不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

「歳々年々人同じからず」終回  文科系

2007年03月18日 21時51分08秒 | Weblog
(四)
 ボケが咲き続けている間に、白木蓮が開き、散りかけ、庭の一角がユキヤナギで白くなり始めた。透明に通り過ぎていった大気が今は、この大都会に生き残った土や草木そして人の中へも、入り込んでいくようだ。そんな季節、日曜日の昼近く。
 「お祖母ちゃん、一番だけ訳せたよ」
 太一が、離れの加代子の家を訪れてきた。
 「ほんとに、ありがと。すぐに読んでくれるかな。というより、好きなように朗読してもらおうかね」
 太一は何も言わず、一句一句を切り、抑揚もなくゆっくりと読み始めた。〈照れてるんだ、この子。でも、まんざらでもないみたいで、ほんとに良かった。心臓の辺が暖かくなったな〉、加代子は心臓の上に本当に手の平を押し当て、やせた肉の下の弾みを確かめてみた。
 懐かしいバージニアへ、俺を連れ戻してくれ
 そこには、綿やトウモロコシやジャガイモが生えている場所がある
 春に鳥たちがさえずり交わす場所も
 年寄りの黒んぼのこの俺の心が、行きたいと疼いている場所も
 黄色いトウモロコシ畑で来る日も来る日もあんなに汗流して
ご主人にお仕えしたその場所も
 俺が生まれたバージニアほどに心底好きな所は
 この世のどこにもありゃしない (注)

 「やっぱり太一くんに頼んでみて、良かった。そのままの訳をしてくれたみたいで、この歌の感じがほんとによく出てるんじゃないかなぁ。二番は?」
 「ちょっと考えてるとこがあって。もう少し待ってくれる?」
 「ご主人様夫婦もずーっと前に死んじゃったし、私が朽ち果てるまであそこで暮らさせてくれとかいう所があるでしょう?ほんとに良い歌ねぇ。それに太一くんきっと、文学の才能があると思うわ」
 「この歌の、そこの所が好きなわけ?」
 「自分の死ということを考え始めた人って古今東西、どういうわけか故郷を考えるらしいんだね。何故だろうねぇ。この歌はその見本みたいなものだけど」
 ちょっとの間を置いて、太一。「無邪気に遊んだ頃の風景や物が懐かしいんじゃないかなぁ」
 「それをどうして特に八十過ぎてから、よく思い出すんだろう?」、問う加代子。
 「お祖母ちゃんは、渥美半島の田原だった?その何を思い出すの?」、太一の逆質問だ。
 「町で遊んで帰る川沿いの道から見た夕焼けの蔵王山。何でもないことでもね、例えば、遊び途中の雨宿りで、ガラス戸越しにうらめしく外を見てる私。その目の前で、板ガラスをするすると落ちてく雨垂れ」、ゆっくりと今朝の夢を話すような、加代子である。
「夕焼けは何となくわかるなぁ。そう言えば、山ん中の小っちゃいなんか、お墓が村全部を見渡せる丘なんかによくあるね。それこそ、夕焼けに照らされてたりして。死んだ人がそうしてくれと言ったのか、残った人が村全部を見続けさせてやろうと思ったんだろうか?」、太一が立ち入ってきた。
 「残った人がちょっと顔を上げると見える場所だから、逝った人の、いつも思い出してねという願いなんじゃないかねぇ」、加代子がゆっくりと、応えた。
 「死んだ人の思い出は、残っても後の三代までで、以後は跡形もないよ!」、珍しく強い調子の、太一の言葉だ。
 「ちょっと庭に出ない?手伝って欲しいことがあるんだけど」、一瞬間を置いた後、ふるえているような細い声で加代子が話の方向を変えた。
 「うん、いいよ」
 加代子は、その返事に口許をゆるめ、曲がった腰で足早に庭へ出て行く。その後を、ひょろっとした太一がやはりまんざらでもないといった顔をして大股でついて行く。

 ついさっきから、春休みで家に帰っている千草にピアノを頼んで、恵子のフルートと省治のバイオリンとのトリオが始まっていた。省治は三年ほど前から三十年ぶりくらいで本格的にこの楽器に触ってきた。そして、娘の上手くなったピアノや恵子のフルートと合わせるとき、むかし母にこれを習わされたことがこんなに幸せなことだったかと、初めて振り返ることができた。
 他方、庭に出た加代子の方は、耳にトリオの音が届くようになったとき、こんなことが頭をかすめていた。
 〈夫婦二人だけのいつものように、昔懐かしい世界愛奏歌集ってところだけど、三人になると恵子さんの音が躓くのがはっきりしちゃうね。四十半ばからの手習いはリズム合わせがどうしても壁になるんだねぇ。それにしても恵子さん、共稼ぎなのによく頑張る、普通の曲ならもう初見で吹けるようになったものなぁ。千草は、曲の好き嫌いもろ出しで気の向くままにアドリブやってるけど、不思議とタンゴは乗るみたいだね〉

十分ほど後、脚立から白木蓮の古木に登り込んだ太一が、太目の枝にのこぎりを引いていた。
 ジャージ姿に着替えている。不器用に曲げられて持て余される長い膝、両頬の横に垂れている数本の汗、懸命な顔だ。省治が、外の物音を聞きつけ、二階から顔を出して、笑っていた。〈下の加代子さんの方は、両手を傘のようにして、目を細め、落ちてくる花の残骸を避けるように右往左往してるけど、太一を心配して心底おろおろしてるんだね、あれは〉

 夕方近くなった。窓辺に加代子がビールを出し、太一と飲み始めている。
 「さっき、夕焼けは何となく分かるなぁって言ったけど、じーんと来たような夕焼けが何かあったのかい?」
 加代子の先ほどの話の続きらしい。
 「ちょっとはね」
 「他に、山とか川とか、それに海とかで、そんな体験はある?」、さりげなく話しているが、緊張した加代子の質問だ。
 「そりゃぁ、いくつかはあるよ。例えば、父さんに渓流釣りに連れてかれて、山の斜面を下るすごく急な流れを登ってく時、下から見上げた空なんか」
 「どんな空?」
 「五月頃の、新緑ってのかなぁ、とにかく上に大木の葉っぱやごろごろした大岩があって、その向こうにあった空なんだけど」
 「私はねぇ、私のそういう景色のいくつかの中で、こんな所でなら、あの歌の二番にあるようにそこで死んでそのまま腐ってってもいいなぁと、そんなふうに思うことがあるんだよ」、加代子は言い切った。太一は、加代子の目を一瞬見つめ、黙っていた。
 「松尾芭蕉の辞世の句って知ってるかね?」、加代子の追加、ずっと考え、探してきた質問なのだ。
 「うん、旅に病んで夢は枯野をかけめぐる、でしょう?」、誇らしげに答え終えたそのとたん、うんっと、太一。加代子が黙っているのを確かめるようにして、そのまま続けた。
 「この辞世の句、お祖母ちゃんがいま言ったことに似てるね。どんな枯野で死に腐ってってもいいかって、探してきたんだろうか、この人?」
 〈あの「浪速のことは夢のまた夢」とは、同じように辞世と言い、同じ「夢」という言葉が入ってもひどく違う〉、太一は瞬時にそうひらめきながらたずねていたのだった。
 一瞬間を置いて、加代子。
 「私は勝手に同類だと考えてるんだけどねぇ」
 コップをゆっくりと飲み干して、肘掛けに運んだ太一。

 加代子はこの時、心臓の一拍一拍が弾んでいると随分久しぶりに感じられ、半ば無意識にそこへ手の平を持っていきながら、続けていた。
 「太一くん、しばらく私の本家にでも居候して、花鳥風月なんかに遊ばせてもらってきたら?私のこの感じ方のずっと先へ行くかもしれないよ。太一の人生、まだまだ長いんだし」
 「花鳥風月って、風流の世界というようなことだろ。それと付き合えって?あれっ、この言葉、『エコロジー』に似てるね」、後半は、太一のほとんど独り言だった。
 「エコロジーって、よく聞くけど、何か分からない言葉だよ。どこが似てるんだね?」、落ち着いた、柔らかい声である。
 「人間も加えて、動物の環境の学問のこと。花鳥風月だってこんな感じもない?花を鳥が食べ、鳥を風が運び、風は雲も運んで月やお日様を見せたり隠したり、それでまた、花や鳥が喜んだり困ったり、どう?それに、エコロジーも花鳥風月も、人間だけが特別じゃないよ、自然が私だよという感じもあるし」
 「へーっ、太一には花鳥風月がそうなるのかね。でも、二つは同じ、本当のことだよ、きっと。それじゃ今晩、私らのエコロジーの歌、バージニアでも、向こうの三人にやってもらおうかねぇ」
 いつも人の目をまともに見ない太一が、祖母の目をもう一度見つめて、眩しくて顔をしかめるというように、微笑んだ。
 〈この間まで、よく泣いたし、おとなしいだけだと思ってた太一がねぇ。こんなことを言うようになったよ。はやいもんだ。案外、この子の問題もこの方向で解いてくかもしれないねぇ。太一の中からこの先、何が出てくるか私には全く分かったもんじゃないね〉
 加代子が心でそうつぶやき終わったとき、庭の一角がふっとその目に入ってきた。夕焼けがユキヤナギに当たり、その前の土の上で数羽の雀が何かをついばんでいたのである。

(終わり)

(注)この歌、J.A.Bland作詞作曲 ”Carry Me Back to Old Virginny”が、1997年1月28日、アメリカ・バージニア州上院議会で州歌廃棄となったという事実を筆者は承知している。「黒んぼ」と「ご主人様」の二語が人種差別用語だという理由らしい。当事者が「不愉快だ」と決めたのだから、部外者に言うべき事はないが、以下の理由でこういう歌を敢えて使わせていただいた。この歌が、人の晩年の、この世への恩讐を越えた懐かしさを歌っているように思うからである。なお、この歌の作詞作曲者が黒人の方であるということも付記しておく。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする