九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

喜寿ランナーの手記(306)考え抜いて、9キロ/hへ光明一筋  文科系

2020年09月02日 20時58分15秒 | スポーツ

 考え抜いた試みの中から、一筋の光明が見えてくるのかどうかと、そういう結果が本日あった。
 30日のランは、いつものやり方で8・2キロ走れたのだが、中2日置いた9月2日、全く同じく30分×2回を4キロ、4・2キロと走ってみた。そして、30日と何が変わるかを観察することにした。30日はその前が中3日置き、2日は中2日置きである上にこの日はコロナ対策で開け放ったジムの窓から入ってくる強い風に秋の爽やかさが混じっていたのだが。

 結果はこんなふうだった。ランの後、心臓の疲れがかなり減った。これは、後半30分の心拍数が改善されたことが大きいようだ。時速9キロで以前の普通時心拍数150ほどへと、後半も初めて昔に戻ってきたのだが、これはちょっと驚いた。そのうえで、自転車での帰路に30日と比べてずっと心臓が疲れていないと感じられたのである。これは嬉しかった。
  この心拍数の改善は、中2日とかちょっと涼しかったとか、外的条件によるものか。それとも、心臓自身に、7月1か月ブランクから回復してスタミナが付いてきたとか、トレーニングによって酸素を運ぶ赤血球が増えてきたとかによるものなのか。とにかく次回が楽しみになった。今回と同じことをしてみれば、2日に心臓疲労が少なくなった原因が何なのかがより鮮明になるのである。次回、中2日置いた5日土曜日に、30分2回を同じスピードで4キロ、4・2キロと走ってみれば良いのである。この日さらに心拍数などが改善されていれば、30分×2回が9キロほどには出来るという感触が生まれてくると思う。2日も、後半は時速9キロほどでかなり走れるなという感じを得られたから、冬のシーズンに向かっては9・5キロも?

  こんなことを考えながら走ることができる日々は、ちょっとわくわくする。80歳直前になって、1か月入院ブランクから完全に立ち直ることが出来れば、それも入院期間と同じ日数ほどで回復すれば、ここで得た知恵はこの先同じようなことがあっても必ず生きてくると確信できる。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「政教分離」、日本の現段階  文科系

2020年09月02日 08時32分39秒 | 国内政治・経済・社会問題

 近代世界各国の国民主権政治の確立は、宗教との戦いの歴史でもあった。旧王権などが宗教でもって権威づけられ、神聖視されてきたからである。その一例に、王権神授説などがある。そこから生まれた政教分離原則は紆余曲折の歴史をたどり、実に複雑・多様な仕組みが生まれている。フランスのように「完全分離」の国から、イギリスのように国教とは認めても主権在民を徹底し国王の神聖視を排除している国(国教首座の人物を国王が任命するのだが、その皇太子等が普通の下位軍人になったり、王子の家のゴシップが非常に激しく飛び交ったり)、イスラム原理主義に近い国などなどと。同じイスラムでも、トルコ、エジプトなどが世俗主義と呼ばれているのは、政教分離を取り入れているということだ。

 これに対して、日本はどうかと観れば、戦前は政教分離はなかった。大日本帝国憲法第1条、第3条などで、天皇主権、天皇の神聖などが明記されてあったのである。だからこそ、国民は国民と呼ばれず、普通に臣民と呼ばれるのが常だったわけだ。つまり、「御真影」を神棚のように扱った王権神授説そのものの憲法、国であったのであって、それが最も徹底していた国政領域が軍隊であった。軍隊には、内閣は一切関知できず、天皇の直接指揮の下に置かれていた。こんな明治憲法の天皇権力そのものの有り様は、日本を統一した時の古代天皇国家の再誕とも見える。

 さて、そういう事実を思い出す時には、日本会議の以下のような憲法改定理念は、政教分離のまともな歴史、論争がない我が国に戦前の悪夢を呼び起こすものと捉える人々が生まれて当然である。「日本会議のめざすもの」には、以下のような重大な事項が系統的に書き込まれているのであるから。

『125代という悠久の歴史を重ねられる連綿とした皇室のご存在は、世界に類例をみないわが国の誇るべき宝というべきでしょう』(「日本会議のめざすもの」全6節の中の「1美しい伝統の国柄を明日の日本へ」から)
『皇室を中心に、同じ歴史、文化、伝統を共有しているという歴史認識こそが、「同じ日本人だ」という同胞感を育み、社会の安定を導き、ひいては国の力を大きくする原動力になると信じています』(同上)
『そもそも憲法とは、歴史的に形成された国柄を反映した国の基本法です。私たちは、外国製の憲法ではなく、わが国の歴史、伝統にもとづいた理念に基づき、新しい時代にふさわしい憲法の制定をめざし』(同「2 新しい時代にふさわしい新憲法を」)

 何か文化的な装いを凝らしてはいるが、こういう天皇の元にまとまらないと、国民が「社会の安定」を作れず、「国の力を大きくする」こともできず等と述べている。こんなふうに考えるのは、国民と国民主権とに対する蔑視とも僕には見えるのである。「国民は外っておくとバラバラになる」と? 言い換えれば「国民の力を一方向にまとめやすくする」? これが、一つの全体主義的発想であることは明らかであろう。

コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする