(今日も海を見る)
我輩は“にゃおん”である。
風も冷たくなった去年の年の瀬も押し迫った昼下がりだった。いつものように、ある家のお気に入りの塀の上に寝そべったまま、和歌江ノ島や富士山方面の海を眺めていた。男の人が通り掛かった。この海沿いの細い道は普段は余り人も通らない静かな散歩道だ。
男の人は顔が丸っこくて、メガネの奥に見える目がいかにも優しそうだ。思わず特別の意味も無く『ニャーン』と声を上げた。男の人は僕を見上げ、すかさず『にゃおん』と挨拶を返してきた。つい僕は塀の上から飛び降り、男の人の足の周りを立てた尻尾を巻くように『ニャーン』と甘え声で二三度回った。
それから殆ど毎日、昼下がりになるとそんな触れ合いが続いた。一緒に過ごす安らぎは何ものにも例えようがない。
でも別れの時間が来る。男の人が自分の住まいに帰る時、僕はテリトリーの一番端までついて行く。そして座る。男の人は『バイバイ』と頭を撫でる。何だか名残惜しそうだ。男の人は何度も振り返り手を振っている。やがて姿が見えなくなる。『また捨てられるのか』と不安が掠める。いつまでも座り続けていた。
その頃の僕は一人で居るのが寂しかった。食事にも困っていた。時々は近所の人からペットフードや水を貰った。しかしいつもお腹が空いていた。このテリトリーで新入りの僕は仲間とのトラブルも絶えなかった。また雨が降り続く日は、跳ね返りの雨を身体中に浴びながら、お堂の軒下で何度も朝を迎えた。
男の人は、僕の事を近所の人達に聞いて回ったらしい。
『優しい猫ですよ』、『私も大好き』、『二年ほど前、突然に見かけるようになった』等と様々な感想を聞き込んだらしい。
今年の春先、僕は男の人のマンションが自分の居場所になった。
男の人は海に突き出たマンションを仕事場にしている。テレビや映画の脚本家でかなり忙しそうだ。しかも監督は芸術性を求め、ディレクターは視聴率を追い、俳優は自分が目立つ要求をするし、立場によって注文が違うらしい。微妙な書き直し作業を繰り返しているようだ。
ネコの手を借りたいと言われても、僕はそんなストレスを感じるような事には手を染めたくない。しかし男の人の書く手が止まったままになる時がある。そんな時はうんと甘え、一緒に遊んであげる。
男の人は毎日散歩に出掛ける。僕は玄関でバギーに飛び乗る。10分も行くと昔からのテリトリーで、お気に入りの海沿いの公園だ。その海側の大きなアメリカデイゴの樹の陰にバギーが止まる。それからはお互いに干渉しない自由の時間だ。僕はテリトリー巡回に出掛ける。男の人はその間、潮風を受けながら本を読む。たまに椅子でウトウトと居眠りをしている。
僕が巡回から戻ると男の人は椅子から立ち上がり『お帰り!パトロールお疲れ様』って優しく迎えてくれる。
しかしバギーに戻っても、男の人が居ない時がある。そんな時は近くのカフェで食事を摂りながら、僕と同じくらい眼が愛くるしい店主相手に、疲れたココロを癒しているに違いない。僕は邪魔しない。男の人の匂いが残っている椅子に寝そべったり、側の樹に昇り、男の人が戻るまで好きな海を眺めている。
悩みもある。男の人は、僕が座った後ろ姿を見て、まるで洋梨みたいになったと言う。意味は良くは分らない。しかし男の人と暮らすようになってから身体が重くなったと感じている。
この出会いは、僕の一生を大きく変えたに違いない。
※立ち居振る舞が芸術的とも思える凛とした猫に出会った。つい“にゃおん”の気持ちを計ってみた。
夏は暑く冬は寒いことが日本の景気を良くする元だそうですが、秋の暑いのはどうなんでしょうか。りんごなどは良く実がつくそうですが、キャベツや白菜は出来すぎて農家では困っているようです。東京の水瓶も底をついているそうで、そろそろ秋雨がほしいところでしょう。
なかなか品のいい猫ですね。野良だったとか、近くで見ると目にその片鱗が残っています。
人間の目も生活がでるそうで、気をつけなくては。