毎日新聞夕刊 執筆原稿から
「ほんものの民主主義」元年に 地方分権が住民を鍛える
(裏金、官製談合、破綻の教訓)
地方自治に関(かか)わる者にとって、2006年は大変厳しい年であった。地方分権の推進という観点からは、小泉政権時代に始まった「三位一体改革」の第一幕が茶番劇に近い尻切れトンボで前年に閉じた後、第二幕の開幕ベルを聞かないうちに1年が終わってしまった。
年の後半には、地方分権という前向きの課題よりも、官製談合による知事の相次ぐ逮捕のほうが、社会の注目を浴びた。地方自治体関係者にとっては、衝撃と屈辱の連続である。岐阜県庁、長崎県庁で発覚した裏金問題は、宮城県庁では平成7年(1995年)に全庁的調査で明らかにして、謝罪、処分に続いて裏金の返還までのけじめをつけた経験をした立場からは、「何で今頃(いまごろ)?」という感慨を持ってしまう。
福島県、和歌山県、宮崎県の官製談合については、共通点が多い。知事本人ではなく、親戚(しんせき)、友人、県庁幹部といった側近の逮捕から始まって、「天の声」が側近によって間接的に発せられて談合が成り立つという構図が明らかにされた。直前の選挙で人、金、車、票を出してもらった借りを返すために、公共工事の入札に関して便宜を図る図式も共通である。そもそもが、談合に関しての認識の甘さも、これら3県で同様に見られた。業者は談合を「必要悪」程度にしか見ていないとしても、発注者である県庁側までもが同様の見方では、どうにもならない。納税者という被害者がいることがこんなにも軽く見られている。
□ ■
公共事業の執行において当たり前のように行われてきた談合の根絶のためには、知事として相当の覚悟と実行力が必要とされる。知事が談合に関わらないだけでは足りない。県庁組織、側近にまで、「談合は犯罪である」ということを徹底させる義務がある。そのことを前提にしての入札契約制度の改革である。宮城県や長野県がやったように、一般競争入札を原則とするというのが、談合の温床を排除するという意味で絶対に必要である。
知事選挙でお金がかかるということは、今や決して常識ではない。議員選挙を長年支えてきた「選挙のプロ」の解説を真に受けてはならない。有権者の意識も見方も変化している。ドロドロの人間関係としがらみの中で、貸し借り関係の恩義を作るような知事選挙でなくとも、立派に勝てる道はある。候補者たるもの、選挙のプロにすべて任せて、お神輿(みこし)に乗っているだけの選挙でよしとしてはならない。借りた恩義には、知事になった後にきちんと返すのが人の道だろう。それがいやなら、最初から借りを作らないのがいい。
地方自治の舞台で、役者は派手にこけてしまった。問題は次への展望である。転んでも只(ただ)では起きない。宮城県では、裏金問題で転んだ後、情報公開を手にして立ち上がった。私が知事に選ばれた13年前の出直し知事選挙では、「みやぎに誇りを取り戻そう」の誓いを持って立ち直った。今回の相次ぐ知事逮捕で転んだ後には、「談合許すまじ」のシステムづくりを持って立ち上がるしかない。
転んだ痛みは、住民も同じ。納税者のお金が、裏金に消え、談合で簒奪(さんだつ)されている。夕張市では、財政破綻(はたん)により、市民生活を直撃している。このことに住民が怒り、嘆くことで、これからどうすべきかが見えてくる。
事件が起きていない自治体住民にとっては、明日は我が身である。だから、地方自治体の運営を知事や市長にお任せではダメだということになる。議会がチェックしないのが悪いといっても、その議会議員を選んだのも住民である。選挙で投票すること以上に、もっと関心を示し、行動を起こすべきである。
□ ■
財政破綻も含めて、地方自治体の不祥事に共通するのは、住民側から見れば、自分たちの払った税金がいかに無駄に無益に使われているかということである。税金の使われ方について、もっと関心を高めなければならない。
三位一体改革における国庫補助金の廃止の趣旨は、自治体の施策が国庫補助金で裏打ちされているために、住民ががんばらないでも施策は実施されてしまうという安易なシステムを壊そうということである。住民が自治体の施策、お金の使われ方に関心を持って自治体に要求しなければ、自治体は大事な施策の実施に手を抜くかもしれないという住民の緊張感こそが、「ほんものの民主主義」を育てるゆえんである。
このことを考えれば、「自治体での不祥事が続いている現状では、地方分権の推進はストップしたほうがいい」という論が、いかにおかしいかがわかる。自治体の不祥事をなくすには、住民の厳しい目が必要であり、その厳しい目を鍛えるのが地方分権である。
今年こそは、住民が自分たちの持っているパワーを示す年にしなければならない。地方自治への無関心のつけは、結局は自分たちに帰ってくる。ほんものの民主主義を根づかせるためには、我関せずのお任せではならない。そのためにも、私は今年も声を上げ続けたいと考えている。
「ほんものの民主主義」元年に 地方分権が住民を鍛える
(裏金、官製談合、破綻の教訓)
地方自治に関(かか)わる者にとって、2006年は大変厳しい年であった。地方分権の推進という観点からは、小泉政権時代に始まった「三位一体改革」の第一幕が茶番劇に近い尻切れトンボで前年に閉じた後、第二幕の開幕ベルを聞かないうちに1年が終わってしまった。
年の後半には、地方分権という前向きの課題よりも、官製談合による知事の相次ぐ逮捕のほうが、社会の注目を浴びた。地方自治体関係者にとっては、衝撃と屈辱の連続である。岐阜県庁、長崎県庁で発覚した裏金問題は、宮城県庁では平成7年(1995年)に全庁的調査で明らかにして、謝罪、処分に続いて裏金の返還までのけじめをつけた経験をした立場からは、「何で今頃(いまごろ)?」という感慨を持ってしまう。
福島県、和歌山県、宮崎県の官製談合については、共通点が多い。知事本人ではなく、親戚(しんせき)、友人、県庁幹部といった側近の逮捕から始まって、「天の声」が側近によって間接的に発せられて談合が成り立つという構図が明らかにされた。直前の選挙で人、金、車、票を出してもらった借りを返すために、公共工事の入札に関して便宜を図る図式も共通である。そもそもが、談合に関しての認識の甘さも、これら3県で同様に見られた。業者は談合を「必要悪」程度にしか見ていないとしても、発注者である県庁側までもが同様の見方では、どうにもならない。納税者という被害者がいることがこんなにも軽く見られている。
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公共事業の執行において当たり前のように行われてきた談合の根絶のためには、知事として相当の覚悟と実行力が必要とされる。知事が談合に関わらないだけでは足りない。県庁組織、側近にまで、「談合は犯罪である」ということを徹底させる義務がある。そのことを前提にしての入札契約制度の改革である。宮城県や長野県がやったように、一般競争入札を原則とするというのが、談合の温床を排除するという意味で絶対に必要である。
知事選挙でお金がかかるということは、今や決して常識ではない。議員選挙を長年支えてきた「選挙のプロ」の解説を真に受けてはならない。有権者の意識も見方も変化している。ドロドロの人間関係としがらみの中で、貸し借り関係の恩義を作るような知事選挙でなくとも、立派に勝てる道はある。候補者たるもの、選挙のプロにすべて任せて、お神輿(みこし)に乗っているだけの選挙でよしとしてはならない。借りた恩義には、知事になった後にきちんと返すのが人の道だろう。それがいやなら、最初から借りを作らないのがいい。
地方自治の舞台で、役者は派手にこけてしまった。問題は次への展望である。転んでも只(ただ)では起きない。宮城県では、裏金問題で転んだ後、情報公開を手にして立ち上がった。私が知事に選ばれた13年前の出直し知事選挙では、「みやぎに誇りを取り戻そう」の誓いを持って立ち直った。今回の相次ぐ知事逮捕で転んだ後には、「談合許すまじ」のシステムづくりを持って立ち上がるしかない。
転んだ痛みは、住民も同じ。納税者のお金が、裏金に消え、談合で簒奪(さんだつ)されている。夕張市では、財政破綻(はたん)により、市民生活を直撃している。このことに住民が怒り、嘆くことで、これからどうすべきかが見えてくる。
事件が起きていない自治体住民にとっては、明日は我が身である。だから、地方自治体の運営を知事や市長にお任せではダメだということになる。議会がチェックしないのが悪いといっても、その議会議員を選んだのも住民である。選挙で投票すること以上に、もっと関心を示し、行動を起こすべきである。
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財政破綻も含めて、地方自治体の不祥事に共通するのは、住民側から見れば、自分たちの払った税金がいかに無駄に無益に使われているかということである。税金の使われ方について、もっと関心を高めなければならない。
三位一体改革における国庫補助金の廃止の趣旨は、自治体の施策が国庫補助金で裏打ちされているために、住民ががんばらないでも施策は実施されてしまうという安易なシステムを壊そうということである。住民が自治体の施策、お金の使われ方に関心を持って自治体に要求しなければ、自治体は大事な施策の実施に手を抜くかもしれないという住民の緊張感こそが、「ほんものの民主主義」を育てるゆえんである。
このことを考えれば、「自治体での不祥事が続いている現状では、地方分権の推進はストップしたほうがいい」という論が、いかにおかしいかがわかる。自治体の不祥事をなくすには、住民の厳しい目が必要であり、その厳しい目を鍛えるのが地方分権である。
今年こそは、住民が自分たちの持っているパワーを示す年にしなければならない。地方自治への無関心のつけは、結局は自分たちに帰ってくる。ほんものの民主主義を根づかせるためには、我関せずのお任せではならない。そのためにも、私は今年も声を上げ続けたいと考えている。