(霧に隠れた七里ヶ浜/鎌倉)
「冬本番ですね、秋が短かったです、そのためか今年は本も読めませんでした」と知人が言った。
本を読むのに季節を考えたことはないが、長い間、頭の端っこに引っかかっていた人の資料を最近読み漁った。
困難が身に降りかかった際に思わず脳裏をよぎる「言葉」の背景を詳しく知りたくなった。
『憂きことのなおこの上に積もれかし 限りある身の力ためさん』
安土桃山時代、尼子氏の武将で、毛利家に滅ぼされた主家の再興を図り、圧倒的に優勢な毛利家に対して、最後まで戦い続けた山中鹿之助の作と伝えられる。実際は陽明学者・熊沢蕃山の作という説もあるらしい。
苦難に対して『我に七難八苦を与えたまえ』と三日月に祈ったと言う山中鹿之助の真似は到底、自分には出来ないが、可能性の限界に挑み続ける彼の姿勢には以前から共感を覚えていた。
この「言葉」は、勤めていた時の会社の創業者で代表のS,Yさんが入社式で新入社員を前にして、自分の座右の銘として紹介していた。役職者の一人として壇上に座り、代表の背中越しに新入社員を見渡しながら「今年も昨年と同じ言葉だな」と深くは考える事無く聴いていた。
独立系の会社で、高度成長期の波にも乗り短期間にマンションのトップメーカーになった。
彼は第二次世界大戦の際、シベリア抑留生活を経験し帰国できた後、数年で創業した。
解り易い経営方針だった。業界でナンバーワンに成ることだった。多くを語らず目的を指示し、そのための権限と予算を与えられた。当然、権限と等しい責任は付き物だった。
給与や待遇は、業界はもとよりどの産業界よりも高かった。自分も寝食を忘れるほどビジネスに没頭した。
健康管理にも徹底した人だった、時間が許す限りのランニングを始め、食べ物・嗜好品の選別や就寝時間など。またビジネスを離れたら、他人に対し気配りが充分な人だった。
様々な経済の変化に揉まれ一線を離れたが、現在も健やかだ。
自分の判断基準に彼の様々な考え方が刷り込まれている。過ぎ去った長いビジネス人生でも、そして現在でも。
特に困難に遭遇した時は呪文のように、この「言葉」が口をついてくる。
忘れられないこの言葉を目の前に据え置き、ジッと眺めてみると、自分の性格に合った「言葉」に出会ったものだと、この年の瀬に感慨に耽った。
正に“我が師”。