育成クラスはここまでたった一か月、特別授業も全くなし、直近一か月を除いて週一回一時間の練習組でここまで来られたのだから。ここの方針や、管理体制がいかにいー加減かを証明してやったんだ〉

 さて、すると間もなくこのすぐ後に、教室の側からこんな声がかかって来たのである。これは、娘から聞いた話なのだが、
「選手クラスに入りませんかって。どうする?」
 このキッズ・スイミングの選手クラスというのは、小学生から高校生までを合計してたったの二〇名弱で週三~四日練習に励み、水泳連盟の競技会などにも出るという、この教室が内外に見せている「顔」なのである。ここの子ども教室の粋を集めた高校生まで二〇名弱が、唯一本気になりすぎている以上に教えられている子どもらと言って良い。やる気満々のハーちゃんを見て、母親である娘と色々話し合った末に結局入っていこうと決めたが、一つ心配があった。週三日一時間づつ泳ぐ「育成クラス」に入ったのでさえこの一か月のこと。そんな三~四回がいつも二時間泳ぎ詰めというこのクラスで、果たして彼女はいやにならずにやっていけるのかどうか。
 ちなみに、この時娘から初めて聞いたことはまた、僕として寝耳に水というほどのもの。新型コロナ休業前二〇年一月の四級合格時点で既に選手クラスを打診されていたのだそうだ。以降娘が迷っていて、今回の僕との相談、決定になったというのである。
 四級個人メドレー形試験の合格時点で、選手コースに誘われていた! あれからほぼ一年、百メートルの個人メドレータイム試験で中学生の合格タイムを三秒以上も突破したんだから、そりゃ、誘われるよな! でもこの一年遅れはかえって良かった。フォームをより完成させて入っていくことになったんだから、これから泳ぎ込む心肺機能鍛錬の効果も、より高くなるというもの・・・。


ボードに両腕を載せ掛けて、四コース一斉にバタ脚だけで泳ぎ始めた。初めての選手コース日に、前面総ガラス観覧席の僕は、最年少が集められたらしい第一コースに注目している。そこの最初はちょっと背が大きい女の子、五~六年生か。次の子は、痩せていて、ハーちゃんよりも小さい女の子(後にリナちゃんと知った五年生。平泳ぎがクロール並みに速い)。次がやはり小さめの男の子と、女の子でその次が、あっ、やっとハーちゃんだ。もう少し腰をしっかりと固めた方が良いと言ったのになー。力もちょっと入りすぎている。みんな速いでも、そんなには遅れてないようだ。あれっ、今隣のコースを泳いでるちょっと日焼けしたようなあの女の子は、五~六年生に見えるけど、脚の回転も強さも凄まじい。心肺機能が高いんだろうが、このクラスで何年やって来たのか(この子は、後にチカちゃんと知った。四年生だけど、中学生選手並みの泳力を持っている。クロールとバタフライが強い)。

前面総ガラスの観覧室はスタート台の真上に設けられていて、スタート台近辺以外は全コースが見える。ガラスに張り付いて、いつものように双眼鏡持参の僕だから、なおさらのことだ。その眼から見ると、ボードを離してまずクロールを泳ぎ始めた皆の中のハーちゃんは、前の子には離され、後の子には追いつかれて、明らかに遅い。それが、距離を泳ぐにつれてどんどん遅れ始めて、小さい子にも追いつかれ横をすり抜けていかれる。それも、明らかに新米を考慮されてなのだが、他の子が泳いでいる時もハーちゃんはよく休んでいる。考えてみれば当然のことなのだ。ついこの九月まで週に一回、一時間しか泳いでいない彼女と、週三回各二時間も何歳からやって来たのかという子どもらとでは、差があって当たり前。初めから特別授業も受けて早くから進級を重ね、一~二年生で週三回の育成クラスにも上がってきた子からの選りすぐりもいるのだろうしでも、こりゃ大変だ。ハーちゃん、今どんな気持かなー、何と言うかなー。観ている俺がこんな敗北感というか、暗い気持になっているんだから。
選手クラス一日目二時間が終わって更衣室から出て来た彼女とは、こんな会話になった。
「疲れたー。みんな、速い速い!」
「頑張ってたねー、続けれそう?」
「なんとか。一つだけみんなに褒められたことがあるし。私、脚が強いんだって。ボードを持って脚だけで泳いだ時は四泳法とも、皆に負けなかったんだよね。初めてで付いてこれるのが凄いって」
「ハーちゃんは学校で今までずっとリレー選手だし、僕との五〇キロサイクリングなんかで心肺機能を鍛えてきてるし、脚も強いんだよ」
ここぞとばかりに思い当たる彼女の特長を強調した。
「でも、脚だけのも、ちょっと長くやってるとだんだん負けていく。なんでみんなあんなに疲れないんだろう」
「疲れるのはね、いつもの『科学的分析』で難しいことをそのまま言うけど、筋肉が疲労して息苦しくならないように、酸素を体中に取り込む能力の問題。心肺機能はこれを正しいやり方でちゃんと鍛えてきた期間の長さで決まるんだけど、これが違うの。たとえば君の横で泳いでた黒い女の子、何年生だろう。凄まじい心肺機能だよ。あんな子は、多分、一年生から週三回やってきたとかね」
「チカちゃんって言う私と同じ四年生なんだけど、中学生並みのクロールだって。いつからここで泳いでるか、今度聞いてみる」
「そうそう。チカちゃんと比べた君なんて、ここで水泳を覚え始めてから去年秋まで週一回一時間しか泳いでないって、覚えときな」
「じゃあ、ここまでの二、三年の『泳ぎ込み』の差は、もう追いつけないということじゃないの? 」
「それも違う。酸素を取り入れる心肺機能以上にフォームこそ大切。君のフォームは、一般クラスや育成クラスの四年女子の中では、少なくとも三泳法は全部一番ね。そして、今までで一番長く泳いだ百メートル個人メドレー・テストで中学生の合格タイムを君が三秒も抜いてるというのは、心肺機能も結構強いということ。心肺機能って中学時代が一番延びるもので君らにとってはまだまだこれからのことだし、チカちゃんたちよりも君の選手クラス出発地点が高いのは間違いないし、心肺機能がついてくればすぐに追いつくよ」
「ふーん、わかったけど・・・」
と、こんな会話から間もなく知ったことなのだが、チカちゃんは一年生で選手クラスに入った四年生。五年生のリナちゃんは三年生末に入ったのだそうだ。と聞いて、心配性の僕もずいぶんホッとしたものだが、はてハーちゃんは心肺機能が追いついてくるまで、続けられるのかどうか。あれこれと、僕自身が不安になって来たという選手コース第一日目であった。
 大丈夫、やっていける。短距離の脚なら今もう同じほどに強いんだし、一年も経てば少なくとも脚だけは勝てるだろう。それに、酸素を取り込む心肺機能が一番伸びる時期は生理学上で中学生時代と確定されている。ただ泳ぎ込ませて二百メートル個人メドレーの月タイムを取っているだけのような練習だし、追いつく余地など十分過ぎるはずだ・・・。俺のランニングに比べたらそう言えること間違いなし。
 こんなふうに懸命に自分に言い聞かせている僕を一年弱でますます度々発見してきたのだが、この執念は自分ながら「ちょっと病気」と訝りたくなるほどのものに育ち上がっていた。我が八十年人生の来し方を彩り、詰め込んだスポーツ好きはもちろんだが、それ以上にハーちゃん好きが加勢した「物事に取り組む姿勢」への「ちょっと病気」は、我ながら手に余るほどのものに膨らんでいる。なんせ、土日の朝七時半から二時間の選手クラス練習にハーちゃんが出る時には、一般向けに玄関が開く八時には僕一人が広い三階観覧席ガラスに張り付いている有様。この巨大なジムが名古屋市北東部全体に手を広げた世の中で僕一人、八〇男がやることかと苦笑いしていたり、いや老い先短いからこそ「俺が役に立てるからこそということじゃないか」と精神分析まがいを試みてみたり。が、こんな程度の分析では手に余りすぎる「ちょっと病気」と、そこへいつも行き着くのだった。

 さて、ここの選手クラスでは月一回第一木曜日に二〇〇メートル個人メドレーで全員のタイムを取る。それまで一か月間の練習成果を確認するためなのだが、ハーちゃんの最初三か月はこのように伸びていった。四分一四秒、四分六秒、そして三分五九秒。この最後の日、三月初めの結果をしっかりと確認、記録した僕らは、帰りがけにこんな会話を始めることになった。
「全体ではまた七秒縮めたけど、一つだけ、今までで本当に今日初めて後退が起こったのは知ってるの?」
「背泳でしょ? ゆっくりと泳いだんだけど、どれくらい悪かったの?」
この子はまだ、自身のタイムも気にしていないのか、それとも僕任せにしているのか。
「一分八秒で、前が一分二秒だよ。六秒も落ちてる。この二か月の全種目通して、落ちたのはこれが初めてだけど、こういうのが一番いけない。なにかあったの?」
「飛び込んだ時に左の眼鏡がずれて半分くらい水が入ってね、最初のバタフライは我慢できたけど、次の背泳だけは上向きで泳ぐから、分かるでしょ、左目の上で水がチャプチャプしてて、いろいろなことをやってはみたんだけど駄目で、後はそのまま最後まで。とにかく、泳ぎにくかったー」
「へーっ! そのこと、先生に話した?」
「いや、みんなにも笑われるかと思って、恥ずかしくてー」 
「そんなら言うけど、これって凄いことなんだよ。背泳が前と同じタイムなら、今日全体で一三秒も縮めたことになる。そして、来月は、初めて起こったこの六秒のマイナスが一〇秒以上のプラスになって返ってくることも決まってるようなもんだ。来月の全体タイムがこの背泳だけでもう三分五〇秒を切ったも同然ってことなんだけど、分かるかなー。これから一か月は特に背泳の練習を頑張ろう」
 幼い無頓着というのか、豪胆というのか、そういうこの子に僕は、懸命に言い聞かせたものだ。対する彼女は笑顔も見せぬどころか、憂鬱そうにこう返して来た。
「でもチカちゃんは、今日とうとう三分切ったって、みんなが騒いでた。凄いよねー!」    
「そうか、うん、君と一分の差があるのね。でもとにかく、これからの二人の伸びしろは、君のが大きいに決まってる。チカちゃんの一月は一二月より悪かったと張り出された記録表で読んだ覚えがあるけど、君のこの二か月平均のように月一〇秒ずつ彼女との差を縮められれば、半年で追いつくんだよ。とにかく一週間に一時間しか泳いでなかった君が、六時間も泳ぐようになったんだから、それで心肺機能が伸びた分で全ての泳ぎが急に速くなっていくんだし。そんな時には、今遅い後半が特に速くなる。そしたら一体、どんな記録が出るようになると思う!」
 チカちゃんをハーちゃんの身近に引き寄せるべく、懸命に話していた。これも分かったのか分かっていないのか、チカちゃんをうらやましがっているやのただ暗い表情は崩さない。抽象的な言葉よりも、時々の感情の方がまだまだずっと大きく心を支配する年齢なのだろう。そこで僕はこんな時のいつもの切り札として、この言葉で励ましたものだった。
「スポーツでも音楽、ピアノでも、悪い癖が付いた後退や停滞はいつも起こるものだけど、やはり成長が急にやって来るのね。欠点、重要点によく注意してきちんとやり続けていればのことだけど。このことは、君ももう何回も体験してきて、よーく分かったと何度か叫んでたでしょ。セイちゃんの『いきなりボードキック二五メートル』も、覚えてる?」
 ハーちゃんの顔に、作ったように見える微笑みが浮かんだ。人間個人のどんな取り組みにも起こる「急成長の時」。これは、ハーちゃんが得意な縄跳びなどでも既に度々体験して驚きつつ、言葉に出してきちんと確認し合ってきたことだ。この時ハーちゃんに思い浮かんだのは、背泳が急に早くなったあの時だったのか、それとも、セイちゃん初の二五メートル・ボードのあのゴールだったのか・・・。


 それから十日ほどたった練習日の終わり前の光景は、二階席の僕の目に焼き付いて、今もよく蘇って来る。
 二五メートルダッシュ測定をやっていて、その日最年少の最終組で三人並んで泳ぎだした。向かって一番右には五年のリナちゃんが得意の平泳ぎ。大柄な四年生の天野さんは、やはりお得意の背泳である。一番左がハーちゃんで、その日は背泳を選んでいた。そして、なんと、半分ほどまで行っても、ハーちゃんが天野さんをリードしている。そのハーちゃんにちらっと目をやった天野さんが、一気にピッチを上げ始める。ハーちゃんは一目瞭然、精一杯の回転だ。「今はピッチは遅くても良いから、どんな泳ぎも、とにかく大きく泳ごうね」と二人でずっと言い合わせてきたのだけれど。三階から見ていたからすぐに分かったのだが、プール脇の皆が騒然とし始めた。チカちゃんなどは、ゴールの方へ走り出している。どうやら、新入生の予想外の活躍が起こると、皆が目を見張る習慣があるらしい。ましてや高野さんは、チカちゃんの仲良しだ。そんな全員注目の中でのゴールは、タッチの差よりちょっと大きめで、ハーちゃんの勝ち。ハーちゃんがクロールで泳いでも勝てなかったリナちゃんの平泳ぎはこの時は三番に終わっていた。もっともこの時の相手お二人は、ハーちゃんの伸びに気づくまでは、幾分手を抜いていたのかも知れない。こんな光景の中でもとりわけ、チカちゃんがコーチにタイムを訊ねている姿を僕がしっかりと見つめていたのは、後でハーちゃんに見たままをきちんと報告してあげようと思ってのことだ。
 ちなみに、チカちゃんたちのこの様子を帰りがけにハーちゃんに伝えた時には、逆にハーちゃんからこんな報告があった。
「コーチもこう言ってくれたよ。
『なんでお前、こんなに急に速くなったんだ? 今こういうことが起こるって、他の泳ぎもこれから急に伸びていくってことになる』って」
 これでやっと、何とかついて行けるようになったのかな、ここまで三か月ちょっとか。僕のモヤモヤがこれだけ晴れたのだから、ハーちゃんはもっとホッとして、このクラスの一員にはなれた〉という感じだろう。停滞とか失敗とか、これからはもっといろいろあるだろうが、まー元気にやっていけることにはなった。そのためにも、僕のハーちゃん病の方をちょっと直さんといかんだろうな。僕が彼女を手放して自立させるほうが、彼女自身が上達していくことよりもはるかに難しいかも知れない・・・。

(終わりです)


コメント
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