「貴方、また『勉強』? 伊都国から邪馬台国への道筋だとか、倭の五王だとか?」
連れ合いのこんな苦情も聞き流して、定年退職後五年ほどの彼、大和朝廷の淵源調べに余念がない。目下の大変な趣味なのだ。梅の花びらが風に流れてくる、広縁の日だまりの中で、いっぱいに資料を広げている。
「そんな暇があったら、買い物ぐらいしてきてよ。外食ばっかりするくせに一日中そんなことばっかりやってて」
「まぁそう言うな。俺やお前のルーツ探しなんだよ。農耕民族らしくもうちょっとおっとり構えて、和を持って尊しとなすというようにお願いしたいもんですな」
彼の趣味、一寸前まではもう少し下った時代が対象だった。源氏系統の家系図調べに血道を上げていたのだ。初老期に入った男などがよくやるいわゆる先祖調べというやつである。その頃はたびたび、夫婦でこんな会話が交わされていたものだった。
「源氏は質実剛健でいい。平氏はどうもなよなよしていて、いかんな」
「質実剛健って、粗野とも言えるでしょう。なよなよしてるって、私たちと違って繊細で上品ということかも知れない。一郎のが貴方よりはるかに清潔だから、貴方も清潔にしてないと、孫に嫌われるわよ」
こんな夫に業を煮やした奥さん、ある日、下調べを首尾良く終えて、一計を案じた。
「一郎の奥さんの家系を教えてもらったんだけど、どうも平氏らしいわよ」
「いやいやDNAは男で伝わるから、全く問題はない。『世界にも得難い天皇制』は男で繋がっとるんだ。何にも知らん人だな」
「どうせ先祖のあっちこっちで、源氏も平氏もごちゃごちゃに決まってるわよ。孫たちには父親のが大事だってことにも、昔みたいにはならないしさ」
これに対して一応の反論を試みてはいたが、彼の「勉強」がいつしか大和朝廷関連へと移って行ったという出来事があったのだった。
広縁に桜の花びらが流れてくるある日曜日、この夫婦の会話はこんな風に変わった。
「馬鹿ねー、南方系でも、北方系でも、どうせ先祖は同じだわよ」
「お前こそ、馬鹿言え。ポリネシアとモンゴルは全く違うぞ。小錦と朝青龍のようなもんだ。小錦のがおっとりしとるかな。朝青龍はやっぱり騎馬民族だな。ちょっと猛々しい所がある。やっぱり、『伝統と習慣』というやつなんだな」
「おっとりしたモンゴルさんも、ポリネシアさんで猛々しい方もいらっしゃるでしょう。猛々しいとか、おっとりしたとかが何を指すのかも難しいし、それと違う面も一緒に持ってるという人もいっぱいいるわよ。二重人格なんてのもあるしさ」
ところでこの日は仲裁者がいた。長男の一郎である。読んでいた新聞を脇にずらして、おだやかに口を挟む。
「母さんが正しいと思うな。そもそもなんで、南方、北方と分けた時点から始めるの」
「自分にどんな『伝統や習慣』が植え付けられてるかはやっぱり大事だろう。自分探しというやつだ」
「最近の風潮にちょっと腹が立ってるから喋るよ。世界の現世人類すべての先祖は、同じアフリカの女性だという学説が有力みたいだよ。ミトコンドリアDNAの分析なんだけど、仮にルーシーという名前を付けておこうか。二十万年から十二万年ほど前にサハラ以南の東アフリカで生まれた人らしい。まーアダムのお相手イヴとかイザナギの奥さんイザナミみたいなもんかな。自分探しやるなら、そこぐらいから初めて欲しいな」
「えーっつ、たった一人の女? そのルーシー、さんって、一体どんな人だったんだ?」
「二本脚で歩いて、手を使ってみんなで一緒に働いてて、そこから言語を持つことができて、ちょっと心のようなものがあったと、まぁそんなところかな」
「心のようなもんってどんなもんよ?」
「昔のことをちょっと思い出して、ぼんやりとかも知れないけどそれを振り返ることができて、それを将来に生かしていくのね。ネアンデルタール人とは別種だけど、生きていた時代が重なっているネアンデルタール人のように、仲間が死んだら悲しくってお墓を作ったかも知れない。だから当然、家族愛もあっただろうね。右手が子ども以下に萎縮したままで四十歳まで生きたネアンデルタール人の化石もイラクから出たからね。こういう人が当時の平均年齢より長く生きられた。家族愛があったという証拠になるんだってさ」
横合いから妻が口を出す。
「源氏だとか平氏だとか、農耕民族対狩猟民族だとか、南方系と北方系だとか、敵を探し出してきてはケンカするのが男の人たちってホント好きなんだから。ルーシーさんがきっと泣いてるわよ」
「そんな話は世間を知らん女が言うことだ。『一歩家を出れば、男には七人の敵』、この厳しい国際情勢じゃ誰が味方で誰が敵かをきちんと見極めんと、孫たちが生き残ってはいけんのだ。そもそも俺はなー、遺言を残すつもりで勉強しとるのに、女が横からごちゃごちゃ言うな。親心も分からん奴だ!」
それから一ヶ月ほどたったある日曜日、一郎がふらりと訪ねてきた。いそいそと出された茶などを啜りながら、意を決した感じで、二人っきりの兄妹のもう一方の話を切り出す。
「ハナコに頼まれたんだけどね、付き合ってる男性がいてさー、結婚したいんだって。大学時代の同級生なんだけど、ブラジルからの留学生だった人。どう思う?」
「ブ、ブラジルっ!! 二世か三世かっ?!」
「いや、日系じゃないみたい」
「そ、そんなのっつ、まったーくだめだ。許せるはずがない!」
「やっぱりねー。ハナコは諦めないと言ってたよ。絶縁ってことになるのかな」
「そんなこと言わずに、一度会ってみましょうよ。いい人もいるはずでしょうし」
「アメリカから独立しとるとも言えんようなあんな国民、負け犬根性に決まっとる。留学生ならアメリカかぶれかも知れん。美意識も倫理観もこっちと合うわけがないっ!!」
「あっちの方は黒人とかインディオ系とかいろいろいらっしゃるでしょう?どういう方?」
「全くポルトガル系みたいだよ。すると父さんの嫌いな、白人、狩猟民族ということだし。やっぱり、まぁ難しいのかなぁ」
「私は本人さえ良い人なら、気にしないようにできると思うけど」
「難しいもんだねぇ。二本脚で歩く人類は皆兄弟とは行かんもんかな。『日本精神』なんて、二本脚精神に宗旨替えすればいいんだよ。言いたくないけど、父さんの天皇大好きもどうかと思ってたんだ」
「馬鹿もんっ!!日本に生まれた恩恵だけ受けといて、勝手なことを言うな。天皇制否定もおかしい。神道への冒涜にもなるはずだ。マホメットを冒涜したデンマークの新聞も悪いに決まっとる!」
「ドイツのウェルト紙だったかな、『西洋では風刺が許されていて、冒涜する権利もある』とか言ってた新聞。これは道徳の問題かも知れないけど禁止はできないと言ってるんだと思う。ましてや税金使った一つの制度としての天皇制を否定するのは、誰にでも言えなきゃおかしいよ。国権の主権者が政治思想を表明するという自由の問題ね」
「私はその方にお会いしたいわ。今日のところはハナコにそう言っといて。会いもしないなんて、やっぱりルーシーさんが泣くでしょうねぇ」
「お前がそいつに会うことも、絶対許さーん! 全くどいつもこいつも、世界を知らんわ、親心が分からんわ、世の中一体どうなっとるんだ!!」
と、男は一升瓶を持ち出してコップになみなみと注ぐと、ぐいっと一杯一気に飲み干すのだった。
(06年7月16日の当ブログ初出 再掲)
連れ合いのこんな苦情も聞き流して、定年退職後五年ほどの彼、大和朝廷の淵源調べに余念がない。目下の大変な趣味なのだ。梅の花びらが風に流れてくる、広縁の日だまりの中で、いっぱいに資料を広げている。
「そんな暇があったら、買い物ぐらいしてきてよ。外食ばっかりするくせに一日中そんなことばっかりやってて」
「まぁそう言うな。俺やお前のルーツ探しなんだよ。農耕民族らしくもうちょっとおっとり構えて、和を持って尊しとなすというようにお願いしたいもんですな」
彼の趣味、一寸前まではもう少し下った時代が対象だった。源氏系統の家系図調べに血道を上げていたのだ。初老期に入った男などがよくやるいわゆる先祖調べというやつである。その頃はたびたび、夫婦でこんな会話が交わされていたものだった。
「源氏は質実剛健でいい。平氏はどうもなよなよしていて、いかんな」
「質実剛健って、粗野とも言えるでしょう。なよなよしてるって、私たちと違って繊細で上品ということかも知れない。一郎のが貴方よりはるかに清潔だから、貴方も清潔にしてないと、孫に嫌われるわよ」
こんな夫に業を煮やした奥さん、ある日、下調べを首尾良く終えて、一計を案じた。
「一郎の奥さんの家系を教えてもらったんだけど、どうも平氏らしいわよ」
「いやいやDNAは男で伝わるから、全く問題はない。『世界にも得難い天皇制』は男で繋がっとるんだ。何にも知らん人だな」
「どうせ先祖のあっちこっちで、源氏も平氏もごちゃごちゃに決まってるわよ。孫たちには父親のが大事だってことにも、昔みたいにはならないしさ」
これに対して一応の反論を試みてはいたが、彼の「勉強」がいつしか大和朝廷関連へと移って行ったという出来事があったのだった。
広縁に桜の花びらが流れてくるある日曜日、この夫婦の会話はこんな風に変わった。
「馬鹿ねー、南方系でも、北方系でも、どうせ先祖は同じだわよ」
「お前こそ、馬鹿言え。ポリネシアとモンゴルは全く違うぞ。小錦と朝青龍のようなもんだ。小錦のがおっとりしとるかな。朝青龍はやっぱり騎馬民族だな。ちょっと猛々しい所がある。やっぱり、『伝統と習慣』というやつなんだな」
「おっとりしたモンゴルさんも、ポリネシアさんで猛々しい方もいらっしゃるでしょう。猛々しいとか、おっとりしたとかが何を指すのかも難しいし、それと違う面も一緒に持ってるという人もいっぱいいるわよ。二重人格なんてのもあるしさ」
ところでこの日は仲裁者がいた。長男の一郎である。読んでいた新聞を脇にずらして、おだやかに口を挟む。
「母さんが正しいと思うな。そもそもなんで、南方、北方と分けた時点から始めるの」
「自分にどんな『伝統や習慣』が植え付けられてるかはやっぱり大事だろう。自分探しというやつだ」
「最近の風潮にちょっと腹が立ってるから喋るよ。世界の現世人類すべての先祖は、同じアフリカの女性だという学説が有力みたいだよ。ミトコンドリアDNAの分析なんだけど、仮にルーシーという名前を付けておこうか。二十万年から十二万年ほど前にサハラ以南の東アフリカで生まれた人らしい。まーアダムのお相手イヴとかイザナギの奥さんイザナミみたいなもんかな。自分探しやるなら、そこぐらいから初めて欲しいな」
「えーっつ、たった一人の女? そのルーシー、さんって、一体どんな人だったんだ?」
「二本脚で歩いて、手を使ってみんなで一緒に働いてて、そこから言語を持つことができて、ちょっと心のようなものがあったと、まぁそんなところかな」
「心のようなもんってどんなもんよ?」
「昔のことをちょっと思い出して、ぼんやりとかも知れないけどそれを振り返ることができて、それを将来に生かしていくのね。ネアンデルタール人とは別種だけど、生きていた時代が重なっているネアンデルタール人のように、仲間が死んだら悲しくってお墓を作ったかも知れない。だから当然、家族愛もあっただろうね。右手が子ども以下に萎縮したままで四十歳まで生きたネアンデルタール人の化石もイラクから出たからね。こういう人が当時の平均年齢より長く生きられた。家族愛があったという証拠になるんだってさ」
横合いから妻が口を出す。
「源氏だとか平氏だとか、農耕民族対狩猟民族だとか、南方系と北方系だとか、敵を探し出してきてはケンカするのが男の人たちってホント好きなんだから。ルーシーさんがきっと泣いてるわよ」
「そんな話は世間を知らん女が言うことだ。『一歩家を出れば、男には七人の敵』、この厳しい国際情勢じゃ誰が味方で誰が敵かをきちんと見極めんと、孫たちが生き残ってはいけんのだ。そもそも俺はなー、遺言を残すつもりで勉強しとるのに、女が横からごちゃごちゃ言うな。親心も分からん奴だ!」
それから一ヶ月ほどたったある日曜日、一郎がふらりと訪ねてきた。いそいそと出された茶などを啜りながら、意を決した感じで、二人っきりの兄妹のもう一方の話を切り出す。
「ハナコに頼まれたんだけどね、付き合ってる男性がいてさー、結婚したいんだって。大学時代の同級生なんだけど、ブラジルからの留学生だった人。どう思う?」
「ブ、ブラジルっ!! 二世か三世かっ?!」
「いや、日系じゃないみたい」
「そ、そんなのっつ、まったーくだめだ。許せるはずがない!」
「やっぱりねー。ハナコは諦めないと言ってたよ。絶縁ってことになるのかな」
「そんなこと言わずに、一度会ってみましょうよ。いい人もいるはずでしょうし」
「アメリカから独立しとるとも言えんようなあんな国民、負け犬根性に決まっとる。留学生ならアメリカかぶれかも知れん。美意識も倫理観もこっちと合うわけがないっ!!」
「あっちの方は黒人とかインディオ系とかいろいろいらっしゃるでしょう?どういう方?」
「全くポルトガル系みたいだよ。すると父さんの嫌いな、白人、狩猟民族ということだし。やっぱり、まぁ難しいのかなぁ」
「私は本人さえ良い人なら、気にしないようにできると思うけど」
「難しいもんだねぇ。二本脚で歩く人類は皆兄弟とは行かんもんかな。『日本精神』なんて、二本脚精神に宗旨替えすればいいんだよ。言いたくないけど、父さんの天皇大好きもどうかと思ってたんだ」
「馬鹿もんっ!!日本に生まれた恩恵だけ受けといて、勝手なことを言うな。天皇制否定もおかしい。神道への冒涜にもなるはずだ。マホメットを冒涜したデンマークの新聞も悪いに決まっとる!」
「ドイツのウェルト紙だったかな、『西洋では風刺が許されていて、冒涜する権利もある』とか言ってた新聞。これは道徳の問題かも知れないけど禁止はできないと言ってるんだと思う。ましてや税金使った一つの制度としての天皇制を否定するのは、誰にでも言えなきゃおかしいよ。国権の主権者が政治思想を表明するという自由の問題ね」
「私はその方にお会いしたいわ。今日のところはハナコにそう言っといて。会いもしないなんて、やっぱりルーシーさんが泣くでしょうねぇ」
「お前がそいつに会うことも、絶対許さーん! 全くどいつもこいつも、世界を知らんわ、親心が分からんわ、世の中一体どうなっとるんだ!!」
と、男は一升瓶を持ち出してコップになみなみと注ぐと、ぐいっと一杯一気に飲み干すのだった。
(06年7月16日の当ブログ初出 再掲)