(浄智寺/鎌倉)
夏祭りの天王祭を今週末に控え、お囃子の練習用の音楽が今日も浜に鳴り響いている。
町内会の幼い15人ぐらいの子供達が、縄を巻きつけた太い丸太を太鼓代わりに叩いている。見ると本物の太鼓は二個しかない。小学高学年生や中学生は笛の練習に余念が無い。聞くと六つの町内毎にお囃子のリズムが皆違うらしい。指南役の大人達は捻り鉢巻の下から汗が滲み出ている。少し離れた所から子供達の母親達が、その風景を眺めている。
現代の都市開発から取り残され、古い習慣や風習が今でも色濃く残っているこの小さなひなびた港町でも、『随分行事の規模が小さくなった、子供の数も少なくなった』と世話役は嘆く。
幼い子供達のキラキラと輝く瞳と、額に光る汗を見て考えてしまった。
行事は季節と風土をどんな風に解釈するかにあり、同時に日本人とは何だ!を知ることである。
そしてカレンダーによって行われる行事は、日本中がどこでも似ているようで、地方により、更に家によって、独特の継承があるところに意味があった。「我が家の流儀」に価値があるのである。
現代、家庭と言う概念が崩壊したと嘆かれる時代だが、それは各々の家の伝統とか伝承を持たないが故のアイデンティティ-のなさのよるものではないか。第一「我が家」と言う言葉が死語に近い。
現在は誰の流儀によるのか、企業の戦略や広告によって日本中が同じプレゼントをし、同じものを飲み、お祭り気分にさせられている。これでは何にもならない。「我が家」の心のリレー的なものが行われなければ、アイデンティティーは継承されないのではないか。
「我が家」で伝えたいもの、伝えるべきものは何か。