海側生活

「今さら」ではなく「今から」

どこに向かうか

2011年03月08日 | 感じるまま

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「何をしないか」を生活信条にしようと決めてから一年も過ぎた。
しかし長い間「何をするか」と常に考えてきた生活から「何をしないか」に切り替えるのには様々なことがあった。

これまで習慣で行っていた事を止めたり、考えてきた事を止めたりする事は大変な勇気や決心が必要とする場合がある。特に相手がある場合は、付き合いが悪いと言われる程度ならまだ笑って済ませられるが、我侭だとか身勝手だとか言われると「本当にそうなのかも知れない」と一瞬ひるんでしまう時がある。そんな時自分は「何をしないか」の生き方に変えたと説明しても短時間では理解は得られないと思うと、些か気が滅入る事もある。

それでも趣味の歴史散策だけは欠かさない。季節の変わり目は街中と違い、人里を離れた山間にはシャッターチャンスも多い。

鎌倉には高い山が無く、低い山々が材木座海岸を包むように連なっている。 
山々は多くの谷を抱えている。ここでは人は谷を“やつ”と呼ぶ。源頼朝の父・義朝の邸は「亀ガ谷」にあったし、日蓮上人が『立正安国論』を書いたと言う安国論寺は「松葉ガ谷」、『十六夜日記』の阿仏尼が住んだ「月影ガ谷」、その他「扇ガ谷」、「獅子舞ガ谷」、「比企ガ谷」などと66箇所もある。
それらの谷の一つ「紅葉ガ谷」は、上り坂の道沿いに小川が流れ、時期によっては季節の小さな花々が咲いていたりする。小川の底の水草、水辺の苔など一つ一つが古く日本の風景だが、名の通り秋は紅葉が一段と映える。この谷の突き当たりに瑞泉寺がある。

本堂裏手にそれほど広くはないスペースに、一切の無駄を省き、岩と水だけで作られた禅の庭だと言うのがある。作庭は夢窓礎石と伝えられている。南北朝時代の禅宗様式の庭を代表するものらしい。

もう何度目だろう、ここに足を運ぶのは。季節が変わる度に来ている。
自分は庭の事は分からないが、鎌倉石(凝灰岩)の岩盤を削って池を配した簡素な庭園である。日本庭園によく見られる庭石や灯篭も無い。引き算の庭とも呼ばれている。

「何をしないか」と言う事は、従来、行ってきた事や考えてきた事を単に止めるだけではなく、それらに付帯していたであろう全てを意識して止めたり或いは捨てたりする必要がある。それらは自然に消えていくものではない。さらに場合によっては、それらを無理にでも削り取る事によって、生来の自分を改めて知る。そして今、「何をしなければならないか」が見えてくる。

庭を観ながら何となく気付かされたような気がする。
自分は来た道ばかりを気にしていたが、どこに向かうかが大切だ。


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1 コメント

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        傾きし苔の石段春めけり (宮本靖夫)
2011-03-08 11:44:28
        傾きし苔の石段春めけり
重みのあるエッセイになりましたね。しないことを探していることは実はするべきことを探していることだった。含蓄のある言葉だと思います。
そして、写真の石段も味わいのある写真です。古の人々が歩いた階段を自分も歩こうとしている。命のつながりを感じさせます。
100年後の人も又同じこと感じて、この石段の前に立つのでしょうか。
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