OLD WAVE

サイケおやじの生活と音楽

リンダ・ロンシュタットがブレイクした頃

2011-09-30 14:58:42 | Rock

ダイスをころがせ c/w 花嫁にはなれない / Linda Ronstadt (Asylum / ワーナー)

1970年代を代表する女性ボーカリストとして、リンダ・ロンシュタットはウエストコーストの歌姫と称されたほどの人気がありました。

もちろん彼女は現在でも、ウエストコーストロックに留まらない大衆音楽の世界で立派に活躍しているわけですが、やはり彼女の歌声こそがアメリカ西海岸のフィーリングを象徴するひとつの事例として、特に我国ではちょいとお洒落な喫茶店とかカフェバーあたりの定番BGMになっていましたですねぇ。

ちなみにそうした場所の店内インテリアは、明らかにウエストコースト中華思想に基づく造りで、当時の若者には必読雑誌だった「ポパイ」とか「ホットドッグプレス」等々と連動(?)したかのような雰囲気だった事も、今は懐かしいばかりです。

で、肝心のリンダ・ロンシュタットは1960年代中頃から、流行のフォークロックをストーン・ポニーズというバンドのボーカリストとして歌っていたんですが、1969年頃の公式ソロデビュー時にはカントリーロックにシフトチェンジしていたようで、それなりに小ヒットも残しています。

今日では、この時期に実質的な初期イーグルスとなる面々がバックバンドだったという事が有名になっていますが、さりとて彼等が完全に揃ってレコーディングした音源は残されておらず、言わばひとつの伝説というところでしょうか……。

しかし、そうした人脈こそが、所謂ウエストコーストロックの主流となって、リンダ・ロンシュタットをブレイクさせた大きな要因だった事は決定的で、例えば他にもJ.D.サウザー、ジョン・ボイラン、ピーター・アッシャーといった有能なソングライターやプロデューサの目指す方向と彼女の歌声は、きっちり合っていたと思います。

さて、そこで本日ご紹介のシングル盤は、リンダ・ロンシュタットが大きくブレイクした1977年に発表のアルバム「夢はひとつだけ / Simple Dreams」からのカットなんですが、A面「ダイスをころがせ / Tumbling Dice」はご存じ、ストーンズの大ヒット曲をカバーした名唱の極みつき!

実はリンダ・ロンシュタットと言えば、後にはR&Bやニューウェイヴ系の曲まで歌うことになるんですが、この時点では、あくまでもカントリーロックやポピュラー系の色合いが強く、それゆえにロックの王道たるストーンズの演目をやるというのは、長年のファンにとっても、なかなか違和感があったんじゃないでしょうか?

まあ、このあたりは、それほど彼女に思い入れの無いサイケおやじの個人的な感想にすぎませんが、それゆえにリンダ・ロンシュタットのバージョンを初めて聴いた時には、なにか特別に新鮮な感じがしましたですねぇ~~♪

だって、それもそのはずっ!?

彼女はストーンズのオリジナルの歌詞を一部分、変えて歌っていたんですねぇ。

なにしろストーンズのバージョンは、ヤッてヤッてヤリまくるためにゼニを稼いでいるのに、それでもヤリきれない願望を歌っているらしいんですから、女性ボーカリストがストレートに演目に入れるわけにはいかないでしょう。

そこで部分的にヤラレる立場も含めて、歌い直した比喩の本歌取りのような解釈にしているのかもしれません。

ただし、それもまた、サイケおやじの勝手な思い込みである事をお断りしつつ、相当にグルーヴィなリンダ・ロンシュタットの歌い回しは、カントリーロックのスワンプロックへの先祖帰りとでも申しましょうか、まさに鶏と卵の関係にも似ているわけですが、これが素敵なウエストコーストロックの大王道♪♪~♪

ちなみに演奏に参加したメンバーはワディ・ワクテル(g.vo)、ドン・グロニック(key)、ケニー・エドワーズ(b,vo)、リック・マロッタ(ds)、ダン・ダグモア(sg) 等々の猛者揃いですから、ヘヴィなビートと軽やかなリズムの兼ね合いも流石の一言ですし、なによりも当時の西海岸をダイレクトに想起させてくれる録音の感じが、今のお若い皆様には分かっていただけるでしょうか。

一方、B面収録の「花嫁にはなれない / I Never Will Marry」は伝承歌をリンダ・ロンシュタット自らがアレンジした、これぞの西海岸カントリーという事で、カントリー&ウェスタンの女性スタアとして揺るぎない地位を確立していたドリー・パートンがゲスト参加♪♪~♪ アコースティックなサウンドをバックに絶妙のツインボーカルでシミジミとした情感を醸し出した名唱名演が最高ですよ。

いゃ~~、今日聴いても、なかなか素敵なカップリングシングルだと思います。

ただし当時は既にLPで音楽を楽しむのが主流であり、我国でも輸入盤が安く買える環境になっていましたから、このシングル盤がどの程度売れたのかは、ちょいと疑問です。

しかしサイケおやじが中古ながら、あえて入手に踏み切ったのは、ジャケットの面白さというか、掲載画像は小さいので分かりづらいと思いますが、なんと表題タイトル「ダイスをころがせ」の上に細かい文字で、「みんな私を犯そうとするの……」なぁ~んて書いてあるんですねぇ~~~!?!?

そしてB面曲の邦題が「花嫁にはなれない」ですからっ!?!?

もはやレコード会社の担当者は、何を考えていたのかっ!?

思わずニヤリとするしかありません。

それとジャケ写左下の「手」や右側の影の中に浮かび上がっている「顔」のような、丸っきり心霊写真の如き画像も、局地的に話題になっていたと記憶しています。

ということで、やはり日本盤シングルは面白いし、蒐集の対象となるのも必然性があるんですよね。

最後になりましたが、リンダ・ロンシュタットのブレイクにより、それまでの女性ボーカリストはプロ、アマを問わず、ロックだったらジャニス・ジョプリンスージー・クアトロ、あるいはマリスカ・ヴェレスあたりをお手本にしていたところを、彼女にシフトする流行が確かにありましたですねぇ~♪

実際、サイケおやじが学生時代に入れてもらっていたバンドでも、歌いに来る女性はリンダ・ロンシュタット風なのが当たり前のような感じでした。

そんな事も、今は懐かしく思い出されるのでした。

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ホリーズ分岐点の傑作シングル

2011-09-29 15:24:15 | Hollies

Jennifer Eccles c/w 目をひらけ! / Hollies ((Parlophone / 東芝)

ホリーズと言えば、今でも我国ではCSN&Yのグラハム・ナッシュが以前に在籍していたバンドで、「Bus Stop」が永遠のヒット曲!

そういう認識が定着していると思います。

もちろん、それは間違いではありません。

しかし、それ以外にも素晴らしいのがホリーズの真実であって、人によっては小型ビートルズであり、またソフトロックの王者でもあり、時には英国におけるサイケデリックポップスやフォークロックの先駆者という位置付け等々、様々な評価を得ているグループですから、もっと日本でも人気があって良いはずなんですが……。

まあ、そのあたりの捕らえどころの無さが日和見主義だとか、基本的にやっている事が軟弱だとか、とにかくホリーズ独得の素敵なメロディ&コーラス優先主義が裏目に受け取られてしまう結果と言えば、贔屓の引き倒しでしょうか。

そこで本日のご紹介はホリーズが1968年春に出したシングル盤なんですが、収録曲は両面とも当時の慣例として、英国では同時期発表のオリジナルアルバムには入れられず、つまりはこれでしか聴けない名唱&名演♪♪~♪

しかもグラハム・ナッシュがホリーズを辞めてしまう直前のヒット曲ですから、結果的に後追いのファンには、そういう興味もあろうかと思います。

ちなみに当時のメンバーはグラハム・ナッシュ(vo,g)、アラン・クラーク(vo,hmc)、トニー・ヒックス(vo,g,etc)、バーナード・カルバート(b,g,key)、ボビー・エリオット(ds,per) とされていますが、実際のレコーディングには数名の助っ人が参加している事は確実でしょう。

ただし以前にブートのビデオで見た「Jennifer Eccles」のプロモーション映像では、グラハム・ナッシュも登場していましたから、なんとも言えませんが……。

で、肝心の楽曲は、まずA面の「Jennifer Eccles」がスティールドラムも入った、実にトロピカルなフォークロックで、その楽しさは絶品♪♪~♪ 当然ながら爽やかなハイトーンのコーラスに加え、微妙に翳りのあるメロディ展開が素晴らしい隠し味なんですよねぇ~~♪

太く蠢くエレキベースやウキウキさせられるアコースティックギターも良い感じ♪♪~♪

一方B面の「目を開け / Open Up Your Eyes」は、これまたホリーズならではの明るいビートロックで、ホリーズが十八番のアラン・クラーク~トニー・ヒックス~グラハム・ナッシュという順番で歌い回すボーカルパートに絡むハイトーンのコーラスワークが最高ですよっ!

しかも間奏では、カントリーロックなバンジョーが使われるという、なかなか上手いコントラストが素晴らし過ぎますねぇ~~♪

なによりもアップテンポで繰り広げられるメロディのポップなフィーリングは、「Jennifer Eccles」も同様なんですが、どこかしら「せつない泣き」が仕込まれていて、胸キュンなんですよ♪♪~♪

そういうところがホリーズの魅力のひとつであって、さらにこれ以前はサイケデリックにどっぷり浸かっていた方向性から良い意味で目覚めたというか、ホリーズ本来の持ち味に立ち返ったような姿勢は好ましいかぎりです。

実はこの背景にはサイケデリック路線がど真ん中で作られた前作アルバム「バタフライ」、及びシングル「キング・マイダス / King Midas In Reveres」のセールス伸び悩みというリアルタイムでの事情があったらしく、しかもそれを主導したグラハム・ナッシュの責任問題(?)もありましたから、必然的にグループ内部の不協和音やビジネス面のあれこれも影響していたんじゃないでしょうか。

ですから、グラハム・ナッシュが、このシングル盤両面の作曲に関わってはいますが、時代性とか社会性から目を背け、お気楽主義に戻ってしまうが如きホリーズに物足りなさを感じ、脱退してしまうのも無理からん話だったと思うのは、サイケおやじの妄想でしょうか……。

それは「Jennifer Eccles」がヒットしたにもかかわらず、かなり長い間、ベスト盤に収録されなかった事実とも符合するように思います。

今日の歴史からすれば、この後のホリーズはアルバム「ボブ・ディランを歌う」で一応は社会性を強調した姿勢を見せるのですが、皮肉にもそれが他力本願のように受け取られた評価もあり、さらにグラハム・ナッシュが元バーズのデイヴィッド・クロスピー、そして元バッファロー・スプリングフィールドのスティーヴン・スティルスの3人で組んだCS&Nが大成功した事から、ホリーズは何か時代遅れの象徴になってしまったのは、ファンとして残念至極です。

しかしホリーズは、あくまでもホリーズとしての魅力を失うなんて事は絶対にありません!

それが所謂過渡期に出された、この傑作シングル盤には殊更顕著に記録されていると断言して、サイケおやじは後悔しないのです。

そして願わくば、ホリーズの再評価を強く望んでいるのでした。

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ヒデとロザンナのお洒落さ加減

2011-09-28 15:29:04 | 歌謡曲

愛の奇跡 / ヒデとロザンナ (日本コロムビア)

今はそんな事は無いでしょうが、サイケおやじの世代の日本男子は実際の体験は無くとも、当然のように敗戦国意識を引きずっていた所為でしょうか、西洋系美女に弱いという性癖があったと思います。

それはパツキンコンプレックスとか、白人グラマーが登場する洋ピン映画がヒットするとか、洋楽の女性部門だって、言ってみれば、それに由縁するヒットが無きにしもあらず……? 

極端な場合には中身なんかどうでも、ルックスが日本の青少年にアピールすれば、外人女優のポスターが人気を集めたり、美人モデルを使ったレコードジャケットが当然のように出回っていた時期が「昭和」という時代にはあったのです。

しかし、憧れてはいても、実際に西洋系美女とツーショットでキマる日本人は、なかなか難しいでしょう。そこで尚更にコンプレックスを抱いてしまう事の繰り返しなんだと思います。

ところが昭和43年にデビューしたヒデとロザンナという男女デュエットは、それを簡単に覆した粋なムードがありましたですねぇ。

そして本日ご紹介のデビュー曲「愛の奇跡」が大ヒットした事により、何か面映ゆいような新しい気分が、日本中に広がったように思っています。

何よりも当時をご存じない皆様でも、掲載したジャケ写をご覧になれば瞭然とされるんじゃないでしょうか、そのお洒落なムードの良さに。

もちろん、実際にこのふたりのスマートなファッションセンスは、ちょいと素人には真似出来ないところが大きいわけですが、殊更ヒデのカッコ良さは自分達には……、という諦めと羨ましさが我々凡庸な日本男子には拭いきれない気持だったのです。

ちなみにヒデは歌謡ボサノバを歌っていた「ユキとヒデ」のヒデであり、この頃からは出門ヒデと名乗っていたようです。

またロザンナは現在でもタレント活動を継続中ですから、日本語が普通に喋れるというイメージですが、どうやらデビュー前はイタリアで音楽の勉強をしていたと言われていますし、親族が日本に居住していたという説もあって、ヒデとロザンナで登場した時にも、それなりに言葉には不自由していなかったように記憶しています。

肝心の楽曲「愛の奇跡」は、ボサロック調の歌謡ポップスで、そのウキウキするビート感とメリハリの効いた解放感のあるメロディが、絶妙のボーカル&コーラスで歌われる時、とりあえずは明るい未来に満たされていた当時の日本の世相にはジャストミート♪♪~♪

しかもサビでのコーラスでは爽やかだった雰囲気が、間奏のパートになると一転、これがヒデとロザンナの真骨頂というか、情熱のスキャットを歌うヒデに対し、抑えきれない想いをぶっつけるが如きロザンナのイタリア語による「アモ~レ、アモ~レミオ」という情熱の呼びかけが、今日に至るも、たまりませんよねぇ~♪

ご存じのとおり、後には結婚するヒデとロザンナも、実はヒデの身辺整理に手間取って、それが先送りになる事が何度かあったと、以前にロザンナがテレビで語っていたように記憶していますが、さもありなん!?

既にデビューの頃から、そういう幾分の生臭さが感じられてはいても、実際に歌っている時のヒデとロザンナは、それを良い方向へと持って行ける雰囲気と実力があったのだと思います。

そして続けて幾つものヒットを飛ばしながら、ヒデの早世によって、この素敵なふたりは……。

繰り返しますが、そういう羨ましいところはリアルタイムでカラオケなんていう文明の利器が無かった事もあり、サイケおやじは今でも軽い気持で、この「愛の奇跡」やヒデとロザンナのヒット曲をデュエットするなんて事は出来ません。

つまりサイケおやじのような古いタイプの者には、例えば定番の「二人の銀座」だってお洒落過ぎますし、どうにか「新宿そだち」が似合う程度ですからねぇ。本当に額に汗が滲みます。

う~ん、今日も何か、自嘲の文章、失礼致しました。

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ジョニ・ミッチェル!

2011-09-27 15:43:24 | Singer Song Writer

The Circle Game c/w Woodstock / Joni Mitchell (Reprise / ワーナー)

ということで、本日はジョニ・ミッチェルです。

サイケおやじが、このシンガーソングライターの才女に気を惹かれたのは、やはりCSN&Yの「Woodstock」、そしてバフィー・セントメリーの「The Circle Game」という二大ヒット曲を書いたという存在感でした。

そこでいよいよ作者本人のバージョンを聴くべく、前述の2曲が収録のLP「レディズ・オブ・ザ・キャニオン」を狙ったものの、経済的な理由によってそれは断念……。しかし、救いの神はサイケおやじの前に、本日ご紹介の夢のようなカップリングシングルを登場させてくれました。

で、結論から言うと「The Circle Game」は、それなりのフォークっぽい仕上がりになっていて、原曲メロディもそれほどバフィー・セントメリーのバージョンと変わることが無かったのですが、もうひとつの「Woodstock」が???

というのも、CSN&Yのバージョンはテンションの高いエレクトリックギター中心のロックアレンジだったものが、ジョニ・ミッチェルは、これが作者の本音というやつなんでしょうか、如何にも煮え切らないモヤモヤ感がすっきりしません。

正直、レエピの弾き語りによる、なんともお経のようなメロディの連なりと浮遊しながら、どっかへ入ってしまいそうなファルセット気味の歌い回しは、今でこそ「ジャジー」の一言で片づけられるかもしれませんが、昭和47(1972)年当時、高校生だったサイケおやじには、到底納得出来る世界ではありませんでした。

それでも乏しい小遣いから買ったレコードは貴重品でしたから、両面とも意地になって聴いた日々が確かにあって、するとそういう苦行が快感に変わるという、丸っきりのM的覚醒!?

もちろん親しみ易いA面の「The Circle Game」を頼りにしていた事は言わずもがな、不思議な響きを滲ませるアコースティックギターに和気藹々のコーラスを従えたジョニ・ミッチェルの歌は、妙に人懐っこいフィーリングが素敵です。

ちなみにジョニ・ミッチェルのギター及び曲作りは、常識外の変則チューニングを使っている事が今日では判明済みながら、リアルタイムのサイケおやじには全くコードが取れず、そのあたりにも神秘的なものを感じていましたですねぇ。

つまり唯一無二と言うよりも、孤高の個性!?

それこそがジョニ・ミッチェルを「ジョニ・ミッチェル」にしている核心じゃないでしょうか?

ですから、作者本人バージョンの「Woodstock」がサイケおやじのような者に理解してもらえなくとも、それは一向に差し支えないわけでして……。

突っぱねられて、尚且つ魅せられる自分勝手な思惑に、なんとなく片思い的な胸キュンを感じてしまうわけです。

う~ん、今日は自虐的な告白になってしまいましたねぇ、お恥ずかしい。

しかし自分の中のジョニ・ミッチェルに対する想いは、決して素直ではありません。

同時期にブレイクした女性シンガーソングライターのキャロル・キングローラ・ニーロには、ストレートに好きだっ! そう言えるサイケおやじも、ジョニ・ミッチェルには、何か憚られるものがあります。

そして、そんな折、ようやく知ったのは、ジョニ・ミッチェルがジュディ・コリンズの歌で大ヒットした「青春の光と影 / Both Sides Now」という、これまたサイケおやじが大好きなフォーク系ポップスの作者だったという真実で、本当にタイトルどおり、裏も表も、さらには過去も未来も全てを愛してこそ、理解出来る事象があるっ!

それこそが、ジョニ・ミッチェルに対するサイケおやじのとるべき態度です。

ご存じのとおり、ジョニ・ミッチェルはフォーク系のシンガーソングライターとしてスタートしながら、何時しかジャズやフュージョンの手法に自らの語法を重ね合わせることで世界を広げ、ついにはコンピューターの打ち込みや現代音楽のシュールな変奏までも薬籠中のものにした楽曲を発表し、今日に至っています。

ですから、その全てが聴き易いなんて事は絶対に無く、必然的に商業的な成功も僅かなんですが、根強いファンの多さでは誰にも負けないミュージシャンのひとりでしょう。

ただ、問題は、何時如何なる時に彼女のファンになるか?

あるいは、なれるか?

そんな運命(?)の瞬間と悪戯(?)が必要なのかもしれません。

そしてサイケおやじは、比較的に早い時期にジョニ・ミッチェルに出会えたという幸運を、本当に大切にしたいと思っているのでした。

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とまらない汽車に乗る人生

2011-09-26 15:38:24 | 歌謡曲

とまらない汽車 / 中山千夏 (日本ビクター)

自分の気持に正直に生きる事ほど、難しいものはないでしょう。

しかし、それに向かって努力する事は、誰でも出来るんじゃないでしょうか。例えそれが上手くなかったとしても、自分だけは納得する生き方をしたいと願うかぎり……。

なぁ~んて、本日はノッケから深刻な書き出しで申し訳ございません。

しかし中山千夏の歌や著書、あるいは彼女の言動に接する時、サイケおやじはそんな感じがしてなりません。

ご存じのとおり、現在の彼女は、ますます何が本業か分からなくなるほど、多彩な履歴を持った才人としての存在感は失せることが無く、加えてこれからも何をやらかすか予断を許さない怖さ(?)は、今もって健在というところでしょうか。

そこでサイケおやじは、とにかく歌手としての中山千夏を本日は思い出す事にして、とりあえず歌謡曲デビューから二番目のシングルヒットとなった「とまらない汽車」を聴いています。

ちなみに中山千夏としての芸能活動は、まず子役として注目され、同時にテレビタレントとしての溌剌とした存在感は、本音優先主義の言動も含めて、常に昭和40~50年代を騒がせてきたように思います。

そして歌手としては、まず忘れられないのがNHKで放送されていた人形劇「ひょっこりひょうたん島」での様々な挿入歌で、本人が劇中では博士役の声優も演じていましたから、これは鮮烈でした。

また同時期、これまたNHKの「みんなのうた」で幾つかの歌を聞かせていた記憶もあります。

ですから昭和44年秋、いよいよ歌謡曲のジャンルでデビューした時には、その最初のシングル盤「あたなの心に c/w ZenZenブルース」が驚異的に売れまくったのは必然であり、もちろん本人の作詞と都倉俊一の作曲によるA面「あなたの心に」が歌謡フォークのスタンダードになったのも当然でした。なにしろ現在まで、多くのカバーバージョンが出されている事でも、それは証明済みでしょう。

しかし続く本日ご紹介の「とまらない汽車」は、ちょいと事情が異なるというか、作詞作曲は「あなたの心に」と同じく中山千夏&都倉俊一でありながら、曲調は完全なる歌謡R&Bなんですねぇ~~~♪

サイケおやじの好みが絶対的にこっちである事は、皆様がご推察のとおりです。

とにかくイントロからグッとシビれるエレキギターのイカシたフレーズは、まさにこの時代の音色であり、強いビートのドラムスと絶妙なピアノの合の手、そしてグイノリのホーンセクションに「お約束」とも言える汽車の擬音コーラスが、本当にたまりませんねぇ~~♪

そして中山千夏のボーカルは幾分高いキーを活かした心に迫って来る節回しで、この歌謡ソウルを説得力豊かに歌いあげてくれますから、ついついリスナーは「その気」にさせられてしまうのです。

それは何故か、「好き」というだけで女と一緒に「とまらない汽車」に乗ってしまう男へ仮託した、決して後悔しない人生を描き出しているのですが、そこには中山千夏本人が、特に公の場でも言いたい放題で押し通していた現実がダブってしまうんですねぇ。

度胸が無いので詳らかには書けませんが、テレビのワイドショウのレギューでありながら、公然とテレビや放送業界を激しく非難したり、国会議員当時は政党政治を揶揄する言動、ついには皇室を虐げるが如き振る舞いまでも堂々とやっていましたから、入っている筋金が違うわけです。

しかも、それだけの事をやらかした後には、すっぱりとその世界から足を洗うという潔さも流石で、なかなか真似できる事ではないでしょう。

ただし、そんなこんなは決して中山千夏という人間の中では、ひとつの通過点なのかもしれません。

ですから歌謡曲の世界で素晴らしいレコードを残した事自体が、わかってくれる人にだけ聴いてもらえれば云々という自己満足では決して無く、この世の隅々まで自らの主張を届けたいという一種の「義務」を果たす手段であったように思います。

ということで、本日は書いている自分でも消化不良の難しい戯言になってしまいましたが、平たく言えば、皆様には「とまらない汽車」という歌を聴いていただきたいという願いを記したつもりです。

人間は、どんなに懸命に生きたとしても、必ず「後悔」が付きまとう宿命を背負っているんじゃないでしょうか?

その意味で、サイケおやじも「とまらない汽車」に乗った気分で、残された自分の人生をやってくしかないのだろう……。そんなふうに思うばかりです。

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炎と言われたジミヘンのライブ

2011-09-25 16:05:15 | Jimi Hendrix

The Jimi Hendrix Concerts (CBS)

あまりに早すぎる、その突然の訃報ゆえに、ジミ・ヘンドリックス=ジミヘン(vo.g) の未発表音源は何時の時代も待望され続けてきました。

中でもライプステージの記録は、何かと本人の承諾を得ずに加工されたスタジオアウトテイクでは無い、生身のジミヘンに接することが出来るという点において、常に求められていたのですから、1982年に世に出た本日ご紹介の2枚組LPは相当な勢いがありましたですねぇ~♪

 A-1 Fire (1968年10月12日:ウインターランド / 1st show)
 A-2 I Don't Live Today (1969年5月24日:サンディエゴ・スポーツアリーナ)
 A-3 Red House (1970年7月17日:ニューヨーク)
 B-1 Stone Free (1969年2月24日:ロイヤル・アルバート・ホール)
 B-2 Are You Experienced (1968年10月10日:ウインターランド / 1st show)
 C-1 Little Wing (1968年10月12日:ウインターランド / 2nd show)
 C-2 Voodoo Chile (1968年10月10日:ウインターランド / 1st show)
 C-3 Bleeding Heart (1969年2月24日:ロイヤル・アルバート・ホール)
 D-1 Hey Joe (1970年5月30日:バークレイ)
 D-2 Wild Thing (1968年10月12日:ウインターランド / 1st show)
 D-3 Hear My Train A Comin' (1968年10月10日:ウインターランド / 2nd show)

上記演目は付記した録音データのとおり、今となっては以降に出されたCDやブートによって確実性の高い鑑賞も可能になっているわけですが、リアルタイムでは非公式だったソースが多く、しかもそれゆえに悪かった音質が出来うる限り改善されていたのが大きなセールスポイントでありました。

メンバーはご存じのとおり、ノエル・レディング(b)、ビリー・コックス(b)、ミッチ・ミッチェル(ds) が随時ジミヘンとトリオを組んでの熱演ばかり!

と書きたいところなんですが、ちょいとした不満も無いわけではありません。

それは、もっと凄い演奏が残されているという現実が既にブートで明らかにされていたところから、何故、あのトラックが???

という疑問がジミヘン信者やマニア&コレクターばかりか、一般のファンでさえも心に蟠ったのです。

結論から言えば、それは権利関係の大きな壁であり、例えば1969年2月24日のロイヤル・アルバート・ホールの音源は、その代表格として、中途半端にしか使えないのが実情だったのです。

しかし、そんな雑念(?)は、やっぱりレコードに針を落した瞬間から霧散させられる勢いが、ここにはあるんですよねぇ~~♪

特にオーラスに置かれた「Hear My Train A Comin'」の捻じ曲げられたブルース解釈は圧巻で、これぞっ! ブルースから派生したロックの極北かもしれません。当然ながらノエル・レディングとミッチ・ミッチェルの堅実に先を読んだ助演も流石であり、緩急自在に緊張と緩和を繰り返しながらバンドとしての一体感を追及する展開は、名演の決定版だと思います。

また同じウインターランドの演奏では、短いながらも濃密な「Little Wing」が素晴らしすぎますよっ! 緩やかなテンポで繊細さとエキセントリックな表現を両立させるギターは、やはり天才ならではの証じゃないでしょうか。もちろんあまり語られる事の少ないボーカルの味わいも、サイケおやじはジミヘンの声質や歌い回しが大好きなんで、高得点♪♪~♪

さらにフィードバックと混濁したコードワークが強靭なサイケデリックワールドを構築する「Are You Experienced」も、これがパンクだとか、デスメタルだとかの戯言を封印するだけのエネルギーに満ちていますよ。

そして気になる人気曲「Voodoo Chile」は、例によってイントロからワウワウとのコンビネーションが冴えまくるギターカッティング、そしてリズムに対するアプローチが圧巻ですから、「お約束」のワイルドに泣きじゃくるアドリブにも、激情のフレーズがテンコ盛り! サイケおやじは、思わず一緒にギターを弾きたくなる衝動を隠せませんが、それは不遜というものでしょう。

なにしろ全篇から圧倒されるジミヘンの気迫が、実は自然体という真相にも触れる事が出来るように思いますからっ!

その意味でロイヤル・アルバート・ホールにおける「Stone Free」も、これまた強烈の極みで、大技と小技の使い分けは絶妙という他はありません。

ちなみにロイヤル・アルバート・ホールのライプは、ジミヘンの高額なギャラに対する埋め合わせとして映画フィルムに記録されながら、未だに公式な一般公開が出来ていないという???の現実があって、それゆえに音源だけが法的な盲点を潜り抜ける(?)形で様々なレコードやCDに収められ、出回っています。

もちろん映像も今日まで、ブート市場のベストセラーになってきましたから、きっちりとしたリマスターで公開されるべきでしょう。

ただし、実はジミヘンの未発表ソースはライプ音源も含めて、全てがファンを納得させるものでは無いという現実が、確かにあります。

そのロイヤル・アルバート・ホールのステージにしても、個人的には散漫な印象を否定出来ない部分が!?

それは、このアルバムに収められた「Bleeding Heart」や「Hey Joe」の物足りなさにも同様に感じられ……。

ですから、このアルバムを編纂したプロデューサーのアラン・ダグラスは1969年以降、ジミヘンの音源管理を任されていたという権利を行使し、実に上手くファン心理を誘導したと思いますねぇ。特にジミヘンには、まだまだ膨大な「お宝」が隠されている事実を明かしたところは快挙でしょう。

ということで、既に述べたように、その「お宝」はCD時代に入ると、例えば4枚組セットの「ステージ」とか、6枚組セットの「ウインターランド・コンプリート」、あるいはバンド・オブ・ジプシーズのライプ音源集成等々、夢の様な再発が繰り返されてきました。

そして近年では、そのほとんどがジミヘンの遺族によって管理される状況となり、なんとなくひとつの道筋がつけられた感があります。

ただし現在までのところ、その再発は必ずしも「良」と言えるものばかりではありません。件のウインターランドにしても、またまた新編集の如き再発盤が出るので、一応はゲットする所存ですが、本音は……???

結局、保守的なサイケおやじは、いつまでも邦題「炎のライプ」と命名された、このアルバムから逃れられない宿命を感じています。

もちろん発売された1982年といえば、洋楽の世界はロックがニューウェイヴになっていましたから、すっかり聴く新譜が少なくなっていた自分にとって、最高のプレゼントだったというわけです。

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悲しみの先に明日を見つめる

2011-09-24 15:55:18 | 歌謡曲

悲しみは駈け足でやってくる / アン真理子 (ビクター)

久しく疎遠になっていた親戚へ、彼岸の墓参りを兼ねて訪れる計画にしていたところ、先日の台風で件の親戚の家が少しばかり被災し、結果的に後片付けの手伝いをしてきました。

う~ん、前にも書きましたが、今年は本当に災害が多くて、誰も怨めないだけに、尚更辛く、悲しくなりますねぇ……。

個人的には災難や悲劇なんて、避けられないから悲劇になるという運命を甘受するしかないと達観していたつもりですが、今の我国の状況は政治や経済の最悪さも含めて、全く先が見えないといって過言ではないでしょう。

つまり、所謂暗い世相という事なんでしょうが、そんな時、ふっと口ずさんでしまったのが、本日ご紹介の「悲しみは駈け足でやってくる」でした。

サイケおやじと同世代以上の皆様ならば、この歌が大ヒットした昭和44(1969)年の状況はご記憶されているとおり、爛熟した文化が繚乱の昭和元禄真っ只中で、高度成長と表裏一体になった社会の歪みや権力の横暴、そして今となっては無益だったかもしれない学生運動の騒乱……。

そんなこんなが毎日のように様々な事件を頻発させ、それでいて国民は確かに明日を見ることが出来た、ある意味は幸せな時代だったと思います。

しかし、この「悲しみは駈け足でやってくる」は、イントロから暴風の如きSEと悪い予感に満たされたコーラスやストリングス、そして強いビートを弾き出すエレキギターとドラムスのリズムがキャッチーというよりも、実は耳触りな感触でした。

そして抑揚の少ないメロディをアンニュイなムードで歌うアン真理子の意想外に芯の強いボーカル!?

 明日という字は 明るい日とかくのね
 
 若いという字は 苦しい字に似てるわ

そう歌いながら、若さと明日を信じる気持を決して捨てず、しかし現実は、やっぱり厳しく、悲しいという……。

これは実際に彼女の歌い回しを聴いていただく他はないんですが、本人が綴った歌詞という真相を差し引いても、せつなさが拭いきれない仕上がりは、なかなか秀逸だと思います。

ちなみにアン真理子は和製ボサノバを歌う「ユキとヒデ」のユキとしてデビューし、その直後に「藤ユキ」と改名して歌謡曲の世界に転身、さらにアン真理子となって、このフォーク歌謡で大ヒットを飛ばしたという履歴がありますから、ここでボサノバフィーリングが絶妙の隠し味となった「悲しみは駈け足でやってくる」がジャストミートしたのも、その必然性は充分だったと思います。

ジャケ写で遠くを見ている彼女のポートレイトも、微妙に胸キュン♪♪~♪

ということで、今年もアッという間に秋となり、明るい話題と言えば「なでしこ」の大活躍ぐらいしか無いという世相の中、悲しみだけが取り残され、積み重なっていく現実では、もっと明るく景気の良い歌が求められるんでしょうが、何故か分かっているはずの自分にしても、「悲しみは駈け足でやってくる」が思い出されてなりません。

そういう時代の季節と言ってしまえば、それこそ悲しいわけですが……。

本日は暗い文章で、失礼致しました。

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モップスは日本語ロックの先達

2011-09-23 15:34:25 | 日本のロック

あかずの踏切り / モップス (東芝)

今日に続くニューミュージックというジャンルにおいて、その前段階が昭和47(1972)年頃をピークとする歌謡フォークの大ブームでしょう。

とにかくその前後には吉田拓郎、かぐや姫、小椋佳、そして井上陽水の爆発的なブレイクは驚異的で、洋楽ではひとつの主流だったシンガーソングライターのブームと連動したが如き人気は加速するばかり!?

ですから歌謡曲の分野でもフォークっぽい歌やアレンジが重宝され、また所謂「四畳半」と形容されたマイナーなフォーク系ミュージシャンやグループが続々と新譜レコードを出し、テレビにまでも出演可能な状況は、往年のGSブームを思い起こさせるほどでした。

しかし、その中には当然の如く過小評価され、相手にもされなかった存在が確かにあり、例えば本日取り上げたモップスはGSの生き残りであった事が裏目に出たような、実に中途半端な扱いだったと思います。

ところがモップスは実にしぶといと言うか、前述した小椋佳や井上陽水のレコーディングでは影の立役者を演じていたんですよねぇ~~♪

当時のメンバーは鈴木ヒロミツ(vo)、星勝(vo,g,key)、三幸太郎(b,g)、スズキ幹治(ds) という4人組になっていましたが、ご存じのとおり、鈴木ヒロミツは俳優業も含むタレント活動が既に認められていましたし、星勝は井上陽水の大ベストセラーアルバム「断絶」や「氷の世界」等々で作編曲を担当したことにより、仕事の領域を広げていたのです。

もちろんモップスとしても当時、「月光仮面」や「たどりついたらいつも雨ふり」といった大ヒット曲を出していたのは忘れられていないでしょう。

ところが、そんな実績がますますモップスというロックバンドを過小評価に結びつける感があったのですから、世の中は難しいと思います。

つまり、その頃は歌謡フォークに接近するロックは、はっぴいえんど等々にしても、それはフォークであり、また、ある意味では売れてしまったバンドはロックでは無い! そんな自虐的な解釈も罷り通っていたんですよねぇ……。

今から思えば、なんとも屈折した矛盾に他ならないわけですが、例によって「日本語のロック」云々という論争がマジに扱われていた時代では、本格的なロックのサウンドであろうとも、例えばはっぴいえんどのように日本語を歌った瞬間、それはフォークと断定されていたんですよっ!?!?

ですから、モップスにとっては最後のシングル盤となった昭和48(1973)年発売の「あかずの踏切り」が、ちょうど同じ頃に発表された井上陽水のメガヒットLP「氷の世界」からのカパーとして位置付けられ、それゆえに軟弱と誤解されたのは不幸でした。

何故ならば、その「氷の世界」に収録された「あかずの踏切り」は星勝の作編曲であり、作詞は確かに井上陽水でしたが、既に世に出ていたアルバム「陽水ライプ / もどり道」に収録のバージョンとは異なり、それは井上陽水の作曲によるメロディで歌われています。

つまりはモップスが堂々とオリジナルを主張出来る立場にあったんじゃないか!?

実際、リアルタイムのサイケおやじは井上陽水のバージョンよりも、モップスの新曲としての「あかずの踏切り」を先に知っていて、ラジオの深夜放送でも流れることが多かったと記憶しているのですが……。

残念ながらヒットはしていません。

しかし真っ向勝負のロックサウンドとソリッドなコーラスワーク、またハードなリズムアレンジは、それでいて聞き易いというツボがしっかりと押さえられ、流石は業界からの信頼も確立しつつあった星勝と唸ってしまいます。

極言すれば、それだからこそ、モップスは日本語ロックの確立には欠かせないバンドだったと思うんですよねぇ~~♪ 失礼ながら、はっぴいえんどよりも、相当に分かり易いし、それが裏目と言うのなら、それはそれで良いんじゃないでしょうか?

また、星勝という才能は、もっと真っ当に評価されるべきですよ。

局地的かもしれませんが、特に1980年代は「星勝=ダサイ」という方程式が成り立つほど、悲しい扱いを受けていましたから……。

ということで、GS期のモップスは海外評価も含めて人気が高いと思われますが、機会があれば解散間近の音源も同等に楽しまれん事を願っています。

コメント (6)
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フィル・スペクターへの目覚め

2011-09-22 14:20:47 | Pops

ハイ・ロン・ロン / The Crystals (Philles / キング)

今でこそ、洋楽ポップスに興味を抱けば、「フィル・スペクター」いう名前や言葉には頻繁に接する機会も多いと思いますが、その「音楽用語」をサイケおやじが知ったのは、ビートルズによる、例の「レット・イット・ビー」騒動が最初でありました。

ご存じのとおり、1970年5月に世に出たLP「レット・イット・ビー」は、公式にはビートルズが最後に発表したオリジナルアルバムですが、実際のレコーディングは1969年1月に主なセッションが終わっていました。

ところがグループ内の人間関係やビジネス面のゴタゴタ、そして映画とタイアップしての企画ということで、その録音セッションの現場を仕切ることが契約レコード会社のEMI側に主導権が無く、つまりはそれまでビートルズの音楽面を縁の下の力持ちとして支えていたジョージ・マーティンというプロデューサーが全面的に関わる事が出来無い状況にありました。

このあたりの経緯については、拙稿「The Beatles / Let It Be の謎」をご一読願いたいところですが、とにかくそんなこんなから残されたセッション音源は宙に浮き、しかしビジネス面の必要に迫られる形で作られたのが、悲しきラストアルバム「レット・イット・ビー」だったのです。

ところが、そんな内部事情はリアルタイムの日本の洋楽ファンには届いていませんでしたし、何よりもドロドロした真相なんて、世界中に明かされたのは、かなり後の事でした。

そして、いよいよビートルズの新作LPとしての「レット・イット・ビー」が我国で発売される時、「プロデュースがフィル・スペクター」と喧伝され始めたのは、如何にも唐突だったのです。

フィル・スペクター???

誰、それ……???

という疑問はもちろんの事、第一にプロデューサーという役割が、当時のサイケおやじには完全に???

今にして思えば、フィル・スペクターはもちろん事、プロデューサーという職分について、それまで誰もメディアで語ってくれたことが無かったように思います。

もちろん業界関係者やマニアには説明不要の言葉だったでしょうが、一般的なリスナーには無縁だったはずです。

で、そのあたりを察知されたんでしょうか、実は当時の洋楽ラジオ番組で、短くはありましたが、フィル・スペクターの特集らしき企画が組まれ、サイケおやじがそこで接した関連音源は聴いて吃驚! なんとっ! 既に知っていたメロディが実に多かったんですねぇ~~~♪

それが例えば弘田三枝子の歌っていた「Be My Baby」等々、和製ポップスカパーだった事は言うまでもありません。

さて、そこで肝心のフィル・スペクターですが、今日一番に評価され、また良く知れている業績は所謂「音の壁」と称される厚み満点の演奏パート、そこに埋もれながら素敵なメロディをクッキリ歌うボーカル&コーラスという壮大なコントラストで作られた楽曲群の存在でしょう。

しかも、それはもちろん1960年代前半の慣例であった、シングル盤として発表される事を前提としたモノラルバージョン優先主義でしたから、大出力の高価なステレオ装置が買えない青少年向けにシュガーコーティングされた夢のような歌を提供するという必要十分条件を満たすための方策として、様々な試行錯誤があった事は想像に易いはずです。

そこには優れたソングライター、堅実なスタジオセッションミュージシャン、録音やレコードを制作する現場に携わるエンジニアの確かな技術力、さらには出来上がった商品の宣伝とマネージメント等々、その全てを統括する責任者が絶対であり、サイケおやじがプロデューサーという職業とは、そういうものだというひとつの真相に辿りついたのは、既に昭和50(1975)年も末頃の事です。

そしてラッキーにも、当時はオールディーズのリバイバル現象がひとつのブームの始まりになっていたおかげで、フィル・スペクター関連の楽曲も様々なベスト盤やオムニバス盤で聴けるようになったんですが、正直に告白すると、フィル・スペクターを特徴づける分厚いサウンドは、なんだかモコモコして聞こえたのが、サイケおやじの偽りない初体験の感想でした。

まあ、これは結論から言うと、そこでサイケおやじが聴いたのはアナログの日本盤LPに収録されたトラックであって、しかも前述したとおり、様々な音源を寄せ集めたオムニバス盤でしたから、収録各曲の音質や音量バランスを整える為に何らかの操作があったんじゃないかと思います。

しかもステレオ&疑似ステレオが混在!?

ですから、それは単独曲としてシングル盤で楽しむ想定とは完全に異なる状況であって、つまりは既に述べたとおり、フィル・スペクターが基本的に計画実行していた「45回転」の世界ではありません。

で、ようやく目からウロコが落ちたサイケおやじは、とにかくシングル盤で聴く他は無いと覚悟を決め、中古ながら最初にゲットしたのが本日ご紹介の「ハイ、ロン・ロン / Da Doo Ron Ron」だったという、ここまでの実に長ったらしい前置き、失礼致しました。

歌っているクリスタルズは1961年頃からフィル・スペクターのプロデュースで何枚もシングル盤を出しているニューヨークの黒人女性グループで、ジャケ写のように最初は5人だったメンバーも、正式デビューの頃にはディー・ディー・ケニブルー、ラ・ラ・ブルックス、バーバラ・アルストン、メアリー・トーマスの4人組になっていたそうですが、実際にレコーディングされ、発売された楽曲は必ずしもクリスタルズ本人達が歌ったものばかりではないという真相が今日の定説になっています。

例えば先日ご紹介したシェリー・フェブレーの「Johnny Angel」のところでも書きましたが、彼女達の代役としてダーレン・ラブ&ブロッサムズが起用される事も度々だったようです。

ただし、この「ハイ・ロン・ロン / Da Doo Ron Ron」に関しては、リードボーカルが明らかにダーレン・ラブと異なっていますから、おそらくはクリスタルズ本人達が演じていると思われます。

しかし、本当は邪道の楽しみ方なのかもしれませんが、今となっての世間一般の常識的(?)鑑賞では、クリスタルズはフィル・スペクターが様々な試行錯誤を積み重ねつつ完成させていった「スペクターサウンド」にとって、絶対に必要な手駒のひとつだったという事でしょう。

その意味でフィル・スペクターと言うよりも、所謂「ウォール・オブ・サウンド=音の壁」の頂点を極めたとされる「ハイ・ロン・ロン / Da Doo Ron Ron」が洋楽ファンに好まれるのも当然であって、とにかく調子良すぎるアップテンポのリズムでノリノリに歌われる「ダァ・ドゥ~・ロ~ン・ロン」というキメのフレーズには、必ずや全人類がウキウキさせられる魔法があるんですよねぇ~~♪

特徴的にドドスコドドスコ鳴り響くドラムスも良い感じ♪♪~♪

まさに大ヒットするのもムペなるかな、サイケおやじをさらに仰天させたのが、アメリカプレスのオリジナルシングル盤に刻まれた同曲の物凄い音圧!!

それは黒人音楽を集めている知り合いのマニア氏から聴かせていただいたんですが、自分が持っている掲載した日本盤なんて、全く問題にならないほどの「音の壁」が圧倒的に迫って来たんですから、完全降伏させられましたですねぇ~~♪

それが昭和53(1978)年の個人的体験で、リアルタイムでのフィル・スペクター全盛期が1964年頃までと言われていますから、すでに時間はかなり過ぎていた真相への邂逅だったというわけです。

また、ちょうどタイミングが良かったというか、その頃にロック喫茶で読んだ「ニューミュージック・マガジン」という音楽雑誌に、元はっぴいえんどの大瀧詠一が自ら連載していたフィル・スペクターの特集記事があり、これまた目からウロコの話がテンコ盛りだったのは勉強になりました。

ということで、結局サイケおやじがフィル・スペクターを知るようになったのは1970年代ですから、その時代にビートルズやラモーンズ等々をプロデュースしていた実績があったとしても、やっぱり1960年代前半の輝きには……。残された音源を聴くほどに、そんな印象が強くなるばかりで、それは現在も継続しています。

そして、ここから書くことは、おそらく大勢の皆様から顰蹙とお叱りを頂戴するはずですが、サイケおやじの素直な気持としては、フィル・スペクターの作るレコードは、どこかしらロックの音がしていないと思います。そこにハードロックも真っ青の音圧を響かせるシングル盤があるとしてもです。

その一例として有名なのがビートルズのアルバム「レット・イット・ビー」であり、同じ音源を使いながらブートでしか出回らなかった、グリン・ジョンズが纏めたところの「ゲットバック」という幻のアルバムを聴き比べれば、明らかに後者こそがロックそのものの音に感じられるんですよねぇ。

ちなみにグリン・ジョンズはストーンズやザ・フー等々をはじめ、数多くの名盤に関わったエンジニア兼プロデューサーとして、まさにブリティッシュロックのイメージを音で作り出した偉人という評価を鑑みれば、個人的には納得しているのですが……。

しかし、そこがポップスとロックの境界線だとしたら、フィル・スペクターこそ、極上のポップスを提供してくれる名匠であり、これからも信者を増やし続けることは間違いの無い事実と確信するばかり!

う~ん、正直、フィレスで作られたオリジナルシングル盤、コンプリートで欲しいなぁ~~~~。

そう切望しつつ、本日は暴言ご容赦、お願い申し上げます。

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今年は自然災害が多すぎる!

2011-09-21 11:50:29 | Weblog

またまた物凄い暴風雨が襲っていますね。

実は出張中なんですが、今日は帰れるか見通しがありません。

よって、本日の1枚は休載させていただきますので、ご容赦願います。

今は少しでも被害が少なくなるよう、祈るばかり……。

そして被災された皆様には、心からお見舞い申し上げます。

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