■ハイ・ロン・ロン / The Crystals (Philles / キング)
今でこそ、洋楽ポップスに興味を抱けば、「フィル・スペクター」いう名前や言葉には頻繁に接する機会も多いと思いますが、その「音楽用語」をサイケおやじが知ったのは、ビートルズによる、例の「レット・イット・ビー」騒動が最初でありました。
ご存じのとおり、1970年5月に世に出たLP「レット・イット・ビー」は、公式にはビートルズが最後に発表したオリジナルアルバムですが、実際のレコーディングは1969年1月に主なセッションが終わっていました。
ところがグループ内の人間関係やビジネス面のゴタゴタ、そして映画とタイアップしての企画ということで、その録音セッションの現場を仕切ることが契約レコード会社のEMI側に主導権が無く、つまりはそれまでビートルズの音楽面を縁の下の力持ちとして支えていたジョージ・マーティンというプロデューサーが全面的に関わる事が出来無い状況にありました。
このあたりの経緯については、拙稿「The Beatles / Let It Be の謎」をご一読願いたいところですが、とにかくそんなこんなから残されたセッション音源は宙に浮き、しかしビジネス面の必要に迫られる形で作られたのが、悲しきラストアルバム「レット・イット・ビー」だったのです。
ところが、そんな内部事情はリアルタイムの日本の洋楽ファンには届いていませんでしたし、何よりもドロドロした真相なんて、世界中に明かされたのは、かなり後の事でした。
そして、いよいよビートルズの新作LPとしての「レット・イット・ビー」が我国で発売される時、「プロデュースがフィル・スペクター」と喧伝され始めたのは、如何にも唐突だったのです。
フィル・スペクター???
誰、それ……???
という疑問はもちろんの事、第一にプロデューサーという役割が、当時のサイケおやじには完全に???
今にして思えば、フィル・スペクターはもちろん事、プロデューサーという職分について、それまで誰もメディアで語ってくれたことが無かったように思います。
もちろん業界関係者やマニアには説明不要の言葉だったでしょうが、一般的なリスナーには無縁だったはずです。
で、そのあたりを察知されたんでしょうか、実は当時の洋楽ラジオ番組で、短くはありましたが、フィル・スペクターの特集らしき企画が組まれ、サイケおやじがそこで接した関連音源は聴いて吃驚! なんとっ! 既に知っていたメロディが実に多かったんですねぇ~~~♪
それが例えば弘田三枝子の歌っていた「Be My Baby」等々、和製ポップスカパーだった事は言うまでもありません。
さて、そこで肝心のフィル・スペクターですが、今日一番に評価され、また良く知れている業績は所謂「音の壁」と称される厚み満点の演奏パート、そこに埋もれながら素敵なメロディをクッキリ歌うボーカル&コーラスという壮大なコントラストで作られた楽曲群の存在でしょう。
しかも、それはもちろん1960年代前半の慣例であった、シングル盤として発表される事を前提としたモノラルバージョン優先主義でしたから、大出力の高価なステレオ装置が買えない青少年向けにシュガーコーティングされた夢のような歌を提供するという必要十分条件を満たすための方策として、様々な試行錯誤があった事は想像に易いはずです。
そこには優れたソングライター、堅実なスタジオセッションミュージシャン、録音やレコードを制作する現場に携わるエンジニアの確かな技術力、さらには出来上がった商品の宣伝とマネージメント等々、その全てを統括する責任者が絶対であり、サイケおやじがプロデューサーという職業とは、そういうものだというひとつの真相に辿りついたのは、既に昭和50(1975)年も末頃の事です。
そしてラッキーにも、当時はオールディーズのリバイバル現象がひとつのブームの始まりになっていたおかげで、フィル・スペクター関連の楽曲も様々なベスト盤やオムニバス盤で聴けるようになったんですが、正直に告白すると、フィル・スペクターを特徴づける分厚いサウンドは、なんだかモコモコして聞こえたのが、サイケおやじの偽りない初体験の感想でした。
まあ、これは結論から言うと、そこでサイケおやじが聴いたのはアナログの日本盤LPに収録されたトラックであって、しかも前述したとおり、様々な音源を寄せ集めたオムニバス盤でしたから、収録各曲の音質や音量バランスを整える為に何らかの操作があったんじゃないかと思います。
しかもステレオ&疑似ステレオが混在!?
ですから、それは単独曲としてシングル盤で楽しむ想定とは完全に異なる状況であって、つまりは既に述べたとおり、フィル・スペクターが基本的に計画実行していた「45回転」の世界ではありません。
で、ようやく目からウロコが落ちたサイケおやじは、とにかくシングル盤で聴く他は無いと覚悟を決め、中古ながら最初にゲットしたのが本日ご紹介の「ハイ、ロン・ロン / Da Doo Ron Ron」だったという、ここまでの実に長ったらしい前置き、失礼致しました。
歌っているクリスタルズは1961年頃からフィル・スペクターのプロデュースで何枚もシングル盤を出しているニューヨークの黒人女性グループで、ジャケ写のように最初は5人だったメンバーも、正式デビューの頃にはディー・ディー・ケニブルー、ラ・ラ・ブルックス、バーバラ・アルストン、メアリー・トーマスの4人組になっていたそうですが、実際にレコーディングされ、発売された楽曲は必ずしもクリスタルズ本人達が歌ったものばかりではないという真相が今日の定説になっています。
例えば先日ご紹介したシェリー・フェブレーの「Johnny Angel」のところでも書きましたが、彼女達の代役としてダーレン・ラブ&ブロッサムズが起用される事も度々だったようです。
ただし、この「ハイ・ロン・ロン / Da Doo Ron Ron」に関しては、リードボーカルが明らかにダーレン・ラブと異なっていますから、おそらくはクリスタルズ本人達が演じていると思われます。
しかし、本当は邪道の楽しみ方なのかもしれませんが、今となっての世間一般の常識的(?)鑑賞では、クリスタルズはフィル・スペクターが様々な試行錯誤を積み重ねつつ完成させていった「スペクターサウンド」にとって、絶対に必要な手駒のひとつだったという事でしょう。
その意味でフィル・スペクターと言うよりも、所謂「ウォール・オブ・サウンド=音の壁」の頂点を極めたとされる「ハイ・ロン・ロン / Da Doo Ron Ron」が洋楽ファンに好まれるのも当然であって、とにかく調子良すぎるアップテンポのリズムでノリノリに歌われる「ダァ・ドゥ~・ロ~ン・ロン」というキメのフレーズには、必ずや全人類がウキウキさせられる魔法があるんですよねぇ~~♪
特徴的にドドスコドドスコ鳴り響くドラムスも良い感じ♪♪~♪
まさに大ヒットするのもムペなるかな、サイケおやじをさらに仰天させたのが、アメリカプレスのオリジナルシングル盤に刻まれた同曲の物凄い音圧!!
それは黒人音楽を集めている知り合いのマニア氏から聴かせていただいたんですが、自分が持っている掲載した日本盤なんて、全く問題にならないほどの「音の壁」が圧倒的に迫って来たんですから、完全降伏させられましたですねぇ~~♪
それが昭和53(1978)年の個人的体験で、リアルタイムでのフィル・スペクター全盛期が1964年頃までと言われていますから、すでに時間はかなり過ぎていた真相への邂逅だったというわけです。
また、ちょうどタイミングが良かったというか、その頃にロック喫茶で読んだ「ニューミュージック・マガジン」という音楽雑誌に、元はっぴいえんどの大瀧詠一が自ら連載していたフィル・スペクターの特集記事があり、これまた目からウロコの話がテンコ盛りだったのは勉強になりました。
ということで、結局サイケおやじがフィル・スペクターを知るようになったのは1970年代ですから、その時代にビートルズやラモーンズ等々をプロデュースしていた実績があったとしても、やっぱり1960年代前半の輝きには……。残された音源を聴くほどに、そんな印象が強くなるばかりで、それは現在も継続しています。
そして、ここから書くことは、おそらく大勢の皆様から顰蹙とお叱りを頂戴するはずですが、サイケおやじの素直な気持としては、フィル・スペクターの作るレコードは、どこかしらロックの音がしていないと思います。そこにハードロックも真っ青の音圧を響かせるシングル盤があるとしてもです。
その一例として有名なのがビートルズのアルバム「レット・イット・ビー」であり、同じ音源を使いながらブートでしか出回らなかった、グリン・ジョンズが纏めたところの「ゲットバック」という幻のアルバムを聴き比べれば、明らかに後者こそがロックそのものの音に感じられるんですよねぇ。
ちなみにグリン・ジョンズはストーンズやザ・フー等々をはじめ、数多くの名盤に関わったエンジニア兼プロデューサーとして、まさにブリティッシュロックのイメージを音で作り出した偉人という評価を鑑みれば、個人的には納得しているのですが……。
しかし、そこがポップスとロックの境界線だとしたら、フィル・スペクターこそ、極上のポップスを提供してくれる名匠であり、これからも信者を増やし続けることは間違いの無い事実と確信するばかり!
う~ん、正直、フィレスで作られたオリジナルシングル盤、コンプリートで欲しいなぁ~~~~。
そう切望しつつ、本日は暴言ご容赦、お願い申し上げます。