海側生活

「今さら」ではなく「今から」

池に散る紅葉

2016年12月14日 | 鎌倉散策

(妙本寺/鎌倉)
鎌倉の紅葉は、他の地域に比べあまり良くない、キレイでない。
潮風と温暖な気候のため、紅葉する前に、葉の先端が縮んだり、白っぽく乾いたりして、鮮やかな錦を重ねたようにはならない。モミジは急激な温度の変化に会い、落葉樹の青い葉が生々しいままで、落葉の寸前に紅変黄変するものである。

それでも大きな木立が今なお残る、境内が広い寺社を歩いていると、思わず「あっ」と声を漏らしそうになる見事な紅葉を見ることがある。
妙本寺は鎌倉駅に近いが三方を山に囲まれ深山幽谷の趣が今なお残っている大寺だ。参道の両側には 鬱蒼と樹々が茂り、石段の手前で二天門を仰ぐあたりの景観は、思わず足を止め見入ってしまう。

ここは比企一族が滅亡した悲劇の場所で一族の墓地がある。
比企能員(ひきよしかず)は頼朝の挙兵以来の功臣であるが、その養母・比企尼(ひきのあま)は、源頼朝が伊豆に流されていた頃から20年間、乳母として生活物資を送り続けたことは良く知られている。頼朝夫人・政子が将軍家嫡男・頼家を出産すると能員の妻(比企尼の娘)は頼家の乳母になる。頼家の成人後に能員の娘・若狭局は頼家の寵愛を受け一幡(いちまん)を生む。能員は二代将軍・頼家の外戚として権勢を増した。一方、頼家の弟・千幡(せんまん、後の三代将軍・実朝、乳母は阿波局(あわのつぼね・政子の妹)を擁立して実権を握ろうとする北条時政(政子の父)と対立する。この対立は一幡が6歳の時、比企一族の滅亡で終わった。

今、二天門寄りの右手の低い竹垣に囲まれた一隅に一幡の塚がある。

また、本堂の左手奥には蛇苦止堂(じゃくしどう)には若狭局を祀ってある。その右手には滅亡の際に運命を共にし、家宝を抱いて身を投げた言い伝えられる蛇形の井がある。井戸と言うより大きくはないが池に見える。池一面には葉が散り敷いて、濃く淡く重なり合った黄葉紅葉が水に揺れる様は、木々の紅葉よりも優美かもしれない。

訪れる度に一幡の塚に、思わず手を合わせてしまう。
鎌倉にはお寺の数だけ「やりきれない寂しい史実」が残っている。

最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
悲劇の数=寺の数 (宮本靖夫)
2016-12-15 10:48:58

  冬日差し悲劇の数の寺の在り

言われてみると、なるほどと思いました。鎌倉や京都は為政者が沢山居た為と単純に寺の数も多いのかと思っていましたが、それだけ悲劇があったのですね。だいたい嬉しい時、楽しい時には寺は建てませんものね。勉強になりました。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。