(紫式部/大巧寺)
朝夕の涼しさにホッとして、やっと猛暑から解放かと気を緩めているとまた暑さがぶり返してくる。
残暑は夏の思い出探しの時、という何かのコマーシャルコピーに出会っても、それどころではない行動が鈍る暑さだった。
でも、この涼しくなる季節だと、過ぎし日に想いを馳せる。
酒場で飲んでいると、十時ころまでは時間は遅々として進まない。時計を見てまだこんな時間かと思う、夜は長い。十時ころまでは酒場では時間はユックリ流れる。隣り合った人も同じ感じを持っていた。ところが十時を過ぎると十二時までは、アッという間である。乗り物の終電時間である。なぜ時間が変身したようになるのかは分かっている。十時頃になると、酔いも適当に回り、酒場のママがまるで天女のように見えてくる。カラオケも自分の声がまるでプロが歌っているのかと上手に聞こえるような錯覚をする。しかもカウンターの左右の客が無二の親友のように思われてくるからに違いない。そうなると家がなんだ、女房子供がなんだ、男は仕事第一だ、付き合いが大事だと酔っ払う事を正当化する。終電に間に合わなくても良い、タクシーで帰る。
秋の夜長は酒がシミジミ美味い。蕎麦屋で飲む熱燗、イタリア料理屋で飲むワイン、酒場で飲むウイスキー、縄のれんで飲む焼酎などどれも良い。
しかし今年もあと三か月余りしかないことを肌でヒシヒシと感じている。日一日が加速してゆくように早く過ぎるのを意識してしまう。
何が秋の夜長か。そうではあるが、客が皆去ってしまった酒場で、一人ウイスキーの水割りをチビチビ飲んでいると、シミジミとした気分になる。少年老いやすく、人生は儚いなどと当たり前のことが頭を過る。
さっきまで天女みたいだったマダムも疲れた中年女に戻っている。
幸いにも急げばまだ終電に間に合う。酒場を出ると駅に急ぐ人がゾロゾロ歩いている。ふと見上げれば雲間から半月が何だか寂しげに顔を出している。街中なのにコオロギや鈴虫の鳴き声が聞こえてくる。
秋、九月。一年で一番好きな月だ。
ノンアルコールしか飲めない今は、酒場には足が自然に遠ざかってしまった。
今日はまた暑い。春先に使われることが多い言葉の三寒四温ならぬ、今を、三暑四涼とでも名付けよう。